隣で待つ春は、



百万打企画
リクエスト : 先輩についての話、甘いお話

***

甘やかされていると思う。
とても。
孝成さんの指先が俺の手の甲をなぞるのを見下ろして、そっと口元を緩める。

「孝成さん」

高校生の頃、孝成さんに触れられるのを待っていた。
クールダウンをするみたいに、眠る前の瞑想のように、試合前の精神統一のように、俺に触れようとする彼の手を、ずっと。
よろしくと差し出されたその手を握り返した日からもう何年経ったのだろう。孝成さんは高校も大学も主席で卒業し、研修医を経て医者になった。俺は大学もそこそこにアメリカに行き、めちゃくちゃに打ちのめされながらそれでもずっとバスケだけをしてきた。目指していた舞台に立ち、嘲笑されても自分の弱さを突きつけられても。ただがむしゃらに。それが自分の人生なのだと疑いようもない、俺にはそれが全てで全てをそこにぶつけて、そして日本に戻ってきた。

高校生の孝成さんも、大学生の孝成さんも、はっきりと記憶の中にあって。
少しの滲みもなく思い出すことが出来る。例えば目を細めたときの目尻の皺だとか。頚椎の形、つむじの位置。上唇と下唇の隙間、瞬きをして揺れるまつ毛の影。ついさっきまで見ていたように。けれど、離れていた数年間の孝成さんを、俺は知らないのだ。アメリカで過ごした時間は、自分の人生において多くはないはずなのに。その期間孝成さんと離れていたと考えると、途方もなく長い時間に思えた。同時に、孝成さんと過ごした時間の方が圧倒的に少ないことを思い知らされた。

やんわりと、中手骨から基節骨へ。
そして指先で動きを止めた孝成さんはそのまま第一関節と第二関節を丸ごと折るように握り、ゆっくりと視線を上げた。伏せられた瞼を注視していた俺の目が、その視線に捕えられ瞬きが出来なくなる。

「たか、」

「大人になっても変わらないなと思って」

「、え」

「葉月の手」

「手…や、あの…それは孝成さんもだと思いますけど」

「はは、そうかな。俺の手はアルコールでカサカサだよ」

握られた手を解き、指と指を絡め直してしっかり握り込むとゾッとするほど心地のいい感覚がそこから全身に駆け抜けた。背中に走ったそれに、高校一年生の春「よろしくお願いします」と自分でも驚くほど震えた声で返した光景が頭をよぎる。孝成さんの手は正しい、世界で一番、何よりも。俺にとっての正義だった。この人の背中を追う、追って、つまりそれが目指すべきものへ向かうことだと、本能で悟った。あの感覚だ。

「そんなことないですよ」

「紙がめくれない」

「ハンドクリーム塗ってますか」

「もうそんな時期じゃない」

「一年中保湿はした方がいいですよ」

「仕事中はどうしてもハンドクリーム塗るタイミングがないから」

「お風呂上がりに塗ってあげます」

「葉月に丹念に塗り込まれるの、俺結構好きだよ」

触れることを許される瞬間をずっと待っていた、探していた、狙っていた。
一瞬で見逃してしまうことを恐れて、ずっとこの人を見ていた。片時も離れたくはなかった。「葉月」と吐息のように呟かれる声でさえ聞き逃さないように、手の届く距離に居たかった。

「孝成さん」

「うん?」

「触ってもいいですか」

「もう触ってる」

「もっと、ちゃんと」

「ちゃんと」

「はい、ちゃんと」

「へえ、それは、どこをどうって意味なんだろうな」

「孝成さんの全部を俺の全部で」

「はは、とんでもないこと言ってるけど」

「際限が無いんです、どれだけ近づいても。もっと、って」

もうコートには立たない、ボールにさえ触れない。けれど、その指先の正しさは今も変わらずそこにある。それは俺にとって、やっぱり何よりも大事で愛おしく、確かで泣きたくなるほどの幸福だ。

「どうぞ」

繋いだ手を軽く引いた孝成さんに引き寄せられ、そのまま彼の背を抱いた。
鼻腔を掠めた孝成さんの匂いは、消毒と石鹸の重なった、清潔感と清涼感のあるものだった。もう随分、この人の汗の匂いを感じていない。
そんな不純なことを考えながら、背骨の形を確かめるように下から上へ手で撫で上げる。骨の凹凸も、その形の綺麗さも硬さも正確に覚えてしまった俺の意識と感覚が、肩甲骨の隙間に食い込む。孝成さんは擽ったそうに一瞬だけ頭をゆらし、けれどすぐに体勢を整えた。

「孝成さん」

「うん」

「気持ちいいですね」

「そうだな」

「本当に思ってます?」

「思ってるよ」

「俺の方が思ってると思います」

「どこで張り合うんだよ」

この、ピースとピースがかちりとはまるような感覚を、孝成さんも感じているのだろうか。そうであって欲しい。
俺の背中に回された孝成さんの手が、肩甲骨の同じ場所で指先を擦った。擽ったい、と言うよりは“欲情しそう"なもどかしさを伴う。部屋の中に漂う甘い空気に、腕の中の孝成さんの体温に、意識が混濁して眩暈がした。きっと、どんなに近づいても肌を合わせて呼吸と鼓動を重ねても、俺はこの人が欲しいと望むのだろう。
触れたいの先になにがあるのか、自分でもそこになにを求めているのか曖昧な癖に。それでも触れていないと不安でたまらず、抱きしめる腕に力を込めた。あの頃は出来なかったような、そんな抱き方で。孝成さんは俺に身を任せ、耳元で小さく笑いのような息を溢した。

「葉月」

ああ、だめだ、この人に名前を呼ばれただけで泣きそうになる。

「はい」

キスを許容する目に自分が映るだけで。もう、俺は跪いてその爪先にキスをして、何度でも忠誠を誓って崇拝していると叫びたくなる。今はもうコートに立たない孝成さんに。そんなことは大した問題では無いからだ、俺の中の唯一が孝成さんである以上。

甘やかされている。
周りから孝成さんを甘やかしすぎだとか、孝成さんの犬だとか、散々言われてきたけれど。どちらかと言えば甘やかされているのも管理されているのも俺だったし、そもそも孝成さんの犬だと言われることはむしろ誇らしかった。だからこそ俺だけがこの人に甘やかされる存在なのだと。
あの頃のまま、俺の唯一は孝成さんで、その唯一の人に唯一の人の手に愛しいのだと囁きあって触れられる。じんわりとお互いの体温が上がり、触れる皮膚が柔らかくほぐれ、その心地よさともどかしさに呼吸が乱れた。

「たかなりさん」

ゆるく微笑む彼に誘われるまま、重なった体をソファへ沈めて唇を食む。
休日の昼下がり、網戸にした窓から心地のいい風が吹き込み、カーテンが緩やかに揺れた。視界の端で遮光の薄い白が膨らんで弾け、まだ遠いはずの春の訪れのような匂いを広げた。


先輩についての話

( 隣 で 待 つ 春 は 、)







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