05
雨の降っていない日、紺野は必ず保健室前の花壇の前に立っている。
土やアスファルトの濡れた匂いと、虫の鳴き声と、噎せ返るような蒸し暑さの中。じっと雨に濡れた花弁を数えていたり、虹を探すように辺りを見渡していたり。俺はそれを知っていて、あえてそこを通って裏門から下校する。
「あ、折原。また来たの」
「ひっど。帰るのに通るだけだよ」
「そう」
「虹あった?」
「ない」
「残念じゃん」
「いいよ、別に」
「でも、虹探しくらいしか楽しみないでしょ」
「あはは、なんで知ってるの」
白衣の裾を揺らして紺野が笑う。
右手にはうちわを持っていて、暑いのならその白衣を脱げばいいのに、と言いそうになる。どちらにしてももう退勤時間だろうから、俺がとやかく言う筋合いはない。ぱたりぱたりと、とてもゆっくりうちわを仰ぐ紺野は「後は紫陽花見るのも楽しみだけど」と小さく零した。
「花好き男子かよ」
「どうかな〜紫陽花は好きだけど、特別詳しくは無いし」
「ふーん」
「折原、傘は」
「今日持ってこなかった。電車だし」
「もう一雨降りそうだけど」
「いいよ、駅からすぐだし。濡れても帰るだけだし大丈夫」
「あるから持っていきなよ」
「借りたら返さないとだめじゃん」
「毎日来るんだからついでじゃん」
「喋り方真似すんなって」
「ごめんごめん、ほら」
紺野はいいのかと問うと、これは保健室のものだし自分の傘はちゃんと持ってきていると透明のビニール傘を押し付けられた。仕方がないから受け取ると、紺野は白衣の袖から手首が見えるくらい伸びをした。眼鏡が少しずれ、光の当たったそれがひどく綺麗なことに気付いた。指紋の一つや二つ、この男ならついていそうなのになと思ったことは飲み込み、足元の花を一瞬見てから一歩後退した。
「ほら、降らないうちに帰りな」
「紺野先生ってさ」
「ん?なに、帰りたくないの?」
「…そう、帰りたくないな〜」
「折原のそういうところ、僕も見習いたいよ」
「え〜?」
「女の子にもそうやって甘えれてるの、羨ましいなって」
「馬鹿にしてる?」
「してない、ほんとに、そう思っただけ」
ほら、もう帰りなさい、と向けられた背中で揺れた白衣を掴むと、紺野は振り返らないまま足を止めた。
「大失恋してそうだよね、って言おうと思った」
「……」
「なんか、童貞って言っても別に怒らないし、彼女とかの話も当たり前に居ないって逸らすし。いっつも、そうやって一人でボーッと景色眺めてるし」
ぽとり、頬に雨が落ちてきた。
紺野は「ほら降ってきちゃったよ」と話を逸らし、ゆっくり俺の手から逃れた。
「大失恋がどんなものか分からないけど、付き合ってた人に浮気されて、一年気付かないでいたら浮気相手との子供が出来たからって。振られて、けど、相手が自分の友人で、結婚式まで招待されたことはある、かな」
「……」
「それだけ。大失恋ってほどじゃないね」
そんな嘘はつかないだろうと思いながらも、なんとなくそれは全てが本当のことではないような気がした。けれど降りだした雨に、早く帰れという空気に、俺は大人しく傘を差して学校を出た。
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