幽かなる愛(I)

全部覚えている
川原のねぐらは酷く冷える。
それでも今の俺には、ねぐらを移動する体力は無かったしむしろ今日の食料を手に入れることさえやっとになっていた。
広間で焚き火をやっているが、それに当たろうとも思わなかった。もう死ぬのだ。はっきりと、自覚していた。
小さな詐欺で小銭は稼いでいたが、身なりがホームレスな男に出来ることは限られている。
固い布団の下は、発泡スチロールだ。少しは寒さが凌げる。かさかさの使い古された毛布にくるまって、明日は起きるのだろうかと思いながら目を瞑った。
すると、施錠できないねぐらの入り口が空いて誰かが入ってきた。
ホームレスの連中は、既に俺の死期を察しているのでこうして訪れてくる者はまず居ない。物好きな泥棒か、それともストレスの溜まった若者か。出来れば前者が良いと思いながら目を開ければ、そこには思わぬ客人が立っていた。

「死神がお前の死期を教えてくれたのでね」
笑っているのか、そうじゃないのか。老眼鏡の無い状態では全く分からなかったが、声で誰だか分かってしまった。俺はいつまで経っても忘れられないでいたらしい。声も匂いも、全て。酷く腹が立って無視を決め込むことにした。寝返りを打って背を向ける。
「なんだ、なぁ久しぶりなんだから」
「だから何ださっさと行ってしまえそれとも俺が死ぬのを見たいのか悪趣味だなそして、嫌な女だ」
「ふふふ、そうだ。お前が寂しくこんなところで死ぬと聞いてすっ飛んできたんだ。せめて見送ってやろうと思ってね」
枕元に勝手に侵入してきた。本当に、嫌な女だ。上質な黒のスーツ、黒ずくめだ。それでも、どんなに俺が歳を取ろうとも、どんなに月日が経っても。菊弘の顔は変わっていない。
「喪服とは気が早いな、よほど早くくたばって欲しいらしい」
「違う違う、これは今の仕事着だ。着物は普段着に下ろした」
どうでもいい情報だ。俺は目をつぶる。菊弘の言葉が正しいのならば、俺はもうすぐ死ぬのだ。ならばさっさと死ぬに限る。
「…ほら、お望み通り死んだぞさっさと帰れ」
「死体は喋らないだろうに」
「本当に見送るつもりか?」
目を開ければ、目の前に女の顔があった。いつの間にか隣で寝転んでいる。小綺麗なスーツとボロの布団。場違いだった。
「そのつもりで来た。それ以外に何か理由があると?」
「抱かれに来たんだと」
語尾は咳に変わってしまった。背中を擦られる。もはやここまで来ると虚しい。
「抱いてくれるのかおじいちゃん」
「いいともお前が俺に乗って腰を振れお嬢さん」
俺の声はみっともなかった。かすれて、老いぼれて、何もかもがあの頃と変わってしまっている。それでも目の前の女が全く変わっていない。それが、悔しかった。そんなこと、菊弘は全然知らないだろう。わかりもしないだろう。人であることを辞めて、人であることを賞賛するこの女は、人でない者と一緒に過ごす苦しみをわからないだろう。

そのまま見つめ合っていた。何も言わない。この空間が好きだった。何も考えなくていい、あっちも何も考えていない。と、思いたい。ただひたすらに時間が過ぎて、彼女の隻眼だけが潤んできらめいている。それが好きだった。ただそれだけが。

※※※
この寒空ならば、死体は腐らないだろう。
彼のねぐらだった場所の入り口を、あからさまに開いておいた。きっと誰かが異変に気付いてくれる。無縁仏になるが、それは元から決まっていたことだ。身元不明死体として処理されることは、既に決まっている。
何かの気まぐれか、それともあの死神でさえ男に同情していたのか分からないが、死神は規定違反にさえなる事をしてきた。しかし彼女を罰するものなど居ないのだ。まさに神の気まぐれ。

朝日が昇り始めていた。
川沿いの砂利道を歩いていく。鉄橋を電車が走り抜けていく音だけが、いつまでもこだましていた。
大きくため息をつけば、白くなる。だがそれは、そういう風に見せているだけなのだ。人間の吐く息に見えるように。
化物だ。化物なのだ。分かっている。だがそれでも、根本は人だった。人のつもりだった。どんなに自分に、忌々しい過去があれども人として生きてきた。他者を愛し他者を憎んだ。人間とはそういうものだったはずだ。何も間違っていない。
それでも、彼は言い続けてきた。嫌な女だと。もっと素直に女らしくしていればよかったのだろうか。今となっては分からないし、その女らしさというものも分からない。女として生きてきたつもりはなかった。ただ、熊谷菊弘として人生を全うした。間違いだったとは思わない。
彼の望む自分には、なれなかっただけだ。
どうとも思わないんだろうな、というようなことを言われた。覚えている。だが、一言一句そうだったかと言われると自信は無い。記憶力が無いわけではないのだ。重要でないものは、消えていく。彼との思い出さえ、別れのシーンでさえ、自分の中では<重要>ではない。

「それでもやっぱり、長い付き合いのある人が居なくなれば…私だって悲しいんだよ。泥舟」

最後まで彼の本名を知らなかった。その名前が本名であるかさえ。誕生日、出身地、好きなもの嫌いなもの。最後まで知らなかった。察していただけだった。一度も教えてもらったことはない。一度も、尋ねたことはない。

涙が流れたが、それはやはり人らしくあろうとする自分の魔力が、悲しいという感情に感覚に反応して流しているだけなのだ。化物だ。もう人らしくあることは、難しい。

※※※
「で、わたくしめを呼びつける大義というものがあるのならば是非ともお聞かせ願いたいもので御座いますねぇ貝木殿」

死神はいつもの喪服姿ではなかった。
「菊弘には知られるのか」
「特に報告義務は御座いませんよ、最初の質問にお答え願えますか」
何枚も何枚も高価な着物を重ねて、足の高下駄には鈴が垂れ下がっていた。その服装は、貝木が知っている死神の形ではない。額から天を向かってまっすぐに伸びる角。そうして口元から覗く牙。鬼であった。鬼神、羅刹天。
「…俺とお前が何か契約を結ぶことで、菊弘には知られるか」
「とても菊弘殿を恐れているのだな、お前は」
声色ががらっと変わった。無風状態のはずの廃墟は、ビリビリと空気が震える。
「それはそっちも同じだろう」
しかし貝木は物怖じしない。その態度が、羅刹天の興味を引いた。自分のマイナスになることからは、すたこらさっさと逃げ帰るような男だったはずだ。菊弘と…自分の主人と距離を置いたと聞いた男は、何を企み自分を呼び出したのか。呼び出しに応じたのは、気まぐれであったが、これは良い機会に巡り会えたぞと鬼はほくそ笑んだ。
「口ぶりから、この羅刹天と何か密約を交わし自身に人ならざる付与を求めていると案じるが?まさか、人外になりたいなどと言うまいな人間よ。それは大罪ぞ」
「……菊弘は、あの野郎は生前お前らと関わったばかりに死後あんなふうになったんだろう?」
「そうとも。彼女はいささか引き寄せやすいタチであった、そう…いうなれば貴様のような…………」

羅刹天は、口元を覆った。考えるような仕草。禍々しく長く伸びた爪が、彼女の綺麗な顎を引っかく。少しだけ血が滲んだ。白い顔によく映える、朱。
「人間よ、そうだな。貴様の考えるとおりだ…貴様にも<性質がある>、成り得る…成り得るであろうなあ」
かっかっか、と喉から絞り出すように笑う羅刹天。
「そうだ、お前の考える通りだ。俺はそれをやりたいお前だってそうだろう互いの利害は一致する。俺も望むべきことが出来るしお前も望むべき事態になるそうだろう、死神」
貝木は、足元から這い上がってる風に身震いした。生ぬるく、硫黄臭い風が黒いコートを触っている。ネクタイの端を触り、そうして首筋を撫でた。

「いいだろう乗った。貴様の企み、この羅刹天も関わらせてもらう」

「と、いうわけで死後こうなる契約なんだ大まかに言えばな」
男は、縁側に座っていた。あの和服を着て。髪は下ろしていた。いつもは前髪を上げているのに。その顔色はいつも以上に死体に近い。いつも以上?いつもとは、いつのことだろうか。
男の死体が見つかったのは、あの日から二週間後。役所がしかるべき仕事をして、そうして男はこの世から跡形もなくなった。灰は、共同墓地にあるが。
仕事を済ませて家に戻れば、おかえりと声をかけられたのだ。墓地に眠るはずの、かつての親密な男に。
「…ッ羅、刹!天!!」
叫び声になっていた。菊弘の声に、晴明神社の上空が歪む。
硫黄の匂いを纏いながら、羅刹天は骨のみの翼をはためかせて降り立った。天使には程遠いが、それに近い雰囲気だった。しかし称える微笑は、天使そのもの。
「どうなさいましたか、菊弘殿」
「人間を人外に変えただと!?二度目の大罪だッ許されるとでも思っているのか!」
まるで獣の咆哮だった。その威圧に、ラクス…羅刹天の骨の羽根が砕け散る。少しだけ後ろによろめいたが、相も変わらず微笑は称えている。
「おやおや、おやおやおやおや…これは菊弘殿ともあろう者が目論見を外しておりますよ。わたくしめは大罪など犯しておりません、わたくしめは何もしておりません。あなたにしたことと同じ、否…あなたにしたこととは異なりますかねぇ。わたくしは念じただけで御座います」
まるで騎士が跪くような動作で、羅刹天は着物をはためかせる。ちぐはぐだ。
「鬼の怨念で御座います、ただひたすらに何にも止められない呪いで御座いますよ菊弘殿。これだけはあなたでも祓えますまい、陰陽寮にも祓えますまい。呪いの怖さはご存知でしょう?わたくしめだって、念じればそうなる生き物なのだ。お前と同じよ人の子菊弘。お前と同じように、念じれば言えばなそうなるのだ知らなかったとは言わせんよ?」
笑う。鬼はけらけらと嗤った。
「何の咎も受けぬわ、何も犯してはおらんからな。かの男は死後、ああなっただけだ。生き返ってもおらぬ蘇ってもおらぬ、ただお前の目の前に現れただけ、ただそれだけのこと。あれはもはや人外でもない、存在は無い。あれは現象である」
「何を、言っている…」
菊弘はついに羅刹天の襟元を掴んだ。
静かにため息をついて、羅刹天は続ける。
「現象だ。お前にしか見えぬ男、そういう現象となったのだよ。ほぅらこうして気がそれているうちにあの男は消えてしまう…」
にたり、と笑う口元からは牙が。菊弘は勢い良く振り返った。乱暴に突き放せば、その勢いのまま羅刹天は霧散する。くすくすと笑い声を残して。

「…っどこだ!どこだ貝木!」

言葉通り、男は消えていた。縁側に座って呑気に新聞を読んでいたはずなのに。菊弘の夫が使っていた老眼鏡を掛けて。
「貝木!…ッ貝木!!」
「ここだ」
すぐ耳元で声が聞こえる。振り返れば抱きとめられた。ぐわんぐわぁんと、目眩がした。立っていられずに、男に抱きとめられたままずるずると地面に尻もちをつく。
「聞いただろう俺はお前にしか見えない<現象>だ。羅刹天の怨念から生まれた現象。お前が俺の存在を消そうと思えば消える、だが望めば」

男の声は、変わらない。いつもと。いつもと?一体いつの?いつの貝木なんだ?
菊弘は目を見開いて、その瞳からぼろぼろと涙を流す。

「望めば、いつだってお前のそばに居る。いつだっていつまでだってどこまでだって」
男は笑う。意地悪に。にやりと。菊弘は男との再会を喜んでいるわけではない。喜べない。
彼だけは、彼だけはと守ってきたのだ。守ってきたはずだった。人外たちから遠ざけ、人外たちの影響下から外した。そのはずだった。しかしもはやこれでは、自分と関わった時点で終わりだったのだ。そういうことだ。そういう結末になってしまった。
こんな、ひどいことはない。

菊弘は、ひたすらに泣いた。

次話へ続く

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テーマ「人外ファンタジー」
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