幽かなる愛(I)

忘れたいことがある
「緊急か」
セルは押し入れから出てきた。異空間からこちらに来たらしい。
「これが見えるか」
すぐに菊弘は、部屋の隅を指差す。
「……何だ」
「見えないのか。気配すら、感じ取れないか?どうにかしてここに居る者を可視出来ないのか?」
「まてまて、一体何を見ればいいというのだ?可視?それは視界で捉えるという意味でいいんだな?」
セルは空間に円を描き、そこから魔界のアイテムを取り出す。
禍々しい形のメガネを掛けた。
「……見えるのは空気中の微生物、その他霊体エネルギーのみだな」
「霊体エネルギーとは何だ、具体的に」
「これは羅刹天の残滓だな…羅刹天が来ていたのだろう?お前の体にまとわりついている」
「それだけか」
「それだけだ」
セルはメガネを外した。菊弘の対面に、座る。
「………分かった、すまない急に呼び出して。すまない…」
菊弘は、眉間を摘んだ。酷く顔色が悪い、セルは心配そうに眉を下げる。
「どうしたんだ、詳細を話してくれないと分からないぞ菊」
「分かってる、サキューが来るまで待ってくれないか?二度手間は嫌なんだ…」
「やっほーい呼んだぁ?」
見計らったかのように、天井から赤い魔法陣を光らせて現れるのは夢魔・サキュバリエスだ。くるんと、長い手足を上手く回転させて、机の上に降り立つ。
「なになに?めっちゃ切羽詰まった感じだったけど一体どうしたのキクヒロ!」
「これが見えるか」
菊弘は、やはり部屋の隅を差した。セルももう一度そこを見る。
「はー?何が?えっ何も見えないけども…なぞなぞ?引っ掛け問題?空気は透明だから見えないよぅ。なぁに?」
サキューはテーブルから降りると、菊弘の指す場所をうろうろと歩き回った。座ったり、壁を睨んだりしている。
「何も無いジャーン!我輩をからかって〜どうゆう了見だい!」
「サキュー、物見の悪魔や千里眼…そういったものを使役しても無理か?頼む、やってくれ。とにかくここに居る者を見えるかどうかだけ、知りたいんだ」
「…え?あの、ホントにどったのキクヒロ?ま、待ってよちょっと力借りてくるから」
あまりの剣幕に、サキューは素直にそれに従った。すぐに足元に魔法陣が浮かんで、吸い込まれるようにサキューは消えた。二秒も経たぬ内に戻ってくる。
「ほいほい!千里眼とかそういう見通し能力系をとりあえず借りてきたよっと。じゃ、今からキクヒロに…」
「違う、私にじゃない。お前が見えなきゃダメなんだ」
「ええ?ますます分かんない…」
言われた通り、サキューは自分の目元に魔術を施す。
「…………ここでしょー?」
菊弘の指し示した場所を、ぐるぐると手でかき混ぜるように空中で振り回した。そうだ、と菊弘が応える。
「ダメダメ、本当に何も見えない。そのさぁ、空気中に存在するものは見えるよ?埃とか…気体とか?そういうのは見えるけど」
「…男は見えないんだな」

「……男?」
セルが声をあげる。
サキューは大げさに肩をすくめた。
「見えるわけないじゃない!居ないよそんなの!ここに人が居るかって聞いてたの!?なに!?どういう遊び!?」
「座れサキュー、説明する」
菊弘は、顎をしゃくった。苦虫を噛み潰したような顔のまま、語りだす。
「…羅刹天は、自身の怨念の力で男を死後…そのような現象に昇華したと言っていた。現象、私にだけ<見える>現象だと。私が見えないと思えば見えないし、見ようと思えばいつだって見える」
そのたった三言で、魔人と夢魔はすべてを把握する。
死後。男。それで察した。そうして菊弘がどのような心境でいるのかも、分かった。魔人は彫りの深い顔に、もっと影を落とした。何も言わずに、菊弘の言葉の続きを待つ。
「触ることも可能だ、触られることも。男が物質に触れることは難しい…目を離した隙、視界から消えた瞬間に物に触れて…例えばそこのリモコン。私がじっと見ているうちは触れない。指し示すことは可能だ、そして目をそらして…また戻すと、次の瞬間には男はリモコンを持っている。そこに彼の意思は感じられない。私が見ている時、認識している時は私の思考通りに動くようだ」
「ならば、きやつに自分の意思は無いと?」
サキューは、少しだけ嗤った。畳の上に後ろ手で手をついて、小首を傾げる。
「いや、それは少し違う。おそらく意思もあるだろう、私の意思が優先されるだけであって…男は勝手に行動することもある。もちろん会話も可能だ」
「菊以外には不可視な存在…機械はもちろん魔界のアイテム、悪魔の能力でもそれは<確認>出来ない存在。なるほど、現象とはよくぞ思いついたな」
セルは小さくため息をついた。こめかみのあたりを人差し指で強く押す。髪の毛から、小さな目玉の形をした生き物が、わらわらと机の上を歩き出す。きょろきょろと辺りをしばらく見回して、目的のものは見つからなかったのか列を成してセルの髪の毛に戻っていった。
「熊谷菊弘に見える男の…霊?いや、霊的エネルギーも感じ取ることが出来ないのなら、もはや名称付けることも難しいなぁ…現象として確立させても危ない気がする。我輩は専門じゃあないのでなんともいえないが?陰陽寮は何と言っているんだ」
列を成している目玉生物を、サキューはつついて転ばせている。
それを難しい顔で眺めながら、菊弘は低く唸った。
「………既に問題把握しているだろうに連絡の一つもないのなら、私が責任持って対処し決着をつけて事後報告をしろということなのだろうよ」
「陰陽寮と言えば、ネモは…イツカはどうした。あれには見えるのか」
「…まだ、分からない。イツカは別件で他所へ行ってる、帰りを待っているところだ…」
菊弘は答えて、そのまま机に顔を伏せた。大きくため息をつくと、その息は黒く濁って、床の上を這っていった。
「おいキクヒロ、気を確かに持てよ」
サキューは慌てて立ち上がり、その黒煙をばたばたと足で払った。霧散して、消えていく黒煙。しかし、菊弘の周囲は、既に黒い靄が渦巻いていた。
「夢魔、駄目だイツカに任せよう。早く撤退を」
セルは空中に、異空間の入り口を開く。しかし、テレビの砂嵐のように乱れ始め、三人が居る部屋自体が歪みだした。
「もぉー!何だよ呼ばれて急いで来てみれば!こんなの全っ然楽しくない!流石ラクスの企みだ、面白みが無い!最低だなーデイシュウくんは!バーカバーカッ我輩どうなっても知らないんだからぁ!」
部屋という区切りを失った空間が、形を広げてひたすらにどろどろとした黒いものが溢れていく。セルの開いた異空間への入り口にサキューが飛び込み、セルも同じくそこへ体を入れた。
「…菊、なあ菊。落ち込むのも分かるがしっかりと正気を保て、今イツカを呼んできてやるか―――」

強制的に追い出した。
菊弘は、菊弘として形作られていたものは、そのまま人の形をかろうじて保ちながらふらりと立ち上がった。
髪はとどまることなく伸びて、体に巻き付き周囲に根を広げるように広がった。黒い樹が、否…樹ではないがそのようなものが菊弘を包み込むように育っていく。菊弘だったものは、そこに背を預けて眠りについた。ねむいのだ。ねむくてしかたがない。考えることに、力を使いたくない。すべてを停止して、そのままずっと。そのままずっとこうしていたかった。

※※※
その黒い大木に触れる手があった。
生白く、まるで死人の手だ。確かに男は死んでいるが、生前もそのような手をしていたし、顔色だっていつも青白い。
お下がりはごめんだと話題になったあの着物を着て、足袋も草履もあつらえものを履いている。
「ーー、ーーーー。ー」
言葉は聞こえなかった。空気がない。振動するものが。この空間には菊弘が、菊弘たるものが広がっているだけで、声帯を震わせて発される音は、響かないのだ。それに菊弘が聞こうとしていない。
それでも自分が今、この場に存在しているのだから、彼女はしっかりと認識しているはずだ。目の前の大木は、禍々しく曲がり交わり枝分かれしている。木肌を撫でれば、末端がざわざわと揺れた。そこに手を伸ばせば、痛みもなく感覚もなくまるで元からそこにあったかのように毛細血管の広がりのように、馴染んでいく。ジワジワと、優しく包み込むように。
その様子がどうしてもおかしくて、小さく笑った。

「面白いか?それは良かった」

その声は、菊弘のものだった。
振り返る。
黒いスーツを肩に引っ掛けて羽織り、黒のタートルネックを着ていた。ズボンも黒い。黒ずくめだ。手袋も。髪も、瞳も。
顔が少しだけ違った。
隻眼を隠していない。右目に傷は無いが、少しだけ特徴的な引きつりがあった。
「…ネモか」
声は響いた。ネモが、そうさせたらしい。
「この状態になると10年はこのままだぜ、どうしてくれるんだよ全く」
男を、貝木を押しのけて、大木の肌を引っ掻いて破いていく。大木から引き剥がされた一部は、完全に本体から離れると、灰のように崩れた。
掘り起こすような動作を繰り返すネモ、その背後に立ってじっと眺めている。
「ねえ起きてよ、僕が帰ってきたよ〜おかえりのハグをして〜」
歌うように、言う。
「晩御飯を一緒に食べよ〜う、お風呂に入ろ〜う?眠って、起きて、掃き掃除〜あれこれやって、昼ごはん〜そうして夕飯、晩酌をしよう…」
しゃがみこんだ。目の前には、胎児の形をした何かがいる。それが菊弘だとでも言うのか。思わず、口元を押さえた。悲鳴が漏れずに済む。
「防衛反応のようなものだ。菊弘は昔から自分に抱えきれないことがあると<忘れる>か<考えるのをやめる>か、そのどちらかを選択する…で、セルに聞く限りじゃ<忘れる>のは貴様の消失につながるから出来なかった。だから、考えるのをやめた。赤ちゃんに戻った。快、不快を感じることさえ無い胎児にね。本当はその状態になるとネモか、その他の誰かが代わりになるのだが今は誰も居ない」
「…誰も居ない?」
そうだ、今自分と話しているネモは、菊弘の人格のひとつだ。分離させた魂のひとつ。
「お前…何で、ここに居るんだ?」
「え?何だ、何か言ってるのか。さっきからモゴモゴと雑音が混ざって聞こえない、君は本当に人を辞めてしまったんだな…」
ネモは、眉をしかめた。その顔が、そのまま菊弘に見える。ふいに背筋が凍った。
「…見えているんだろう、俺が」
「だから分からないと言っている。一方的に話すが、僕には今の貴様は異形の化物に見えている、真っ黒い影のような…硬い肌が、何枚も剥離しながら手のようなものに引っ張られるみたいに引きつってる…まぁ、かろうじて人の形には見えるがね。ああ…僕がこうして存在していることに驚いてるんだな?」
ネモは立ち上がった。対峙する。
「そうか、君は知らなかったな。そうだったそうだった、君が会いに来なくなった時期にやったんだった……ああもう!コミュニケーションが取れないのは不便だな」
しかめっ面のまま、再びあの胎児の元にかがみ込む。
「目を借りるよ?菊弘にだけ可視ってんなら、目さえ菊弘のものならそれでいいんだ。きっと」
ちゃぽん。冬の凍りついた湖が、春の温度で溶けた始めの一滴。耳にいつまでも残るような、感動さえ覚えるような音だった。
ネモの手が、何かを弄っている。手のひらの中に、大事そうに包み込んだ。何を持っているのか確認しようと一歩前に踏み出したが、勝手に体が固まった。ネモが、こちらに手だけ突き出している。ストップと制されているような、手だ。その手のせいで、全く動けない。念動力。
「…これでよし、と。ッうわ!嫌味ったらしいな、それあの着物じゃん」
振り返ったネモは、特に何かが変わったわけでもなかった。だが、見えているらしい。
「何か話してくれるか、菊弘への謝罪でもいいが?」
「…………俺は満足している」
「…それは、何よりだ」
意思疎通が出来た。ネモは、その場に座り込んだ。あぐらをかいて、頬杖をつく。
「菊弘をこんなになるまで傷付けることが出来て嬉しいか、それは何より。そしてその気持ちは分かる、私だって腹が立つからなこいつの行動には。だから別に怒っているわけじゃない…ただこれからどうするかを決めあぐねているのだよ」
「どうもしなくていい、俺はこうして菊弘に取り憑くだけだ」
「取り憑く!それはいいね、良い表現だ。ふさわしい、お前はそういうものの表現が昔から上手だ誇っていい」
「それはどうも」
褒められている気がしなくて、口角を思いっきり下げた。対照的にネモは笑う。その笑みは、ひどく菊弘に近かった。自分が知っているネモという<人物>は、もっと子供っぽくて無邪気だったはずだ。大人びている気がする。
「ネモ、お前…それは菊弘と分かれたからそんな風に笑うのか」
「ネモは人格の分類名だ、今はイツカだよ。笑うって何?私とイツカの違いか?今更そんなことを、お前は尋ねるのかい」
座れよ、と隣を指差した。いつの間にかそこには、樹の切り株が出現する。周囲は、黒塗りの森に姿を変えていた。のどかだ。鳥のさえずりさえ聞こえる。
それでも、全てが黒く、陰影がはっきりしない。いつまでも目が慣れずに、くらくらした。
「名の呪いは識っているだろう?名付けというのは、そのものをそうだと定める儀式。その後の変更は不可能、そういうものだ分かっているな?しかし死ぬと人は名前が変わる、戒名のことだ。人は死んで名前が変わり、存在が変わる。貝木泥舟は生前の名前だ、だが熊谷菊弘は死後もその名前だった。それは、死ねなかったから…二度目の生でもないただの続きだ。人から離れた人生の続き、その矛盾を菊弘は抱えきれなかった。菊弘は異能者ではあったが性質は人だったからね。人は、人外になることに精神が心が脳が耐えられない、普通なら」
だけど。ネモ…イツカは一息を置いた。
「だけど菊弘には<多重人格>という手段がある、負担を別の人格に移動させる手段がね。でも普通の多重人格とは違う、人格にそれぞれの意思は無い。それが、本当の真実。熊谷菊弘には別人格は存在しない。無意識下に自分に掛ける暗示の識別名が、別人格の名前なだけなんだよ。言ってしまえば、演技だ」
目を見開いた。そんなことひとつも知らなかったからだ。何度も多重人格のそれとは違うと言われていたものの、それが嘘だったというのだから。演技、偽りだったと。
「基盤を作ったのは別の人間だが、菊弘はそうして自分の能力を分別し、人格として昇華することで能力をうまく使った。それが生前だ。死後、人外になってそれをフルに活用することを閃いた…魔力をその分別化に使用し<ネモ>を別人格として完全に確立させたんだよ、お前が見ていたネモはそれだ。本来のネモというのは、ただの菊弘の過去だよ」

次話へ続く

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