「そうだよ、迷惑だから、やめて」

「っ、志乃」

「そっか、ごめんね。じゃあ、またおうちに連絡入れるね」

いや、それも迷惑なんだけど、なんて言えるはずも言う勇気もない僕は一方的に「またね」と言って遠ざかるセーラー服を見送るしか出来なかった。翻る紺色のスカートと、清潔感のある白い半袖のセーラー。宮木さんぽいなあと、冷静に思いつつも、動揺は隠せなかった。
花火の時は宮木さんとわかれてすぐ花火が上がったから追及されることはなく、中学の知り合いだよ、で済む話だった。でも今は…

「……」

まだ鳴き声をあげるセミがいなければ、この静寂は耐えられなかったかもしれない。首筋を伝った汗に、これは暑さの所為だけじゃなくて変な緊張をしていたのだと悟る。

「りん」

「、ん?」

「まおちゃん、待ちくたびれちゃうよ」

「う、ん…急ごう」

じとりと、汗の滲んだ掌を隠すようにぎゅっと力を込めて拳にした。不機嫌と不安を混ぜたような顔をした志乃を横目で盗み見しながら歩いた保育園までの道のりで、その形の良い目と視線が絡むことはなかった。やっぱり、不機嫌だ。それはまおと手を繋いでからも、家に到着してからも、変わらなくて。

「まおー、まず手荒いうがいだよ」

「はーい」

嫌だな、と思いつつも自分から聞くこともできない。どうしたもんかと靴を脱ぎ、志乃も洗面所へ行くよう促した。

「……」

「、は、るか?」

「りんちゃん」

けれど逆に僕が志乃に捕まり、壁へと追いやられる。圧倒的な威圧感とは裏腹に、僕を見る目は不機嫌なものから情けないものへ変わっていた。

「どうしたの、」

「…やだ」

「え?」

「やだよ、」

「なに…」

するり、大きな手に両頬を包まれて、逃げることを許されなくなった僕は近づく志乃の顔をぽかんと見つめていた。ふにゃりと重なった唇が一度離れ、また重なるまで。

「っ、え、な…どうしたのほんとに」

「んーん、もっと」

「もっ─」

色っぽく潤んだ瞳に自分が映る。なんとも間抜けな顔をしている。おまけに顔も体も熱を帯びてきて、暑い。でも、いつまおが戻ってきて見られるかわからないという状況に、思考だけは冷静だった。

「はる、ん…ぅ、あ」

「りん、もっと」

「だっ、め…まお、が…」

「まだ、ね、りんちゃん」

食べられる、と思うようなキスだ。それはいつの間にか僕の口を外れ、耳たぶや耳裏を蛇行し、そしてネクタイの絞められていないシャツの襟元を割った。

「遥っ、や…め、」

ちくりと小さく刺すような痛み。ああ、これはあれだ、キスマーク。まおに指摘されて以来つけさせないようにしていたはずの、キスマーク。しかも…

「あっ、ん……う、」

ひとつ、どころじゃない。首筋、鎖骨、そして肩。ちくりちくりとそれは移動し、労るように熱い舌が撫でていく。ただでさえ力で勝つ自信はないと言うのに、完全に力の抜けてしまった僕の体では、この獣は引き剥がせない。

「はる、お願い…も、離し─」

「りん、どうしよう」

「、」

「俺もう、ダメかも」

「へ、あ…」

やたらとクリアに、志乃の声が響いた。ぎゅう、っと音がするほど強く抱きすくめられ、それがなんだか愛しく感じて背中を撫でてやった。一体何がダメなのか、聞く間もなく志乃はポツリと声を漏らす。

「欲しくてたまんない」

何が、なんて、それこそ聞けるわけない。この状況で、真顔でそんなことを聞けるほど僕は天然じゃないし、鈍感でもない。直視してる場合じゃないのに、体が固まって動けなかった。

「り─」

「りんちゃーん、はるちゃーん、ちゃんと手荒いうがいしなきやだめー!」

「っ、!あ、うん!」

まおの無邪気な声に、弾かれたように志乃の体が離れた。僕もその反動で顔をそらし、靴を脱いで廊下を進んだ。

「風邪引くから、ちゃんとしなきゃー」

「うん、そうだね。まおは偉いね」

「えへー」

これは、やばい。
心臓がうるさい。志乃を見れない。志乃が見つめてくるから、ちらちら見てしまうんだけど。そんな、ぎこちない僕らを気に留めた様子のないまおはいつも通り絵本を読んだりアニメを見たりして、ご飯の準備を僕に催促した。
僕の頭のなかは志乃でいっぱいいっぱいだったけど、もうひとつあるじゃないか。そう、宮木さんだ。突然やって来て、校門で待っていたじゃないか。ただ本当に僕に用があったとして。けれどそんなのどうでもよくなるほどに、志乃のことを気にしてしまっていたら…そう思うと怖くて、不安だ。志乃の気持ちどうこうではなく、僕は僕に自信がない。そう、自信が…

志乃が帰り、まおが眠って静かになった部屋で一人、眠れない夜を過ごした。12時を過ぎて寝てないなんて、僕にとっては異例で、変な焦りさえ感じる。そう思い始めたら余計寝れなくて、しかもお風呂で目の当たりにしたキスマークが、まぶたの裏に焼き付いているみたいで困った。結局、まあ金曜日だし、多少寝不足でもいいかと、数十分ほど浅い眠りについた。



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