「練習する」
「そっか、頑張ってね」
「うん」
「僕に出来ることあったら─」
「じゃあぎゅーってして」
「ふっ、」
「なにー!」
「ごめん、ちょっとびっくりして」
そんな可愛いことを言った志乃にではなく、何となくその答えを予想出来ていた自分に、だ。
「してくれないの?」
「ううん、はい、」
「りんちゃんからきてよ〜」
「はいはい」
もう一度笑いを漏らしてから、両手を軽く広げたまま僕を待っていた志乃に抱き付いた。ああ、最近あんまりこうやって触れてないな、と気づいたのと体が離れたのはほとんど同時だった。
「……?」
「うん」
「ん、気を付けてね」
「……ちゅーしていい?」
「はい」
「ほっぺじゃない!」
「口が良い」と、言いながら僕の顎をつかんだ志乃は、そのままちゅっちゅっと可愛らしいキスを僕に落とした。まおを先に家の中へ追いやって、玄関先でキスをする。最初はヒヤヒヤしていたはずなのに、いつの間にか平気になってしまっている自分が怖い。いつ見られてもおかしくないのだ。でも、ひとつ言うならまおの教育上見せたくないということを除けば、別に見られても構わないと思うようになっていた。
志乃とのことを隠し続けるのは無理があるし、ただやはり、保育園児に見られるわけにはいかないから、どこか冷静なのかもしれない。
「ん、」
「かわいい。可愛すぎてやばい」
「かっ…やめてよ」
「照れたりんも可愛い」
「も、うるさい」
「りんちゃん」
「何?」
「……俺のこと、好き?」
「は、何…いきなり」
「良いから、答えて」
帰るんじゃないのかと思いつつ「好きだよ」と答えると、志乃は満足げに目を細めた。どうして急にそんなことを聞いてきたのか分からないけれど、もう一度、今度は志乃に抱きつかれてしばらくハグをしていた。
「俺もりんちゃん大好き」
「そう、分かった分かった」
「もー、冷たい」
「だって帰って練習するんでしょ?引き留めちゃダメかなって」
「引き留めてくれるの?」
そりゃあ、僕だって人並みには寂しさも感じるし、もう少し一緒にいたいなとかいられたら嬉しいなとか、思っているさ。でも、志乃が頑張ってるのを知っているし、だからそれを妨げることはしたくない。
「止めないよ」
「えー…りんちゃん」
「りんちゃーん?まだ玄関?はやくー」
「あ、うん」
手洗いうがいを済ませ、上着をきちんと脱いで鞄を下ろした状態のまおが、リビングからぴょこりと顔を出した。
「はるちゃんもー。入らないのー?」
「うん、俺は帰るね」
「えー!」
「また明日ね」
「うーん、ばいばい」
じゃあ、と少しだけ頭を傾けた志乃は僕にだけ聞こえる声で「明日、朝ネクタイ直してね」と呟いた。
「お、ぼえてたの、それ」
「忘れるわけないじゃん、今さっきのことだし」
「そういう意味じゃなくて」
あの場のノリみたいなこと…
「あー早く明日にならないかなあ」
「志乃っ」
「もー、いい加減はるか、って定着させてよ。焦るとすぐ志乃に戻っちゃう」
「うっ、」
「でも二人っきりの時ちゃんと遥って呼んでくれるの嬉しいから、どっちでもいいや。なんか特別って感じがして。あと、みんなの前でもたまーに遥って呼んじゃうの、ドキドキするし」
ああ、だめだ、ものすごく恥ずかしいことを言われているのに、コロコロ変わる志乃の表情を見ているとそれもどこかへいってしまう。
「じゃあ、帰るね、」
今度こそ、と自嘲的に笑ってから、僕の頭を撫でて志乃は帰っていった。
「りんちゃーん、きてー!」
「なに、どうしたの」
「見て、つくった!」
「どれどれ」
この可愛い天使に、いつか物心がついたら…僕は上手く説明できるんだろうか。小さな手が差し出したカボチャのお面を見つめてそんなことを思った。そして、それが何年先なのかはおいとくとして、そこまで僕と志乃が一緒にいることを前提としていることに一人赤面してしまった。
「りんちゃんつけてー」
「はい…」
「かわいいー!」
そうか、そうだな…
「お菓子くれないといたずらしちゃうぞ〜」
「きゃー!まおお菓子もってないよー」
走り回る小さな体を追いかけると、きゃっきゃっと楽しそうな声が家に響いた。その頃にはもう明日の朝ネクタイをどうこうということは忘れていて、いつも通りやって来た志乃を見ても思い出さなかった。ただ、「行こっか」と僕を振り返ったその首元の開きが気になって、反射的にネクタイに手を伸ばしてからはっとした。
「新婚さんだね」
「〜!」
たちが悪い。はい、やって。と言われればそりゃ思い出すさ。だけどまるでそんなことをやらせようとしていない風を装われちゃ、分かるものも分からない。きっと昨日劇の練習をして、演技力まで身に付けたのだ。きっとそうだと、勝手に決め込んでいつも通り三人で、家を出た。
─ to be continue ..
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