12
「忘れ物ないですか」
「……ない、はず」
「はい。じゃあ、」
帰りましょうと続けるはずだった俺の言葉を遮り、孝成さんが背中にとん、と頭をぶつけてきた。それから小さな声で「葉月」と呟いた。
「なんですか?」
「葉月」
「ええ?どうしたんです」
「……葉月がここに置いてるシャンプー、家で使ってるのと同じだよな」
「そうですけど…え、突然どうしたんですか」
「この匂い好きだなと思って」
「……孝成さんはたまに、女の子みたいないい匂いしますよ」
「たまに?」
「…たまに」
柑橘系のような。
なんとなく聞きづらくてきけなかったことだ。
「なんだろう、妹がたまに遊びに来るからかな」
「えっ、妹いるんですか?」
「いるよ。あと兄が二人」
「えっ!?四人兄弟ですか」
まだ火照る体に孝成さんの体温は熱くて、それでも離れるのはもったいなくてそのまま少し、話をした。聞いたことがなかった孝成さんの兄弟の話と、バスケを始めた頃の話。どうして今、そんなことを話してくれたのか俺には到底分からない。けれど、孝成さんについて知っていることの方が少なくて、それを寂しいと思っていた自分にとってこの上なく楽しかった。後から振り返ってみれば、俺の緊張を解こうとしてくれたのだと分かったのに。
じゃあそろそろ、と離れた孝成さんを振り返って手をとると、思ったよりも近くに居た彼と視線が絡む。いつもだったらキスをする雰囲気だ。でも、もうずっとしていない。触りたい。最近そればかり考えていて自分でも情けなくなる。
「孝成さん」
「帰ろうか」
触りたくてたまらない。
体は離れ、けれど手は部室のカギを閉めるまでのほんの少しの間繋がれていた。汗ばんだ掌にドキドキして、話をするならその頭の中にあるもの全てを知りたいと強く思った。今日で最後のお迎えだと零した朝から数時間しか経っていないのに、その最後の帰り道を肩を並べて帰り、孝成さんの部屋に上がらせてもらった。
仮住まいの部屋は前に上がらせてもらった時と変わらず簡素で殺風景で、分厚い本の存在感だけがすごかった。その寂しい部屋のクローゼットから遠征用の大きなボストンバッグを引っ張り出し、はい、と何とも無責任に俺に差し出してきた孝成さんは飲み物持ってくるねと一旦部屋を出ていった。
その間に自分の鞄からウェットティッシュを引っ張りだし、渡された鞄を軽く拭いた。大して汚れてはいなかったけれど、気持ち的にはこの方が良い。小さく丸めて部屋の隙間を埋めるように置かれているゴミ箱にそれを落とし、ぐるりと部屋を見渡した。
この部屋にももう、上がることはないのかもしれないと思うと、どんなにシンプルで寂しい部屋でも恋しくなる。
「葉月ー、開けて」
「あ、はい」
「ありがとう。はい、お茶だけど」
「ありがとうございます」
「よし、じゃあ準備しよう」
脇に数枚タオルを挟んできた孝成さんはそのまま雑に鞄に入れた。俺はそれを一度だし、他に入れるものを揃えてからきちんと綺麗に詰め直した。
なんだか子供の荷造りを手伝う親みたいな気持ちで、「このでかいのはトランク入れるんで、バスの中で必要なものとかお金はここは入れないで下さいよ」なんて言いながらぽんと軽く鞄を叩いた。
孝成さんは「はい」と素直に頷いてありがとうを言ってくれた。それだけで俺は嬉しくて、帰り際それじゃあと、帰るのが惜しくてたまらなかった。やっと前に進む気になって自転車にまたがると「あ、」と呼び止められてしまった。
「葉月、また明日」
「……はい、寝坊しないでくださいね!」
「はい」
夏の夕方は相変わらず独特の、暑さの抜けきらないぬるい空気で満たされている。今日は何処かで祭りがあるはず。香月が浴衣がどうだと昨日、母さんと話していた。そうか、夏だ。孝成さんと、一度でも花火を見てみたかった。
そんなことをふと考えて、すぐに自転車をこいだ。
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