「おはよう!りん!!」
「おはよう」
「天気良くなるって!」
「そう、よかった」
日曜日、午前7時。志乃は太陽より眩しい笑顔でやって来た。
こんなに早く家を出る必要があるのかとは思ったけれど、それはたいした問題ではないし、その方が僕としてもありがたい。まおと母さんにお弁当を作るために、いつも通り起きるわけだし、早く出た方が一日が長く感じられるし志乃とも長く一緒に…
「って……」
本当、これこそが大問題なわけで。
「りんどうしたのー?体調悪い?」
「あ、ううん、平気。まだ出れないから、あがって待ってて」
既にお弁当はできていて、僕の準備も万端。
けれど、母さんがまだ少し寝ぼけている。この状態で置いて出ていったら、絶対なにか忘れ物をしていくのが目に見えるほど。だから母さんの荷物とまおの荷物をチェックして、必要なものが欠けていないかを確認しないと。
「あらー、はるちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「はるちゃーん!おはよう!!」
「おはよう、まおちゃん」
「まおねー動物園だよー!」
「楽しみだね」
「うん!!楽しみ!ライオンさん見てくるの」
「ライオンさん好きなの?」
「好き!でも一番はコアラさん!りんちゃんみたいでしょー?」
「え、」
「りんちゃんみたいだね」
「ちょ、し…」
興奮しきったまおと、同じくらいテンションの高い志乃。ただでさえ暑さで辛いのに、その場所はさらに温度が高い。母さんはそんな二人を微笑ましく見つめてるだけで、涼しい顔をしてる。見ていてもいいから早くしっかり目覚めてほしいのだけれど。
「はるちゃん、今日一日りんちゃんのことよろしくね」
「あっ、はいっ!」
「楽しんできてね」
「ありがとうございます」
「うふふ、じゃあまお、そろそろ行こっか」
「行く!」
「あ、待って待って、これ持ってかなきゃ」
「あら、ありがとう」
母さんの手をしっかり握って、「いってきまーす!」と満面の笑みを浮かべたまおに、なんだか胸の奥がきゅっとした。二人の背中を見送る、という経験が乏しいのと、けれど穏やかでいられたからかもしれない。玄関を出て、その背中が見えなくなるまで僕はその場にいた。志乃に「俺たちも行こう」と言われるまで。
「りん、日焼け止め塗ったー?」
「塗ってない」
「塗らないと後から痛いよ?」
「うーん、大丈夫だよ」
「りん色白いから、赤くなって皮とか剥けちゃうよ」
「毎年のことだから大丈夫だって」
そもそも色が白いのは単純に、あまり出歩いていないからだ。この暑い日差しをほとんど浴びていないから、たいして日焼けをしない。アクティブでもないから、まおをつれて公園に行くのも、日差しが弱くなってからしからだし。それに、休みの間誰かと肌の色を比べるような機会もないし、とくに気にしたことはなかったけど…確かに、志乃より白い。志乃だって、そんなに焼けているわけではないのに。
「……」
「りんちゃん?」
「…むしろ、焼こうかな」
「知らないよ、明日全身痛くなっても」
柔らかく微笑んだ志乃を見上げ、まだ慣れない黒い髪にふとなにかが脳裏を掠めた気がした。金色の、飴色に透ける髪はそこにないのに。
「ね、髪…」
「ん?」
「どうして、染めたの」
「やっぱり変だった?」
そうじゃない。
最初に問うたときも、そう言われて答えをはぐらかされた。だからまだ消化しきれていないんだろう。最寄りの駅までの道のり、志乃は数秒考えてから「目立つ、から」と、言葉を落とした。
「え?」
「金髪。こうやって歩いてたら、目立つでしょ?今日も。せっかくりんとお出掛けなのに、怖い人たちに目付けられて絡まれたら嫌だなって」
金髪は、“志乃遥”の象徴のようなもの。志乃のことを知っているひとならば、確かにそれを目印にするだろう。逆に、知らない人は…ただの通りがかりの人達は、この圧倒的な存在感に目をひかれるに違いない。どうしようもなく目を引くのだ。
「それ、って…」
その横に僕がいるのは、変、とか…見られたくない、とか…なんて、そう考えた僕に、志乃ははにかみながら答えた。
「りんに何かあったら、俺自分抑える自信ないの。俺の所為でまたりんに怖いさせちゃうとか、喧嘩してるとこ見せちゃうとか。この前樹といて絡まれたとき、相手がね最初に目についたのは金髪だったって分かって…今日はいつもより特別だから、念のため!」
「特別…」
「そう、特別なんだよ、りんちゃん」
「っ、」
加速する心臓の音がうるさくて、高く登り始めた太陽の日差しが痛くて、僕は爪先へと視線を落とした。かたく握った手には、じとりと汗が滲んでいて。それでも志乃は、気にした風もなくそんな僕の手をとって駅へ続く道を進んだ。さすがに、駅につく頃には離されていたけれど、それでもぴったりと横にいてくれる志乃に、安堵した。本当、大型犬のような感覚だけど、この安堵は本物だ。
それからすぐ、ホームに入ってきた車両に乗り込み三駅目で電車を乗り換え、僕らは向かい合った座席で朝ご飯を済ませた。海苔で動物の顔を書いたおにぎりと簡単なおかずだけだけど、志乃はとても喜んで食べてくれた。
「混んできたね」
「みんな、海かな」
「一緒だね」
少しずつ密度の濃くなる車内だったけれど、しばらくして窓の向こうに海が見えてきた。家族以外の誰かと、学校行事でもなく、こうして二人きりで電車に乗って、遠い町へ。なんだか変な感じがするし、どことなく不安にもなるけれど、にこにこと笑いかけてくる志乃に、それも曖昧にぼやけていく。
「あ、次の駅で降りるよ」
「分かった」
「切符、ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ」
いつもと立場が逆だと思うと笑えてきて、でも、いつもこうだったら、別人みたいだ。別人みたいで、寂しいかもしれない。
「よし、行こう」
「うん」