息がかかりそうなほどの距離まで、志乃の顔が近づいた瞬間だった。

「よ、呼ばれてる!」

形の良い目、綺麗すぎる肌、長い睫毛、柔らかそうなはちみつ色の髪。いつも以上に強く匂う香水、とにかく全部が僕の胸を騒がせた。そして同時に強い劣等感いや、劣等感を抱くのも厚かましいと思えるほど、同じ人間で同じ男だなんて誰も思わないほどの違いに、急に恥ずかしくなった。

「え、 おと…」

突然の呼び出しの内容なんてどうでも良かったけど、このタイミングで呼び出してくれた生徒会には感謝するしかない。志乃の胸を押し退け、勢いよく走り出せば、呆気にとられた志乃は尻餅をついたまま。追っては来なかった。

なんなんだろう、一体…体力なんて元からないけれど、この胸を締め付けるのは走って疲れた所為ではい。頭から、志乃の声が離れない。至近距離で僕を呼ぶ、声。そして感じた熱い息。

手の甲はまだ、熱を帯びている。

「はぁ、は……はぁ…」

変だ…
いくら顔が綺麗だからって、こんな…
志乃遥はじわりじわりと、僕を侵食していく。

“生徒会室”

「ごめんね突然。実はさ、音羽にお願いがあって」

乱れた呼吸を整えてから開いた生徒会室のドア。
そこにはニコニコしながら僕を見る、副会長の姿。昨年同じクラスでいつも一人だった僕によく声を掛けてくれた唯一の存在だ。

「え?」

突然向けられた言葉を理解できないままその距離をつめ、「なに」と問うと「音羽にお願いがあるんだ」と、もう一度同じ言葉が返ってきた。

「お願い…」

“副会長:森嶋 碧(もりしま みどり)”
胸元につけられた小さなネームプレートに書かれた名前を一瞥してから、森嶋の顔を覗き込む。

「音羽一組の学級委員だろ?あの…志乃遥のことなんだけど」

どきんと、大きく脈打った心臓。
数分前の、志乃のドアップが甦る。

「し、志乃?」

「うん?どうかした?」

「あ、いや…別に…」

このタイミングでその名前が出るとは…

「音羽が狼狽えるなんて、珍しいね」

ノンフレームの眼鏡を押し上げて、森嶋は不思議そうに僕を見た。

「なんでもないよ。それで、し…志乃が、なに?」

“学級委員”がよく似合う、真面目で大人しい“音羽凛太郎”は、偽りのものではない。よく言えばそんな表現になるだけで、言い方を変えれば地味で根暗で真面目だけがとりえ。面倒なことは押し付けよう、文句も言えないだろうし、と思われているわけで。

「ああ、志乃くんって、見事な金髪でしょ?流石にあんな頭じゃ後輩に示しがつかないから…せめてもう少し、暗い髪色にしてほしいんだ」

「……え、で?」

「え?音羽から志乃に言ってもらえないかな」

「……っは?」

「音羽学級委員だし志乃と仲良くしてるみたいだし、ね、頼まれてくれないかな」

整えられた黒い髪を揺らして、嶋森は懇願するように僕を見つめ返してきた。森嶋とは去年一年間で仲良くなれた、この学校の中で友人と呼べる、唯一の存在。そんな森嶋の頼みとなれば、進んで受けたい気持ちがないわけない。ただ…

「…僕から言っても、変わらないと思うけど」

「会長からも頼まれてるんだ。志乃ってすぐ手が出るらしいから、生徒会もちょっと尻込みしてて」

志乃遥に、髪を黒くしろ、って…それを僕に言えと?考えただけで、震える。でも、手を出される気はしない。意見するなって言われる気はしないでもないけれど…


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