幽かなる愛(I)

忘れてほしくない
独白が続く。
「魔力で成立する二重人格、能力の分別化で菊弘は格段と力をつけた。それで色んな仕事をした…貴様も知っての通りオカルトなこともしたし、日本を…世界を救うための大義もな」
吐き捨てるように笑った。大義とは言うが、微塵もそうは思っていないらしい。
「で、だ…貴様だよ貝木」
人差し指がこちらに向く。
「夢魔のゲームで、誰にも予想しなかった結末になってしまった。今の状態とは程遠いがね」
「そうだな。菊弘の責任だ」
「分かってる」
「だから、俺は羅刹天と契約を交わした」
「浅はかだったな、それは愚行だ。悪手だ、貴様は王手を打ったつもりだろうがその勢いで碁盤をぶち壊したんだよ。まるででたらめだろ?菊弘の苦しむ姿なんて簡単に見れるんだ、こんなことしなくても簡単にね。まんまと羅刹天に乗せられたんだよ。一体、どんな好条件で契約を結んだかは知らないけど…」
「それは教えられないな、教えて欲しいのなら金を払え」
イツカは一瞬真顔になった、しかしその後すぐにくしゃっと破顔する。
ぎくり、と体が強張った。その笑顔は、苦手だ。
「まあ、いいさ。お前が…それでいいなら、私もそれでいいよ。かなりショックだけどね」
微笑を称えながら、膝を抱えてその上に頬をくっつける。覗き込むようにして男を見上げた。
「…演技、だったのか。本当に」
「さあね〜」
「ここまで言っておいてはぐらかすな、演技だったあれはなりきっていただけだと自分ではっきり明言しておいて。俺が見たあの…左右が表情が違ったアレも菊弘がひとりでやっていたと?本当にそうなのか」
「さてね、演技だとは言ったけど菊弘がネモを演じていたというのは確かにニュアンスが少し違うかもな。対象者Aの固有脳波がXとするなら、対象者AがBを演じた時の固有脳波は?」
全く簡単な数学だ。数学どころの話じゃない。
「固有、というのだからXで固定だろうに」
「菊弘がそれをやると、Yに変貌する。これは軍の研究でもきちんと証明されているよ」
「………演じるというよりは、別の人間に変わっているじゃないか」
「そうだ、流石にDNAとか血液型までの変化は見られないがね。役者が役を演じることを演技というなら菊弘のこれは違うものだ。なりきるというよりは別人が存在していると言った方が近い、そして菊弘はそれを知らずにやってのけていたのだからそりゃあまぁ…嘘をついて、偽ってやっていたとも言えないね」
「だが、多重人格というには異なる…と」
「もちろんだ。多重人格に近くなるように暗示を掛けられていただけなんだから。……こんな初歩的なこと聞くなんて、本当に今更だ」
今更だと言われても、知らなかったのだから。
「本当は菊弘も危惧していたんだよ、このまま自分の…この異質な力を一人だけで管理するのは危ういとね。陰陽寮の誰かに任せても良かったが、それはネモが嫌がるだろうって…だから自分が分離することで」
「待てよ」
男は背後の大木を気にしながら、イツカの言葉にストップを掛けた。
「分離分離とは言うが、肉体的にじゃあないだろうどう見てもお前は…いや、そう見えているだけなのかどうなのか……俺には分からん。分かりたくもない」
「そうかい、そんな風になったのだから貴様には分かると思っていたのだがね。だからわざわざイツカを呼び戻したんだが…」
その言い方に、違和感を覚えた。
イツカの方を見る。相変わらずこちらをじっと見上げていた。細めた目は、長い睫毛が影を落としている。周囲の木々がざわめき出す、まるで自分の心情を表しているようだった。
「イツカにも見えないのなら、もはや私だけの<現象>ではなくお前ありきの<現象>なんだね。そしてお前が私を<菊弘>と認識すれば、可視になる。触れるし、触られることも可能だというわけだ」
地面についていた手に、そっと指が絡んできた。冷たい。まるで凍っているようだ。
「菊弘の目、菊弘の何かを借りて<見る>ならそれで条件はクリア。そしてネモ…イツカは、菊弘そのものだと認識させてそれで<見える>し<対話>も可能。分かったよ貝木、いや…」
―幽鬼現象。
名の呪いが、掛かった。
凍りついていく。形がはっきりと定められていく。しまった、と思った頃にはもう手遅れであった。
これは名前が無いからこそ、菊弘の上位に立てるのだ。名付けを恐れるであろう菊弘を、名付けでそれが決定してしまうことを恐れた菊弘を見越しての作戦だった。羅刹天は、イツカがこうであることを知っていたのか?知っていたのなら、自分は嵌められたことになる。
「幽霊とはまた違う、ならば鬼としよう。鬼の力を借りて成した体ならばそれがいいだろうね。鬼とは曖昧なものだ…異形のものなのは間違いないが定義は様々なものがある、それを利用し<幽鬼>としよう。そうして菊弘に都合の良いものにするのがいい、お前たちが定めた唯一のルール…<菊弘にしか見えない>これを最大限活かす<現象>にしてしまおう、幽鬼現象…それがいい」

イツカは立ち上がった。
周囲の音が、ぴたりと止まる。
「これでお前は勝手に消えることも無いし、羅刹天にも動かされることはない。正式に菊弘の配下の人外だ、おめでとう貝木泥舟!それが望みだったのだろう永遠に化物のそばにいることが望みだったのだろう?良かったな、これで叶ったぞ」
木が、どんどん白くなっていく。枯れていっている。
自分の水分を吸い取られるようで、慌ててその場から後ずさる。よろめきながら立ち上がれば、自分の手足がやけに重く感じられてどきりとした。心臓が、どきりと脈打った。そんなはずはない、こんな…人間のような感覚など…。
体が、はっきりと受肉している。否、重力が戻ったのか?体中に、圧力が掛かっている。立っていられなくなって、膝をついた。目眩がする。
「お前は人として死ぬべきだったのだ。元の<貝木泥舟>ではなくなっていたとしても、人として形作られていた時に命を終わらせるのがお前のためでもあったし、菊弘の幸せであった。菊弘を苦しませたいのなら成功だ、だが菊弘と共に生きたかったのであれば…もはやその願いさえ間違ったことだったのだよ」

重たい顔を、上げる。見下ろす女の顔は、哀しそうだった。
「人間としてそばに居てほしかった、人間として私を見ていてほしかった。お前がどんなにその状況に劣等を抱えていたとしても、人として付き合っていてほしかっただけなんだ。私は化物でありたかった、人としては生きてきていなかったことに…お前といることでやっと区切りがつけられたのだから」

目の前に居るのは、誰だ。
「お前、イツカじゃないのか…!」
「ほぅら、分からないじゃないか。お前は私に対してどうせ分からんと吐き捨ててきたが<わかっていない>のはお前の方なんだよ」
その気持ちをないがしろにしてきたのは私だ。
お前を傷付けたのは私だ。理解しようともしなかったのは、理解すればお前を見送ることが出来なかったからだ。なにもかもが無駄だった、それでもほんの少しだけ。ほんの少しだけ嬉しいと思う自分が居た。
戻ってきてくれて、喜ぶ自分が。
それに気付いた時、自分は<そちら側>になってしまったのだと、心から恐怖した。

夢魔も、魔人も、死神も。皆、最初は哀れんだ。しかしすぐに歓迎した。彼女たちは無意識に、私を誘い込んでいたのだ。無意識に。それは化物ゆえの孤独。孤独からくる寂しさ。寂しさを持つゆえに、仲間を同志を友人を欲しがる。恋や劣情はいつだって出来る、それでも永遠にそばに居て歩んでくれるそれはいない。恋も愛も、誰かを慈しむ気持ちも永遠はない。憎悪や、友情。それくらいが一番丁度良いのだ。恋するほどに焦れず、愛するほどに溺れず、溶け合わない温度で短く抱き合える。それを欲するのが、化物である。

「菊弘、…お前ッなのか…!」
男は、重圧に耐えきれずその場に伏せる。そうして地面に飲み込まれていった。
「…結局お前には、私がどちらか分かるまい」
黒ずくめのスーツからいつもの和服に変わる。髪型も、菊弘のそれだ。目つきだってそうだ。
だが、男にはそのような言葉を吐く女の正体が、何者なのかはわからないままだった。

※※※
「わたくしめとしましては、最良の結末で御座いました」
枯れ果てた大木は、羅刹天に変わっていた。根本と足がしっかりと絡み、動けないでいる。本人も動くつもりがない。
「だろうな。私の<これ>がどういうものか探ることが出来ればそれで良かったのだから」
「はい、その通りで御座います」
にこりと笑えば、牙が覗く。
「理解出来たか」
「理解することなど到底無駄で御座いましょう。どのような仕組みなのか、どのような条件で発動するのかどのような事が出来るのかも理解する必要は御座いませんわたくしはただ」
―貴女の<それ>が、どんでもなくでたらめに乱暴にはちゃめちゃに卑怯なものだということが分かればそれでよろしいので御座います。
「それだけのために、あの男は永久地獄を味わうはめになったのか」
「永久地獄?天国の間違いでは?永く永く貴女のそばに居ることが出来て、貴女の助けになることが出来て、彼は大変嬉しいことで御座いましょうに。嗚呼羨ましゅう御座います、これはわたくしめは自身の欲では出来ないことで御座いますから!」
羅刹天の言葉に、菊弘はケッと吐き捨てる。踵を返して、歩いていった。羅刹天の拘束も解けている。
「自分の恋人がいつか化物になれるといいな」
「さぁて、どうで御座いましょうか…未だ叶いませんが」
嫌味のつもりで言ったが、羅刹天は存外、しゅんとして答えた。
「…そういえば菊弘殿。わたくしめに罰がくだらないのは、どういった理由で御座いますか?今のところ十年、罰がくだる様子が御座いませんで」
既に、貝木泥舟が<幽鬼現象>になって十年の月日が経っていた。
長い時間、ああして現実逃避をしていたのだ。
そうしてやっと、貝木に向き合う準備が出来た。だからこうしている。
「契約違反では無い、ただそれだけだ。お前…段々と忘れていってるな?私とお前たちは対等な立場だ、罰が自由にくだせるわけじゃあないだろうに」
「……そうで御座いましたねえ」
「被虐気質もここまでくると、同情さえ覚える」
「ふふふふふ!貴女ほどでは!」
突如として、空間は閉じた。
そこは菊弘の寝室だ。羽織りを脱ぎ捨てながら、ずるずると着物を脱ぎながら布団を目指す。がくん、と操り人形が糸を切られたように倒れ込んだ。ねむい。
怠惰で掛け布団を足で引き寄せ、そのまま腰の辺りまでかぶって目をつむった。すると音もなく、気配もなく、足元から手が這い上がってきた。するすると腹を撫で、そのまま抱き起こすようにぐっと胸の辺りを持ち上げられた。背後に息遣いさえする。
やめろ。
声は出さずに、そう言った。それでも背後の男は手を止めない。
生前から変わらない、順番通りに、セオリー通りに体を撫でる手は順序を守っている。これは私の願望か?菊弘がそう望めばそうなる、ただの玩具だ。そんな存在に成り下がった男。今しがた自分を抱こうとしているのは、彼の欲かそれとも自分の欲か。
「…やめろ、やめてくれ貝木」
名を呼んで、その名は消し去ったことを思い出す。途端悲しくなる。否、いつだってずっと悲しい。悲しい状態から、少し嬉しくて少し苛ついて、そうやって感情が少しずつ人らしくなっていっていたのだ。
この男と居ると、素直になれた。感情をむき出しにして意見をぶつけることを惜しまなかった。誰かと喧嘩したことなんてなかった。感情をぶつけたことなんてなかった。そんなことに労力は使わなかった。使えなかった。そもそもその手段を知らなかった。
「これは私の望みか!?」
叫んでも、男が首元を押さえつける。布団に沈めば涙が滲んでいった。
それでも背後の男は、愛おしそうに背中に口づけを落としていくのだ。含み笑いをしながら、まるで睦事のように。
耐えきれない。菊弘には、耐えきれない。
最初の本質を名付けで確定させただけなのだ、だから今こうして男が菊弘を抱いているのは、菊弘の意思である。そこに男の感情は無い。
いや、嘘だ。そんなはずはない。そんなことがあるわけがない。
じゃあ、ああやって会話したのは何だったんだ?
あれも私が考えたことか?望んだことか?騙されて欲しいと、引っ掛かってまんまと罠にハマって欲しいと、誑かされて欲しいと願った私の生み出したまぼろしなのか。そんなはずはない。確かにあそこには私以外の<他者>が居て、その他者は誰でもない貝木泥舟だったはずだ。誰でもない。誰でも、

誰でもないのは、たったひとり。ネモ。いや、違う。本当に、本当にここに居るのは絶対に、絶対に彼なんだ。そうでないといけない。
「やめてくれ、なあ…嘘だと、嘘だと言って、これは私の妄想ではないと、言って……言ってくれ…」

すすり泣けば、ぐるりと体を反転させられる。
大きな手。真っ白な死体のような手。体温は熱い。病人みたいな顔。長い睫毛。紫の瞳。何も変わらなくて、厭になる。これは記憶の彼なのか。ああ、何故他者の確立というものは、己では行えないのか。己が認めればいいだけという非道な条件を、何よりも憎んだ。
貝木がここに居ると証明出来るのが、たった一人自分である事を。
それでも、自分が望むことでしか貝木はここに居られない事を。

「ああ、お前の言う通りだ」

男の言葉は、刃物のように心臓を突く。

次話へ続く

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