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思い返せば気絶するほどの努力をいて、ここでの三年間なんてバスケと勉強漬けで学校行事を楽しめた記憶なんてない。なのに、記憶の至るところに散りばめられた孝成さんの笑った顔や、高見先輩の怒った声、他のメンバーや監督コーチが、褪せることなくそこにあって。
ああ、俺の挑戦はまだこれからで、ここでの死にそうな努力以上のことを、この先しなくてはいけないのだと、やっと実感が沸いた。
自分の力で進まなくてはいけない。
「あ、葉月?なに、そっちから降りてくの?」
「トイレ」
「はあ?また?さっきも行ってなかったか?」
「腹の調子悪いんだって。先行ってて」
「おー。早くしろよ〜」
ホームルームが終わってから、俺はまっすぐ渡り廊下へ向かった。まだ終わっていないクラスもあったけれど、廊下がまた賑やかになり始めたのを感じて足を早めた。
「あ、ごめん、待った?」
「あ、ううん、こっちこそごめんなさい、その、呼び出して」
「ううん、平気、だけど…」
柱に隠れるように立っていた浜坂さんは、あれ、こんな顔だったっけ、と思うほど顔を赤くして視線を泳がせている。いや、違う。そもそもどんな顔か、よく見たことなんてないじゃないか。
きゅ、と下唇を噛んでから、浜坂さんは顔を上げて俺を見た。
「藤代くん」
「はい、」
「あの…」
「……」
「あの、好きでした」
「え、あ…えっと、」
「あ、いいの、気持ち、だけ…伝えたくて…藤代くんが引退してから、って思ってたんだけど…そのうちに自分の受験のことでバタバタしちゃって…でも、今日、言えなかったらもう一生言えない気がして…」
なるほど、“好き”って、こんな感じなのか。自分は無我夢中で、こんな風にきちんと伝えられた気がしない。小さな子供の我が儘みたいに「好き」としか。
浜坂さんは俺が口を開くより先にボロボロと泣き出してしまい、慌てて俯いて「それだけ、伝えたくて」と、床に言葉を落とした。まだ桜の咲かない中庭が見える。向かいの校舎から生徒が出てくるのも。
「あの、浜坂さん」
「っ、ぅ…はい、」
「ありがとう」
「……」
「その…気持ちは嬉しい、けど…好きな人が居て…今、その人と付き合ってて」
「ふ、ぅ…」
「だから」
「い、いいんです、ほんとに、気持ちだけ…伝えたかっただけ、だから…」
香月はあっけらかんと「とーるちゃんにフラれた」なんて言っていたけれど、こうして泣いたのだろうか。少しくらいは。決して彼女のことが嫌いなわけではないのに、気持ちに答えられない。透もそうだったのだろうか。
自分の好きな人に好いてもらえるなんて、そうか、奇跡なのだ。そう考えると改めて、今孝成さんと付き合えている自分がどれほど幸せなことか、と思えた。
「ごめん」
力なく頭を横に振り、涙に濡れた顔を緩ませた浜坂さんは、最後に「これからも応援してるね」と震える声で続けた。
「ありがとう」
ほとんど接点なんてないのにどうして俺の事など好きなのか聞いてみたかった。唯一、ドラマチックな展開があったとしたら、彼女が階段から落ちたことだろう。あれが、恋に落ちるには充分な出来事だったと言われたら“確かに”の一言で。でも、俺は落ちたかったし、まず何を考えただろう。何かを考える前に孝成さんが駆け寄ってきて、怪我の心配をしてくれて、だから…
「あの、藤代くん」
「っ、はい」
「迷惑じゃなかったら、その…ボタン、貰えない、かな…袖の」
「ボタン?あ、うん、こんなのでよければ…」
両袖に二つずつ、付けられた飾りのボタンを一つもぎ取って差し出すと大袈裟なほど大きく頭を下げられた。それが可笑しくて、緊張が少しだけ緩んだけれど、「…じゃあ、」と一歩後退した俺にその顔はまた曇ってしまった。
「……はい」
また、とは言わないで背中を向ける。
そのまま振り返らないで階段を降り、加藤たちに合流した。写真を撮って別れの挨拶をして、最後にカラリと乾いた空気を肺一杯に吸い込んで、大きく吐き出した。
校門を出るのとほとんど同時に、孝成さんから「卒業おめでとう」のメッセージが届いた。
俺の、特別な三年間が幕を閉じた。
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