ウェディングベールの向こう、透ける背中は白く、華奢な腕と背中を覆うそのベールが滑らかに揺れた。真っ白なドレスに白い刺繍のあしらわれたトレーンが、優雅にバージンロードを進むのが堪らなく綺麗で、それがこの世で一番清く無垢なものだと、あの頃信じて疑わなかった。
marry me
「うわ、降ってきちゃった…フラワーシャワー外の大階段でしたかったなあ」
結婚式は晴れ。晴が良い。晴れに越したことはない。新郎新婦も参列者も、どちらからしても。それが正直な気持ちではないだろうか。
ジューンブライドという言葉があるけれど、残念ながら六月にはまだ遠い。三月半ばの、長雨に入ってしまった。
「雨の日の結婚式って、縁起の良いものなんですよ」
僕がそう言うと、憂鬱そうに窓の外を見つめていた花嫁がぱっと視線をあげて鏡越しにこちらを見た。
「外国の言い伝えですけど、幸運をもたらすとか神様が祝福してくれてるとか。ここ、ガラスのチャペルじゃないですか、雨の日っていつも以上に神聖な空間に感じるし、中庭のグリーンのコントラストもすごく綺麗に見えるんですよ」
「真白さんに言われるとなんか、それも良いかなって思えてくるから不思議です」
「はは、良かったです。僕、五歳の頃かな、両親が式を挙げたんですけど、どしゃ降りだったんですよ。でも、だからって晴れの日に劣ることなんて全然ないし、雨の音がチャペルに小さく響くのも心地よくて、結婚式って素敵だなあって」
「もしかしてそれでブライダルメイク…」
「正解です。でも男だから、って苦労したこともありますよ」
着替えの手伝いが出来ないとか、諸々。自分の中では全くなんとも思わないけれど、こればっかりは仕方がない。自分の性別は男、相手は女。本当は自分だって、この純白を身に纏って、バージンロードを歩きたいし、ベールをあげてもらって誓いのキスをしたい。
あの頃思い描いていた本当の夢はまさにそれで、けれど自分には無理なことなのだと現実を知ってからは、ならばその空間作りに携わりたいと思った。
「着替えましょうか」
「はい」
「ミノちゃん、あとお願い」
「はーい!今いきます」
ガラスのチャペル、十字架の下の大階段、プール、噴水、オープンカー。大袈裟なシャンデリアに華やかな装飾。
この日の為に何ヵ月も前から準備をする。ドレスに料理、花、様式、全て。僕は子供の頃、母親が楽しそうにドレスを選ぶのを見ていたし、ああしたいこうしたいと父親と言い合っていたのも覚えている。
だから余計に、あの日、綺麗に髪を整えメイクをしウェディングドレスに包まれた母を見て、躊躇いもなく「綺麗だ」と思ったのだ。あの瞬間の衝撃みたいなものを、忘れたことは一度もない。おかげで高校を卒業後美容の専門学校に進み、資格を取ってこの結婚式場に就職するところまでこれた。
「真白さん、準備終わりました」
「ありがとう。受付にタオルと、化粧室にドライヤーの準備してもらってくるから、それから戻るよ」
インカムでそう告げ、受け付け係が来るまでにそれを整えた。受け付けひとつ取っても人それぞれで、並べられた写真や小物の秩序を乱さないよう踵を返すと、「すみません」と声をかけられた。
「はい」
「あの、あ…」
どうされましたか、と声にしたはずの言葉が口の中でこだました。
「ましろ?」
振り向くと、そこにいたスーツ姿のその人はもう一度「真白!」と、今度はしっかり発音して口を大きく緩めて笑った。
「むね、くん?」
「おー、まじか!すげー、何年ぶり?全然変わってないじゃん、ここで働いてんの?」
スーツ姿の彼は、中学時代の友人だった。僕は二言目を見つけられず、ポカンとその顔を見つめるだけ。
中学二年の途中で彼が転校してしまってからは疎遠になっていたけれど、それまではわりと仲良くしていた記憶がある。むねくんは嬉しそうに僕の手をとり、「すごいな、夢叶えたんだ」と強く握った。十年以上ぶりの彼は、記憶の中のむねくんと変わらず、笑うと八重歯の見える可愛い顔だった。でも、背が伸びて体も厚くなって、シルエットはまるで別人。そりゃそうだ、成長期を一緒に過ごさなかったのだから、変わっていて当然だ。
「真白、結婚式場で働きたいって言ってたもんな」
「覚えてるの?」
「当たり前だろ、お前が嬉しそうに話してたんだぞ」
「…そう、だった、っけ」
「プランナー?」
「あ、ううん。ヘアメイク」
「へぇ〜!真白っぽい」
「あ、ありがとう」
「俺今日新郎側の受け付け任されてて、大学の友達でさ…あっ、真白仕事中だよな、ごめん」
中学の頃、憧れ続けたウェディングドレスを自分は着られないのだと絶望して、それでもやっぱりこんなに素敵な場所は他に無いと、確かにむねくんに話していた。中学生男子が夢見るにはキラキラしすぎていたなと、今なら客観的に思えるけれど、それをうんうんと聞いてくれたむねくんが甦って嬉しくなったのも事実で。
僕は男だからウェディングドレスは着れないし、結婚相手は女の子でなければいけない。でも、どうしたって、僕は自分がドレスを着てタキシード姿の男の恋人の横に立つ想像しか出来なくて、けれど、女性になりたいと思うわけでもなくて。ちぐはぐで、中学生の自分にはどうにも出来なくて、それでも僕の夢を否定しないで聞いてくれたむねくんは、僕にとってとても特別だったような気がする。
転校してから疎遠になってしまったのは、お互いに携帯は持っていないし、彼が何処に行ったのかも知らないまま高校、専門学校と進学し、就職は地元を離れたらから…その間むねくんを思い出すことは何度もあったけれど、もう会うことはないと思っていた。
「これ、名刺。裏に番号書いとくから、仕事終わったら連絡してよ」
「えっ、」
「今度飯でも行こう」
「あの、むねくん、」
差し出された名刺には会社と部署と共に“羽島宗高”の文字。名字が変わっている。ああ、両親が離婚して転校したのかも、なんて…今さら知ったところで仕方がないのだけれど。
「真白?」
むねくんが居なくなってから、僕はもう誰にも夢の話が出来なくて、専門学校に入ってからは同じ志の子がたくさん居たけれどそれまでの数年は思い出したくないほど苦しかった。
「どうかした?気分悪い?」
「ううん、何でもない。電話、するね」
「?おう、待ってる」
「じゃあ、戻るよ」
「おう、あ、真白!」
でも、あのままむねくんが近くに居なくて良かった。きっと僕はむねくんを好きになったし、再会してしまった今あの頃と全く変わらない彼に、そういう気持ちを抱く寸前に立っている。彼を好きになって、彼に「結婚式、真白のとこでお願いしようかな」なんて言われた日には、唯一手に入れられたものまで捨ててしまいたくなったに違いない。
漠然とそんなことを考えながら持ち場に戻ろうとした僕の首元に、少し冷えたむねくんの手がやんわりと触れた。
「花びら。襟についてた」
「、ありがとう」
「やっぱり真白は白が似合うよ」
「…白が、一番好きだよ」
「良かった、変わってなくて」
白い花びら一枚、むねくんの指先から掌に落ちてきたそれを潰さないように握り、彼の微笑みにどきりと跳ねた心臓を押さえた。
その日の挙式は披露宴が終わるまで雨だった。けれどやっぱり、ガラスのチャペルではその雨さえも神聖で、雨粒に揺れる花も葉も、讃美歌に合わせたような雨の音も素敵だった。その場にいた全員がそう感じていたのでは、と僕は思うし、参列者を見送る頃になって上がった雨は、はっきりと見える虹を残してくれた。夕方の、少し冷えた空気の中に。
その日の夜、むねくんに「真白です。登録お願いします」とダイレクトメールを送った。二次会の途中かもれないと、一応気を遣ったつもりだったけれど、むねくんはすぐに折り返しの電話をくれて、僕に「真白のもう一つの夢は叶った?」と問うた。
「え?」
「主役」
式の主役にはなれた?と、穏やかな声が耳に届く。
「それはまだ……うん、まだまだ無理かな〜」
濡れた地面を進んで、地元から離れた町で借りた一人の部屋に帰る。閉じた傘を腕に引っ掻けて、狭い玄関に入ったところでむねくんは「そっか」と優しく笑った。むねくんの夢は、何だったんだろう。考えてみれば僕ばかりが話をしていて、彼のことはほとんど聞いた覚えがない。
「むねくん」
「うん?」
次、会えたら夢の続きを話そう。
(俺の夢は真白の夢が叶うことかな)
(あの頃、キラキラした顔で話す真白が本当に眩しくて、可愛くて、好きだった)