「え、音羽まさか…知らなかったのか?」
声が出せなくてこくこくと頷くと、「遥には、俺が言ったこと内緒」と口を押さえられた。僕だってそうなんだからからかいもないんだけど。それに僕はそれを隠さなくたって周りは察しているだろうし。そこのところ、僕と志乃では、訳が違う。
「ほら、遥ああ見えて女関係はちゃんとしてた、って話しただろ?もちろん彼女がいたときもあったけど、そういうことはしてないって」
「……志乃が、ど…」
あれだけ男前で、周りが放っておかないほどなのに…そんなこと、女の子達が知ったら大変じゃないか。我先にと、志乃の初めてを手に入れようと、犯罪が起きそうな気さえする。
「まー…そうだよな、知らなかったら動揺する、か」
「ご、ごめん、なんだか信じられなくて」
「今、遥の身に危険を感じただろ」
「え、うん…」
「その通り。遥も相手から寄ってくるんだから少しくらいはめはずせばよかったのに。しないから」
“誰からも憧れる志乃遥”“誰もが振り返る容姿を持つ志乃遥”なんだから…でも、なんとなく…今の志乃を思えば、堅実なタイプなような気もする。誰かに好意を向けられていても、あまり気付かなさそうだし。ただ鈍感なだけかもしれない、という線も捨てきれないが。
「まあだからと言うかなんと言うか…相手にされない女子達が見栄張ったり意地張ったりで、遥が“童貞”だなんて誰も思ってないわけ」
…つまり、あることないこと広がって、遥とキスした、わたしなんて抱き合った、いやいやわたしは…と、いうことなんだろうか。
「呆れるだろ」
ありえる。十分にあり得そうで怖い。
「ただ、アイツがそういうの大事にしてるってことは本当だし、今はそういうの、音羽だけだと思ってんだろうな」
「っ…」
「友達としてそういうのむず痒くて、ふざけんなって感じなんだけど」
「……」
「ひとつ言うとしたら、初めてで最後までは難しいと思うから気を付けろよ。ほら、いろいろと、なって…音羽?」
やばい、顔、真っ赤だ。
思ったときにはもう遅くて、言葉を返さなくなった僕を不信に思ったであろう樹くんがぐっと顔を覗き込んできた。こういうとこ、志乃みたいだ。類は友を呼ぶ、というやつか。なんて、そんなことを考えながらも、一応羞恥心というものは残っていて。僕は慌ててペットボトルを持ったままの腕で顔を隠した。汗をかいたペットボトルに指が滑って落としそうになったけど、なんとか力を込めて。
「……はあ、悪い」
「っへ…」
「そうだよな、音羽も音羽、だよな」
どういう意味、とも聞き返せないまま樹くんは僕から視線をそらして前を見据えた。もうすでに、屋台と雑踏の中だった。
「あ、いた」
「あっ、ご、ごめんね、友達…」
「別に、音羽もこの辺?」
「うん、あっち、降りたところ」
樹くんの友人がどの人なのか、この人混みでは検討もつかないけれど。たぶんその人はまだ、樹くんに気づいてないんだろう。こちらを見ている人は見つからない。
「……もしかして、志乃のことも誘ってた?」
「遥?いや、誘ってないけど。場所も場所だし、音羽と行くだろうと思ったし」
「そ、っか…」
悪いことしたかな、と思って一瞬爪先へ視線が落ちた。友達がどうとか、異性関係がどうとか、あんまり志乃に対して口を出そうとは思わないんだけど。こういうのはなんだか、申し訳ないような、そんな気持ちになって。
「なんで音羽が落ち込むんだよ」
「な、なんとなく…」
「気にする必要ねえよ」
友達、か。
「じゃあ、またな。あ、遥に、俺と会ったとか詳しく言わない方がいいかも」
「……うん、会ったよ〜ってだけ言っておくね」
きっと、たくさん話しながら一緒に歩いてきた、なんて言ったら拗ねてしまうだろうから。これからまおと三人で花火を見るのに、微妙な空気になるのは勿体無い、そうしよう。
軽く手をあげて僕に背を向けた樹くんはゆっくり人の隙間を縫って、電柱に凭れて立っていた人の元へ向かった。顔はよく見えなかったけど、やたら背の高い人だった。志乃よりも大きいかもしれない。そう思って一瞬目を離した隙に、もう二人は見えなくなってしまい、僕はまおと志乃の待つ土手を降りた。
夏も終わりだ、日が少し短くなった気がする。夏至を過ぎれば確かに短くなるのだけど。夜出歩く、というのがほとんどないため、あまり気にしておらず余計にそう感じるのかもしれない。
「し─」
「う、わっ!」
「あっ、すいませ… 」
もう数メートル、すぐそこまで近づいて声を出した途端。すれ違った人にぶつかってしまい、手にしていたペットボトルが落ちた。土と草の上を滑って転がったまおのリンゴジュースが、闇に消えそうになる。
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