幽かなる愛(I)

傷跡を覚えている
歳を取らず姿の変わらない化物には、老いへの恐怖や苛立ちは理解できないだろう。そんな怒りを半ば八つ当たりでぶつけていた気がする。
そんなことを言ったって―実際に口にはしていないが―、相手には何のダメージが無いことくらい分かっていた。
それでも、彼女が対して気にせずスルーするのを知っていたので繰り返ししつこくそうやって彼女をけなしていたと思う。老いへの恐怖や苛立ち、そんな感情はとっくに経験しているだろうに。その事実さえ言わず、彼女は難しい顔をして「すぐに文句を言うね、お前は」と呆れたようにため息をつくのだった。
突然、ワケの分からない状況に引き連れてこられて、そうして二度と今までどおりの生活は出来なくなってしまった。存在している証明が誰にも出来ない状態。幽霊のような、そんな状態になってしまった。
彼女のせいで。
否、彼女は救おうとしていたのだ。しかしその傲慢さで、一人の人間の<すべて>が狂った。菊弘は、その責任を感じているのだった。

「俺のことは誰に見張らせているんだ」

やはり菊弘は、境内の掃き掃除をしていた。
五時半には身支度が済み、七時を過ぎる頃にはこうして掃除を始めるのだ。それは菊弘とつるむようになってから…正確には菊弘が貝木との同行を辞めた頃合いから、変わらない習慣だ。
男の状態が安定するまでは、菊弘が付きっきりであれこれと対処していたのだが、もはや今はその必要もない。<物語>は、終わったからだ。
「…見張る必要があるのか?」
質問に質問で返す菊弘。
箒を動かす手は止まらない。落ち葉を見つめる目は動かない。
「お前の組織は俺を監視しているのか」
質問を繰り返す。
「いつから貝木泥舟は監視が必要な程危険な人物になったのかな?」
答えは帰ってこない。しかし、その問いかけは答えでもある。
危険人物であると見なされないのであれば、監視されない。
「では俺がどこに居て何をしようと、政府は関与しないというわけか」
「陰陽寮のやることは主に人外関係だからね」
「…俺は、人外には含まれないと?」
そこで初めて、菊弘は手を止めた。男と目線を合わせる。
声がやっと届くという距離だった。それでも、境内は静かで二人の声はよく通る。
「私が保証する。お前は人外には含まれない」
「どうだろうな、お前に言われても信用ならん」
「……私が嘘をついたことがあったかよ」
その、むっとした顔に向かって、男は真実をつきつける。
「お前は嘘はつかないが、本当のことを隠すだろう」
菊弘の表情が固まる。一瞬息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。
「………で、監視がどうのは何の話だ?」
男の方に歩む。目の前に立った。見上げれば、見下される。
「俺はもうここには来ない。それだけだ」
「…は?…そう、そうか」
「今後、二度と関わるな…と言ったらお前は少しは感情が動くか動かないだろうなお前はそんな女だからだ俺は分かっている。じゃあな」

菊弘が何か言う前に、逃げるように踵を返した。静止の声は掛からない。そのせいでもっとイライラする。だがこちらからどうこうするつもりは毛頭ないのだ。
やはり、お前は嫌な女だ。

貝木泥舟は、半ば異次元と混じり合った京都の晴明神社から出た。

「…それでも、長い付き合いの人間に会えないと寂しいとは思うんだがね」

強がりとは言いにくい言葉を、菊弘は吐き出した。

※※※
戦場ヶ原の依頼を完遂し、そして暴漢に殴られた。
が、助かった。だからこうして未だ詐欺を続けている。好調だ。それもそのはず、自分だって口は上手い方だがその上を行くスペシャリストを同行させているからだ。菊弘は、口が上手いとかそういう次元ではない。言ったことが、その通りになる。そうなってしまう。それはもはやチートだ。世界の支配者になれる。だが、そんなことに尽力するような性質ではない。正義の味方なのだ。
そんな正義の味方様様が、薄汚い最低野郎の詐欺師と一緒に詐欺を働いているかというと。まあ簡単に言えば、詐欺師の<運命>を捻じ曲げてしまったから、責任持ってその捻じ曲げた部分を叩いて伸ばして、必死に元の形に近づくように行動しているだけ。それだけ。
詐欺師の人生は、詐欺をして生計を立ててそうしてひっそりと死んでいくというもの。至って普通、詐欺師としては。しかし、その存在の根底を覆す程の<改変>を、彼女は行ってしまったのだ。
一度曲げた鉄の棒は、もう二度と同じ形には戻らない。
真っ直ぐに戻したとしても、曲げた痕跡が残る。
その痕跡は、誰にも手出し不可能。修正も、無かったことにも出来ない。重罪である。
熊谷菊弘は、誰にもどうにも出来ない域のタブーを犯した。どうにも出来ないので、罰を下すことも出来ない。ただ、出来る限りの贖罪をするのみ。

「私の暗示は、多人数だと効き目が浅い。この前誑かしたヤクザもんだが、あれがそろそろ暗示から覚める頃合いだと思うよ」
ビジネスホテルの一番良い部屋、そして酒屋で買った赤ワイン。高所からの夜景は、もはや都市部であればどこだって綺麗に見えるものだ。
備え付けのグラスに注いで、コンビニで購入した柿ピーをつまむ。
「もう一度同じ事をやるか?」
既にほんのりと赤くなった顔を眺めながら、椅子に深く腰掛けた。
「ダメだ、同じ暗示は効果が薄まる。奴らに私達のことを完全に忘れさせたいのなら確実に一人ずつじっくり暗示を掛け直したほうがいいね」
「……可能なら、やるべきだな」
「まあ、やれないこともないが…」
ワインを飲み下す白い喉、女にしては喉仏がはっきりと浮いている。そのちぐはぐさが、変に魅力を感じさせた。
「陰陽寮からは、詐欺行為に関して私のみの力の行使は見逃すと言われている。私の配下の力は使えない、使った途端お前と私は酷い目にあうだろうね」
「酷い目…ってのは具体的に」
「警察に捕まった方がマシ」
二人は黙り込む。
「次の手を打つなら早急にやらねば…奴らの記憶が戻って我々の顔写真でも他の組織に回されてみろ。特に動きにくくなるぜ」
「分かってる」
両手で顔を覆った。厄介なことに巻き込まれている。こうしてホテルの良い部屋で呑気に良い酒を飲んでいる場合ではないのだが。
「しばらく別行動を取ろう、私の力の使用は認められている…私が単独で奴らをどうにかするよ」
「一人で出来るのか」
「んー……まぁ、色々と<人間>のコネを使えばね」
「圧力を掛けるだけでは駄目だ奴らに俺達を追うなと権力でねじ伏せても逆効果にしかならない、印象を記憶をすべてをさっぱり消すことが重要なんだ」
「分かっているとも。完全な記憶消去を行うさ、コネを使うのは奴らを集める手段だよ」
女はベッドに移動した。横になる。グラスに残っていた赤ワインを、見つめていた。横になった女は、寝転びながらバスローブを脱ぎ捨てて床に落とした。完全に眠りにつくらしい。
その流れを、もう覚えてしまった。そうして左側を下にして眠るのだ。
その隣に、わざとらしくベッドを揺らして近寄れば、うぅんと苦情の唸り声。これもお馴染みだ。
いつからだっただろうか。いつの間にか、男女の域を越えてしまった。手を出すつもりなんて毛頭無かった、これっぽっちも。一瞬興味が湧いたのだ。この女も、自分が知る世間一般的な女なのだろうか、と。

部屋はいつも二部屋取っていた。
だが、片方の部屋はいうなれば菊弘が寝るだけの部屋だ。作戦会議とか、まあ雑談とか。とにかくねぐらに戻れば二人で一緒に食事ついでの晩酌などやっていたのだ。
関係はそう悪くない。出会ったきっかけ、その他諸々は最悪だが、別に嫌いではなかった。距離感も、気の遣い方も、彼女は自分の理想だ。それに何を言っても、便利だ。協力者としては百人力なのだ。好きか嫌いかでいえば、好きに針は振れている。そこに好奇心がプラスされた。抱けるのか、抱けないのかではない。そのような誘いをした時、どんなリアクションをするのか。それが知りたかった。
聞く限り、経験がないわけではない。夫が居たそうだし。
身近な化物は、一体どんな顔で男の誘いを断るのか気になった。

「じゃ、そろそろ寝る。明日はゆっくりでいいんだろ?」
自分の座っていた椅子に引っ掛けた羽織りを手に取る。それに静かに声を掛けた。
「今回は、部屋をひとつしか取ってないんだ」
「…え?なんで、ダブルブッキングでもした?なら仕方ないな」
と、言いながら菊弘は広くて大きなソファーに羽織を投げた。
「ソファーを借りるね」
「部屋は、最初からひとつの予約だ菊弘」
窓から見える都市の明かりを眺めながら、はっきりと言った。
そこに映る女の顔は、理解できんというように眉を下げている。えっと…と言葉を紡いで、胸の前で指を組んでは外し、組んでは外しと落ち着かないようだった。思わず笑いそうになって、頬杖を付いた手で口元を隠す。
「まぁ…寝るだけの部屋を取るのは勿体無いしなぁ」
「そうだな」
肯定をしておく。
「べ…っどが、広めなのは〜…お前の趣味だもんな」
「そうだな」
その通りではある。
「あー……じゃあ、まあ…寝るので」
「風呂は」
ソファーに座って、菊弘は帯を緩めていた。立ち上がってそちらに歩み寄ればまるで追い詰められた小ネズミのように肩を強張らせる。これは面白い、と思った。予想していた反応ではあるが、それ以上に胸が高鳴った。
「ふ、風呂?風呂、ああ風呂ね?あ、そうだね入る入るよお借りします」
「じゃあお前の後に入る」
「はい了解しました」

風呂場に、菊弘が消える。

どんなに高い部屋だろうと、機能性・利便性重視のビジネスホテルでは風呂場であろうと音は丸聞こえだ。必死に笑い声をこらえて、彼女を待った。
かなりの年上だ。なにせ菊弘は第二次世界大戦を戦った軍人なのだから。それに比べてこちらは戦争のせの字も知らない男だ。教科書で学んだものと、生身で経験したもの。まるで違う。それなのに、こうも同じ人間であると目の前で見せられると、どうも可笑しい。
と、思ったところであれは人間ではないと気づいた。
そう、人間ではない。そう思えば思うほど、何故か厭な気持ちになった。このもやもやは何だろうか。初めて、経験する感情だ。
それがいつまでもいつまでも気持ち悪いせいで、ごまかすために菊弘を知ろうとしていたのかもしれない。なぜ、そんな風に思っていたのか、今になっても分からないままだ。

「どうぞ。先にいただきました」
思案にふけっていると、存外早く菊弘は出てきた。
目も合わせずに、鏡の前に座ってドライヤーを髪に当てだした。着ているのはいつもの和服ではなく、備え付けのバスローブだった。それをしばらく眺めてから、未だ蒸気の立ち込める風呂場へ入った。
綺麗に水滴が拭き取られていて、几帳面だなと思った。いつもこんな風にするのだろうか。まあ、これからそれは分かっていくことだ。
きっと、分かっていくことだ。

※※※
テレビを見ていた。深夜のニュース。明日の天気は晴れらしい。
頭をタオルで拭きながら、菊弘がソファーでくつろいでいるのを見つめる。
「……明日は、晴れだって」
「そうか」
テレビを見たまま言う。ドライヤーで髪を乾かす。その間にも菊弘は何度かチャンネルを変えた。落ち着かないようだ。
ベッドに、腰掛ける。
「…もう寝るか?」
「ああ」
菊弘はテレビを消した。そのままソファーにクッションを並べて、枕を作っていた。
「ソファーで寝るつもりらしいな」
言えば菊弘は、ぎょっとした顔を作った。必死にポーカーフェイスを努める。
「隣が空いているんだが」
「と、となり…」
「ああ、こんなに広いんだ俺はそこまでケチ臭い男じゃないぞ」
「……まあ、そう言うのなら」
電気を消すために、寝転びながらベッドサイドに手を伸ばす。その隙に女は静かに隣へ乗ってくる。さっと背を向けて、そのままタオルケットを自分の腹に掛けた。
そうして、部屋は暗くなった。
至って普通に、同じくタオルケットを腹に掛けて仰向けになる。至って普通に。そして、隣の女の様子を確認する。下手に言葉をかけるのは、野暮だと思ったし、それよりも無言で行動を起こした時に、菊弘がどういう反応をするか知りたかった。
ゆっくりと、だがちゃんと相手に動作が伝わるように。そっと上体を起こして女の背中に近寄った。呼吸の音が聞こえる。そっと手を伸ばして、肩を強く掴んだ。そのままぐるんと体を反転させる。息を飲む音が聞こえる。すぐにそのまま覆いかぶさった。目がまだ慣れていない。それでも目の前の女の息遣いは分かるし、掴んで重ねた手のひらは汗で濡れていた。そうして、勢いで唇を奪う。びっくりするくらい、熱かった。

意外にも、文句一つ言わなかった。ただひたすらに声を堪える。そんな普通の女だった。
終わった後、しばらく女の顔を見つめていたら耐えかねたようにやっと言葉を発した。
「………性欲が、あるとは思ってもみなかった…」

たぶんその言葉が、カチンと来たのかもしれない。今でもわからない。どんなことを言って欲しかったのかなんて、最初からわからない。ただの好奇心からの行動だったからだ。まさかここまで、自分の感情をかき乱されるとは思ってなかったから。

「…これから、こうして性欲のはけ口にさせてもらう嫌なら拒否しろ意見は聞いてやってもいい」

だから、そんな風に答えてしまった。

次話へ続く

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