23
背伸びをしていた孝成さんのかかとが床に付く。
それでも離れなかった唇は、彼の唇に食まれていて。揺るぎのない、凛とした目がゆっくりゆっくり瞬きをして俺を捉えると、ふっと細められた。
「たかなり、さ…」
「帰ろう」
「、」
「もう、暗くなってる」
「はい…」
「あ、葉月」
「はい、えっ、あ…」
繋いでいた手がほどかれる。
あ、寂しいな、なんて女々しいことを思ったことは内緒だけど、それに気をとられて間抜けな声を出してしまった。ほどいた手で、俺のネクタイをぐっと引っ張った孝成さんが首筋に鼻を押し当ててきたのだ。
「あ、の…孝成さん?」
「良い匂い」
「はい?」
「良い匂いだから、嗅いでおこうと思って」
「汗くさいって言ってましたけど、さっき」
「そうだった?」
「……」
ちゅっと可愛い音を立てて乱れた襟の隙間にキスをした彼に、「馬鹿」と言いそうになる。抱き締めてキスをして、俺だってその首筋に鼻を擦り付けて噛み付きたいのに。
ほら、帰ろう、と俺のネクタイを整えて…整っていない気がするけど…背中を向けた孝成さんは「そういえば」と、振り向かないまま続けた。
「葉月に会いに来てたの?」
「え?」
「畑瀬」
「…えっ?あ、えっと…俺にって訳ではないと思いますけど。孝成さん知ってるんですか?」
「知らない。知らないけど、葉月の中学の時のチームメイトってことは知ってる」
「ああ…」
全国大会で見たことがあるなら、顔くらい分かるものだろうか。俺は孝成さんばかり見ていたから彼のチームメイトの顔はぼんやりとしか分からないし、名前なんてもっと分からない。さすがこの人頭良いもんな、なんて納得しながら「見られてました?」と冗談ぶって扉の前で立ち止まった背中を見つめた。
「なんか、いろいろあったらしくて…しばらく試合には出られないから暇なんですって」
「…そう」
「孝成さんの事よく見てたみたいで、今日の俺の─」
「葉月」
「はい?」
「鍵締めよう。外、暗いから」
「あっ、はい、すみません」
梅雨がつれてきた湿った匂いが、漂い出していた。
孝成さんは俺の話を聞きながら、そう、と何度も頷いてくれたけれどどことなく冷たくて、気のせいかも知れないけれど素っ気なくて。
また明日と家の前で別れる頃になってようやく、疲れているのだなと気づいた。
「お疲れ様でした。また、明日」
「うん、葉月もお疲れ。ゆっくり休むんだよ」
「はい」
「じゃあ、おやすみ」
「孝成さん、」
ん?と、俺を見上げた孝成さんはいつも通りだった。大丈夫ですかとか、具合悪くないですかとか、結局聞けないまま俺はおやすみなさいと返して自転車に股がった。
体はまだ試合の熱を奥に残していて、疲れを感じたのは家に着いてからだった。
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