“、あ…ありがとう”

きょとん、と前髪とマスクの隙間から覗いていた目が見開かれて、けれどすぐに差し出された手。大きくて、骨ばった、男の子の手だった。そんな手の、指の付け根の関節が赤かったことに気付いて、思わずその手を凝視した。

“怪我してる”

そう呟いた僕に彼は気まずそうに手を引っ込めた。その所為でまたシャーペンは床に落ちてしまい、二人して拾おうとしたから、しゃがみ込んだ先でまた手と手が触れた。僕はその頃にはすでに、絆創膏を常備していて。その時も、“血が出てる”と気づいて反射的にポケットから絆創膏を引っ張り出していた。大丈夫だと、軽く拒絶されたけど、それでももう貼る寸前だったそれは、そのまま簡単にはがれてしまいそうな指の付け根におさまった。

“ちゃんと消毒しないと、膿んじゃうよ”

妙に小さく見えた絆創膏だったけど、彼には似合わないうさぎ柄の絆創膏だったけど。彼はそれをじっと見つめていたけど、文句は言わなかった。それで満足した僕は、速やかに少し前方に遠ざかっていた見学者の波に戻った。

ああ、あの時の子じゃないか。と、不意に思ったのだ。この、黒い髪と、僅かに見える目元に。ポツリ、言葉を零した僕に、志乃は目に涙を浮かべて、キュッと下唇を噛んだ。

「……受験の日も、会ったね」

「、」

そう、志乃は話してくれたじゃないか。校門の前で、あと一歩が踏み出せなくて、躊躇っていたら声を掛けられたって。少し強引に、引っ張られて中に入ったって。それは紛れもなく、僕じゃないか。

「ごめん、忘れてたわけじゃないんだ」

「ううん、いいよ」

「本当に、違うよ。あの日母さんが熱出しちゃって。朝、予定より家を出るのが遅れたんだ。遅刻するほどじゃなかったんだけど、それでも慌ててて…」

凍えるような寒さの中、遅いなりに必死に走ってたどり着いた学校。試験会場であるそこの校門の前で、中へ入っていく同志とも、ライバルともとれる受験生の背中を見送る学ランが目についた。何をしているんだ、遅れちゃうぞと、自分が焦っていた所為でその男の子にまで焦ってしまったのだ。だから、僕は“忘れ物?”なんて声を掛けてしまった。、けれどその人の顔はマスクと長めの前髪でよく見えなくて。ただ、そのおかげというかなんというか、前にも見たことがあるなと思った。ああ、あのシャーペンの子か、この子もここを受けるのか、一瞬のうちにそれだけ考え、けれどすぐに思考は迫ってきている受付時間に戻っていた。

そしてなかなか足を踏み出さない彼に、じれったくなって少し強引に腕を引いた。

“まっ、”

“早く、入ろう”

“……”

“そんな顔してちゃ、ダメ”

するとその体は、見かけによらず簡単に動いて。僕は安心して手を放し、校舎の中へ駆け込んだ。

「あのあと、手に血がついててね、驚いたんだ」

「えっ、」

「ほんの少しだけどね。あの子また怪我してたのかな、って。試験が終わって見かけたら絆創膏あげようと思ったんだ。だけど、家に着くまでに見かけなかったから、結局そのままだった」

そして、入学するころにはその記憶は希薄で。もちろん、忘れてなどはいない。ただ、入学した学校でその子を見ることがなかったから、ああ、落ちたのかもって。それで、僕の思考は停止して、前に進むことも、改めて深く考えることもなく、その場にぽつんと置いてきてしまったのだ。だって、まさかその時の彼がこの有名な“志乃遥”だなんて思わない。髪型や色も違う、背もまた伸びていてサイズ感も違った。同一人物だなんて、微塵も考えなかった。それが、答えだった。

「遥、だったんだね…ごめん、気づけなくて」

志乃は、気づいてくれていたのに。…いや、違う…確かに志乃の記憶の中にも、僕の記憶の中にも、お互いがいたとして…それで、何だったっけ?それで…結局それが、なんだった?一気によみがえった記憶とピタリと埋まった空白に、頭のなかはいっぱいになってしまった。そんな僕に、今度は志乃がぽつりと言葉を落とした。

「俺ね、あの見学の日からりんのこと気になってたんだよ」

濡れた髪が、ぽとりと滴を落として少し項垂れた。

「大袈裟かもしれないけど…前に話したでしょ、俺こと。あの時の俺にはね、りんがほんとのほんとに、キラキラしてて優しくて、嬉しかったんだよ。それからね、一目惚れ…だった。 だから、この学校に来なきゃ、受からなきゃ、って。それで頑張ったんだよ。もし受かっても、あの子が居なきゃ意味ないって思うくらい。でも、俺にはそれしかできなかったし、結果的にそれは、間違いじゃなかった。受験の日にまた会えて。…こうやって、仲良くなるのに時間かけすぎちゃったけど、でも、俺はずっとりんのことみてたし、好きだったよ」

「あ、」と思った時には、遅かった。志乃の指に促された顎が、抵抗もなく上を向く。


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