紫陽花の恋 | ナノ


14





どんよりとした空は、それでも雨をギリギリのところで堪えている。空気は湿気を帯びた独特のにおいを漂わせていて、鼻の奥がつんとした。
一度鼻の付け根を押さえてから、うろ覚えの道を進んだ。時間にして数分でも、ほとんど知らない入り組んだ道を行くのはドキドキする。
あの日、アパートから駅まではあっさり帰れたのは、大きな通りに出てしまえば迷うことがないからで。逆は緊張するものなんだなと、改めて思った。

まだ新しそうな綺麗な外観のアパートを見つけ、案内された部屋へ続く階段を上る。真ん中あたりのドア、“紺野”という表札はなかったけれど確実にここだ、と確認してからインターホンを鳴らす。ピンピン、と安っぽい音がドアの向こうで響くのがよく聞こえた。こういうセキュリティの甘そうなところが紺野らしいといえば紺野らしい。
しばらくの沈黙の後、何の応答もないことに焦ってもう一度インターホンを押すけれど、状況は変わらなかった。

「紺野!」と、ドアを叩いても返事はなく、この向こうに人の気配があるようにも思えなかった。嫌な予感、がした。もしかして部屋も移ってしまったのかもしれない。前来たとき、ちゃんと名前があったかどうか覚えていない。というか見てもいない。

「……」

それでも今ここに居ないことは分かる。

数日で、引っ越すなんてあり得るんだろうか。
あの日家の中は確かに物が少なくてシンプルだと思った。でも、片づけた、というよりはただ物がない、というだけだった気がする。ダンボールもなかった。
このままここで待っていても紺野は帰ってこない。そんな気がして一歩後退すると、また雨が降り出した。屋根のある階段をおりて、このまま帰ってしまおうかと駅に入る。けれど吉村から届いたメッセージに「帰った?鞄忘れてない?」とつづられており、特に大事なものは入っていないけれど取りに行かないとなと結局学校行きの電車に乗った。

紺野の、僅かに濡れて震えていたまつ毛を思い出しながら、雨の降る外を眺めながら。
こんな傘くらいコンビニでも買える。無くたって大して困りはしないだろう。別に返さなくていい。そう思うくせに、それでも返したいという気持ちは、恐らく単純に紺野に会いたいというものなのかもしれない。

綺麗に咲いた紫陽花は、静かな雨に少しずつ色を溶かして、音もなく揺れて、誰もが気付くような枯れ方もしないで、その形のまま消えていった。

梅雨が明けるのと夏休みに入るのは同じタイミングだった。誰も、紫陽花が枯れたことには気づいていない。紺野が居れば彼は気づいたのだろうけれど。俺は茶色くなってしまった花びらを…ガクを、指先で軽く弾いた。散った水滴をしばらく見つめ、払ってからそっと背を向けた。
高校三年の、ひと夏の…ひと梅雨の恋の話だ。紺野のことを綺麗だと思ったこと、それが一目惚れだったこと、紺野が負った傷を知ったこと、自分だったらどうやって大切にするのだろうと考えたこと、18歳の自分にとって、今のところ一番の大恋愛だ。
みほちゃんみたいに手を繋いでキスをしてセックスをしたわけではないし、それ以前に付き合っていた子達のように連絡を取り合ったり何処か遊びに出かけたわけでもない 。好きだ好きだと陳腐に言い合ったわけでもない。それでも俺は紺野が好きだったのだと思う。

いつも寂しげな白衣の冴えない男に、俺は恋をしていたのだ。

紺野の部屋を出た時、言えばよかったのかもしれない。あのとき額ではなく、口にキスをすればよかった。でも、その時より今の方が好きだ。時間が経つにつれて、紺野との出来事は色褪せていくと思っていたのに、逆だった。美化されて、しっかりはっきり鮮明に色も匂いも思い出せるようになっていく。

最後に呆れたように笑った紺野の顔が俺はずっと忘れられなくて、梅雨の時期になるたび、玄関の隅でくたびれたような顔をしている透明のビニール傘を使う。






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