「志乃っ」
「君さ、名前は?」
「っく、そ…てめぇ…」
「くそ、てめぇ…それが名前?覚えておく」
どこまで皮肉をいうのか…
唸りながら体を起こした男は、志乃をこれでもかというほど睨んで去っていった。忘れてはいけない、志乃は喧嘩が強いのだ…
「って…志乃、血が…」
目の前に垂れていた志乃の手。大きな手の甲、人差し指と中指の付け根から血が滲んでいた。
「え?殴ってないのに…」
「絆創膏、あるから手貸して」
スラックスの後ろポケットに突っ込んでいた財布を広げ、常に数枚持ち 歩いているそれを取り出す。慌てる僕に、志乃は少しだけ躊躇ってから手を差し出した。
「手、叩かれたとき、くそくんの爪当たったのかな」
この男は、本気でそれを名前だと思っているのだろうか…そうだとしたら、目眩がするほどの天然だ。天然というか、天然ばか…なのでは…
「…音羽、いつもそれ持ち歩いてるの?」
「え?あ、これ?うん」
「そんなに、転ぶの?」
「そういうわけじゃないけど。…はい、おしまい」
妹の為、だろうか。まだ五歳の妹の。小さくて、よく転ぶから。絆創膏は痛みを和らげてなんてくれないけど、不思議と、貼るだけで涙を止めてくれる。おまじないのようなものだ。
「…志乃?」
貼りづらい場所になんとか貼り付け、手を離した。つもりだったけど、志乃の手に捕まり、思わずどきりとしてしまった。
僕より何回りも大きな、その手に。
「可愛い手だね……暖かいし… 」
「しっ、の…」
丁寧に指を絡められ、体の距離もぐっと縮められる。
「……かわら…い、ね…」
「あっ、なに…」
小さな声でなにか呟いたあと、僕の手は志乃の口元に導かれ、そのままぶつかった。柔らかい唇の感覚が、手の甲に広がる。何を言ったのかと、問うこともできないで、ただ呆然とそれを見ていた。 ちゅっ、なんて可愛らしい音をたてたその唇は、離れてから綺麗な弧を描いた。思わず顔が熱くなるのを感じて、視線を逸らす。
「何、して…」
手の甲にキスなんて、どこの国の王子様だ。何の話の王子様だ。そもそも、僕はキスだってしたこと無いのに…モテる男はこうやって男にも甘く接するんだろうか。
焦る僕をよそに、志乃は握ったままの手に力を込めてきた。ダメだ、真っ赤な顔をしているであろう自分を、見られたくない。
「し、志乃っ離し…」
「音羽、顔見せて」
どうして男相手に、ドキドキしなきゃいけないんだ…
「っ」
『二年一組、音羽凛太郎くん、至急生徒会室まで来てください。二年一、音羽凛太郎くん、至急生徒会室まで来てください』
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