01
「あれ、水城先生どこいきました?」
「あ、下の自販機でお金撒き散らしてますよ」
「またですかあ?あ、ほんとだ〜机も海苔まみれじゃないですか」
「うちの売店パリパリ海苔のおにぎりしかないですもんね」
「なんで剥けないのか謎ですよね」
「仕事は完璧なのに…それ以外のことは抜けまくってますもんね」
盛大なため息と僅かな失笑が生まれた。
下の、と指された先の窓を見下ろすと、確かにそこには中庭があり、いくつかの自販機が並んでいる。院内にもあるのにわざわざ、と誰かが溢した。天気が良いから散歩も兼ねているのだろう。
財布から溢れ落ちたらしい小銭を、悠長な動きで拾っている姿が見えた。
「せんせぇなにしてるの」
「あ、かなちゃん」
「はい、どうぞ」
「わ、ごめんね、ありがとう。一人で出てきたの?」
「どういたしまして!ままとお散歩!あ、」
「うん?」
「せんせぇ靴下の色ちがうよ!」
「えっ?あ、ほんとだ…」
「くろと、はいいろ!」
「そうだね、正解。気を付けてるんだけどダメだね」
「このまえも違ってたもんね」
「ままとぱぱには内緒にしてね」
「うん!」
「よし、じゃあままのとこ行こう。先生ももう行かなきゃ」
「せんせぇここ、ジュース忘れてるよ」
「ああ〜!ありがとう、忘れてた」
「まちがえんぼ?」
「あはは、そう、実はね…先生一人じゃ間違いだらけなんだよ」
「でもままもぱぱもせんせぇのことすっごく褒めてたよ」
「ええ?本当?」
「うん!」
爪を綺麗に切り揃えた指が小さな手をとり、自販機の中に置き去りにしていたミネラルウォーターを小脇に抱えて歩き出した。その手を見て、「せんせぇはゆびわしてないね」と、少女は視線をあげた。
「指輪?」
「ままとぱぱはしてるよ。あと、ひらのせんせぇもしてる」
「結婚指輪のことかな」
「そう!好きな人とする指輪」
「好きな人と…いいね、先生もいつかしたいな」
「すきな人いるの?」
「いるよ、ずっと昔から。世界で一番好きな人が」
「そうなの?明日香ちゃん?」
「ええ?明日香は確かに大事だけど妹だよ」
「明日香ちゃんせんせぇのおかげで元気になったからせんせぇのこと大好きって言ってたよ」
「あはは、本当に?」
「うん!」
「そっか、うん…そうだと嬉しいけど…」
もうすぐそこまで彼女の母親は近付いており、小さな指先がくん、と男の体を引いた。「水城先生こんにちは」と、軽やかな声で母親は笑い、小さな子供を抱き上げた。
「お散歩終わり。お部屋戻ろう」
「はーい。せんせぇまたね!」
「うん、またね」
ひらりと翳した自分の左手は、もうずっと呼吸をしている。最後にテーピングで呼吸を止めたのは、一体何年前の夏だろう。あの頃が懐かしい、口に出そうになった言葉は「水城先生〜!カンファ始まりますよ!!」と叫んだ看護師の声にかき消された。
「もうそんな時間?」
「そうですよ!急ぎましょう」
「あ、白衣何処で脱いだか知らない?」
「ええっ、知りませんよ…あ、そう言えば昨日森嶋先生の白衣着てませんでした?」
「あー…どこで間違えたかな…」
はは、と自嘲気味に落ちた笑いは乾いた空気に浚われた。からりと晴れた空は清々しい青で、遠くに飛行機が見えた。
風に揺れた髪からは懐かしい匂いがする。そう、いまだに。
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