17
六月の夜、雨の冷たさに目が痛くなる。もう黄ばんでしまったビニール傘をその人に開いて差し出すと、白いシャツに緑のエプロンをしていたその人はゆっくり顔を上げた。
「、」
「……」
「折原…?」
「……傘」
「え?」
「傘、返しそびれてた、から」
「……なんで、え…?」
「たまたま、通り…かかって」
「あ、そう…」
「ん、遅くなってごめん」
七年ぶりの紺野はあの日と変わっていなかった。
吉村と同じくらい、そのまま、だ。
俺は紺野を見つけた興奮と、嬉しさと、それから傘を返す寂しさに、声が喉につっかえてしまった。情けない、震えた声だった。
「…ありがとう。でも、今夜もまだ雨だよ」
「紺野、あのさ…」
「安物の傘だし、捨ててもよかったのに」
「紺野」
「ちょっと待ってて、タオル─」
「おめでとう」
「え?」
「結婚」
「……は?」
「したって、聞いた」
「え?…誰に?誰が、結婚?」
「吉村が、結婚式場で会ったって」
「吉村…あ、あー…吉村くんか」
紺野は心底驚いたように目を見開いて、それから「僕のこと分かったんだ」と笑った。その目元に、眼鏡はない。長い睫毛に縁取られた目が形よく細められ、騒がしいネオンにその中の目がキラリと光る。
紺野は俺の差し出した傘をゆっくり掴み、俺の方へと傾けた。
「僕は良いから、折原が使って」
とても落ち着いた声だ。
傘を突き返してきた左手に、指輪はない。
「花屋」
「、え」
「花屋、してるんだ、今」
「……あ」
半分だけ降りたシャッターから僅かに見えた店内はその言葉通りだった。こんなところに花屋があったのか。いや、こんなところだからこんな時間まで営業していて、こうして見つけることが出来たのだ。
「先生、は」
「やめた。全部一からやり直そうと思って。あの頃住んでた場所からは遠いけど、ここ、祖父から貰ってこの場所で花屋もありだなって。式場も、取引先で…まさか、吉村くんに会うとは思わなかったけど」
変わらない。それでも落ち着いた、と感じるだけの老いはあって。相変わらず冴えない髪型なのに、丸いおでこが前よりよく見える。それだけで、やっぱり若く見えるのかもしれない。
「結婚はしてないよ」と、目を伏せた紺野の濡れた髪に触れると、ちゃんとサイズのあった服を纏う肩がピクリと揺れた。
「……紺野、先生」
「もう、先生じゃないよ」
「俺、言いそびれてたことが、あって」
水飛沫を撒きながら車が横を走っていく。
スラックスの裾はびしょ濡れで、靴の中もじゃぶじゃぶ言い出しそうなくらい濡れてしまっている。明日は違う靴で出勤しなければいけないかもしれない。
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