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数時間前に足を踏み入れた懐かしい部屋は、確かにあの頃と変わらずシンプルだった。別れると決めてからの孝成さんは本当に別人みたいにしっかりして、ああ、こんなにしっかりしているなら俺は必要ないと思っていたのに…干してある洗濯物はバラバラのしわしわで、カレンダーは先々月のまま。でも、それよりもっとどきりとしたのは家具以外のものがほとんどなかったことだ。段ボールがいくつかあり、その中に服や物が入っているのか、まるでこれから出ていくみたいな部屋だった。

テーブルには小さめの箱が一つと、写真が数枚、雑誌が数札、それから名刺の束と退職届と書かれた封筒が一つ。
写真には一度しか見たことがないしその一度の記憶よりも顔色が良く、少しふっくらした顔の明日香ちゃんが写っていた。真っ白なドレスを着て、花束を抱えて。ああ、結婚したのか…と、何となく、嬉しくなった指先で一枚めくると、スーツにコンタクトの孝成さんが写っていた。照れたように笑う顔が印象的で、とても幸せそうに見えた。

「医者になるまでにかかったお金を、両親に返すことと、明日香が元気になるまで近くで支えること、それに目処がついたから」

「え?」

「俺は医者になったし、明日香は元気になって嫁にも行った。仕事は好きだけど、ここで今、医者である必要はもうないから」

「……」

「葉月が頼りないんじゃない。俺も、こうやって整理するのに十年かかった。お金を返したところで両親からは、医者を辞めるのは許さないって言われるだろうしね。でも勘当されたっていい。俺はもう大人だし、明日香も元気だし」

「あの、辞めないで、ください…」

「はは、葉月が止めるんだ」

「ごめんなさい、その…孝成さんがもう辞めるって決めてるなら止められないですけど…何て言うか…」

「葉月が帰ってきたし、もう辞める理由もないか」

「へ、」

「部屋も仕事も手放して、アメリカに行ってもいいって思ってたんだ。目処がついたって、そういうこと。でも、葉月帰ってきちゃったしな。医者はさ、ここじゃなくても出来るから」

「…俺、もしかして今すげーこと言われてます?」

嫌々医師をしているようには見えなかったのだ。さっきのほんの一瞬しか見ていないけれど。とても穏やかで、子供が好きで、白衣だって着こなして。バスケをやめて選んだ道だから。そうか、辞めるというのは“今勤めている病院”であって、医者を辞めるわけではないのか…
安心したのはとても勝手な理由で、今ここでフラれても仕方がないと思っていたのに、十年ぶりに孝成さんに触れられて欲が出た。だから、もう少し一緒に居たい、と。

「一世一代のプロポーズみたい」

「俺がしていいならするけど」

「だ、だめです!それは俺にさせてください」

「葉月がするの?」

「はい」

日本でバスケをする、それを叶えるために帰ってきた。もし、許されるなら孝成さんの隣で、そう思ったのは事実なのに。俺を好きだと言う彼に、また涙がぼろぼろと落ちて「泣き虫は変わってないか」と、笑われた。孝成さんの滑らかな頬にだって涙の跡があるのに。




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