「あっ、ご飯、俺が作る、から…」
なんとなく、それは、いつもと違うような気がした。この暑さに、日差しに、雰囲気に、やられたわけじゃないけれど、僕はそれを受け入れて、「うん」とだけ、返事をした。
「傷、洗おう」
「ん、」
「他は?怪我してない?」
「たぶん、してない」
シャワーを浴びてから志乃の手を見れば、やっぱりそんなに深い傷ではなかった。でも浅い傷も地味に痛いものだ。消毒をしてから絆創膏を貼り、なんだか久しぶりだな、なんて事を一瞬思った。まあ、この暑さだから汗をかけば簡単に剥がれてしまうだろうけど…服やタオルを血で汚さない役目は果たしてくれるはず。
「よし、剥がしちゃダメだよ」
「はーい」
「じゃあ着替え─」
大きな手を離し、素直に返事をした志乃を見上げたら、言葉が喉に詰まった。黒い髪に、タオルで隠れた口元に、伏せられた目に、睫毛に。
「っ、」
どこかで、見たじゃないか。
ふと、頭をよぎったその感覚に、からだの動きはついてこなくて。ほんの数秒だったかもしれないけれど、僕は呼吸もまばたきも忘れて、忙しく回転を始めた脳内に、意識を集中させた。
「…りん?」
「……」
そこからは、早かった。 志乃に重なって見えた、いつかの記憶。それは、忘れていたわけではなくて、ただ今目の前にいる“志乃遥”と繋がらなかったから、考えが及ばなかっただけだ。だから…
「どうしたの?具合悪い?」
「分かった」
「え、なに…が?」
不安げな志乃の目が、僕を覗き込んで情けなく眉を下げた。
「……」
「ペン…」
「へ?」
「ペンを、拾ったんだ」
「、り…」
“落としたよ”
声を掛けたのは、僕だった。
「学校見学の日」
そう、夏真っ盛りの暑い日だった。
中学三年の夏休み、高校の見学。
見知った顔なんてなくて、だから余計目についた。やたら背の高い子がいるな、と。自分が周りより小さいことを差し引いても、だ。他にも何人か大きい子はいて、成長の差が現れる年頃なんだな、ってなんだか他人事みたいに考えていた。そう思って見ていた一人 が、志乃だった…ということか。
ひどく暑い日だったのに、その人はマスクをしていて、手にはペンを一本握りしめていて。ルーズリーフを一枚折りたたんでシャツの胸ポケットに入れた。そのときペンがカツンと床に落ちて。それは校内の案内中で、同い年の制服はそれぞれ波にのって廊下を進んでいて。
その流れの中で、ペンを落とした彼に、“落としたよ”と、新品の様に綺麗なシャーペンを拾って手渡した。
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