07
知らない匂いだ。少し甘い、柑橘系のような。それを振り払うように香月が俺の背中から孝成さんを覗き、「生タカナリさんだ」と大袈裟に言った。
「久しぶり、香月ちゃん」
「久しぶりです」
「すみません、せっかくオフなのに」
「ううん、声かけてくれてありがとう」
香月と孝成さんは試合で面識があるものの、たぶん言葉を交わすこと自体は夏以来だろう。孝成さんは香月に対して「色が白い」とびっくりして、夏は確かにこんがりだったなと思い出す。
「葉月、風邪は?ひいてない?」
「はい」
「そう、良かった」
ふわりと笑い、俺の肩に置いた手を緩やかに滑らせて確かめるように手首にたどり着いた。俺は下手くそに巻かれたマフラーをほどき、きれいに巻き直してから「少しだけ付き合ってください」とゴールを指差した。
「うん、そのつもりできた」
リュックを俺と葉月の荷物の置かれたベンチに並べて下ろし、靴の紐を確認した孝成さんが香月からボールを受け取った。そのあと三人でボールを触り、香月が用事があるからと帰っていったのはそれから一時間ほど経ってからだった。
「すみません、香月も一緒で」
「ううん、楽しかった。ありがとう」
香月が帰ったタイミングでベンチに腰掛け、持ってきていたスポーツドリンクを口にした。ひんやりとその冷たさを伝えてくるベンチで、「息抜きになった」と微笑む彼に、学年主席である故の努力がちらつく。勉強も部活もそうだ。周りから褒められ、憧れるだけの努力をこの人はしている。俺は孝成さんのそういう部分も、それでも必死な顔をしないところも、全部がとても愛しく思える。言わないけれど。
「勉強、みてあげれなかったな」
「あ、いえ、自分で何とかします」
「冬休みはまだ少しあるし、部活終わりでよければうち寄ってって。みてやる」
「いいんですか?」
「可愛い葉月の為なら」
「ありがとうございます…」
じゃあ、また明日部活でと立ち上がった背中を追い、自分も立ち上がる。少し日が傾き、ほんのり暗さが漂い始めていた。孝成さんは手袋をはめながら呼び止めた俺を振り返り、いつもの顔で微笑んだ。
キスがしたい、と思ったのは自分だけだったらしく、伸ばしかけた手を下ろす。
勉強もバスケも出来て、朗らかで、でも統率力がある。それなのに少しも威張らず、むしろ余裕を持って鎮座しているくせに…俺にだけ甘えるなんてずるい。俺は世話を焼きながら、隙有らば、通っているようなダメな後輩なのに。
「葉月」
「、はい」
「明日、ね」
「はい…」
「また明日」
やたら高そうな素材の手袋がそっと俺の頬を撫で、唇の端を指先で軽く押された。離れていった感触に期待しながら、「気を付けて」と、リュックを背負った孝成さんを見送った。
本当はまだ一緒に居たかったけれど、この少しの時間だけで三日分の靄を払ってしまわれ、もう呼び止めることは出来なかった。
孝成さんが残していった甘い匂いは、洗剤とか、シャンプーとか、そういう類いのものではなかった気がして。けれど、じゃあ香水だったら、誰の、どうして、そんなことを追及してしまいそうで俺はそっと目を逸らして公園を出た。
どんなに孝成さんに可愛がって もらえても、求められても、俺には関係を問う勇気はない。香月は俺が孝成さんに抱いているこの曖昧な感情に気付いていながら、それでも深く追及はしてこない。ただ面白がっているだけなのと、このまま俺は気付かない方が良いと思っているのと、両方だろう。
ゆっくり、今年二度目の雪が降りだした頃俺は家に付き、しつこく、孝成さんへ「ありがとうございました。また明日」とメッセージを送った。
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