06


節が太くなった自分の指で、真っ白な白衣に包まれた肩に触れると、彼の体温と懐かしい匂いに、振り返った変わらない孝成さんの顔に、次の言葉は出てこなかった。代わりに、壊れたみたいに目から涙がぼろぼろ落ちた。

孝成さんは目を見開き、口元に海苔をつけたまま「はづき」と、とても慎重に、丁寧に、俺の名前を呼んだ。

「ごめんなさい…帰ってきました」

十年だ。アメリカに行って。
大学を卒業して、何軍か分からないけれどチームに入れてもらって、そこから少しずつ上に上がって、大きな舞台に立つまで五年。そこで活躍したと言われたのは立ってから五年間のうち最後の二年。
それでも向こうにいた十年は、日本に居たら得られないものを手にすることが出来た。ただ、“帰ってこない”ことになっても、とまでこの人に言わせたのに、俺は帰ってきてしまった。声が喉につっかえて、目の前の孝成さんが涙で滲んでよく見えない。

「ごめんなさい」酸素を求めて大きく息を吸って、もう一度出た言葉はそれだった。
やりきった、確かに。
本当に楽しい十年だった。孝成さんとたった一度だけとった全国一位に匹敵するくらい。あの頃のドキドキやワクワクはもう二度と味わえないと分かっていても、それでも楽しかった。
アメリカでやりたかったことをやって夢を叶えた。だけど三十歳になる節目の年を前にこれからのことを、ずっとアメリカに居るのか、現役を退いたらどうするのか、たくさのことを考えて、出した結論は日本でプレーしたい、だった。
俺を追ってくれるような次の世代が居るか分からないけれど、誰かの希望になれたらいいなと思う。まだまだサッカーや野球のような人気はないし、ニュースで大々的に取り上げられる事も少ないから。一番大きな舞台に立った日本人プレーヤーをまずは見て、興味を持って、将来に繋がって欲しいと思った。

日本で、孝成さんの横で。

「おかえり」

「っ、たか…」

「良く頑張りました」

「孝成さん、」

眼鏡の向こうで形の良い目が細められる。そこに、何が秘められているのだろう。眼鏡を押し上げながら立ち上がった孝成さんは、白衣の下に着ていたスラックスのポケットに手を入れ、懐かしいものを俺に差し出した。

「壊れなかったよ、この時計」

「え…」

「返す」

「……」

「いらない?」

「もう、はまらないです、たぶん」

「…そっか、そうだな」

あの日空港で孝成さんが浚った俺の腕時計だ。今の自分の腕には細くてはめられない、壊れていてもおかしくない、安物の。その秒針は滑らかに動いていて、たくさんの時間が流れたことを感じた。
受け取った腕時計は記憶の中のまま、汚れもなく、狂いもしていない。孝成さんはずっと持っていてくれたのか…




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