幽かなる愛(I)

香りを覚えている
「ダメだよキクヒロ。お前が本筋を曲げてしまったんだ、誰でもないお前自身がね」
夢魔は言った。残念そうに。
「本筋を、曲げた…?そんなわけあるか、私はお前が言うゲームのルールに従いそして勝ったぞ!?貝木が死んだとは明言されていない、あいつの身元は不明だ。仮にあそこに死体があってもそれは<貝木泥舟>だと誰も証明できない!」
「そうだともそうだとも、お前はそこを突いて見事にデイシュウを<生存ルート>に導いた…我輩正直ビックリだよ。まさかここまでお前が粘るとは思っていなかったし、こんな荒業で勝利するとも思ってなかった。お前のことだから、ただ我輩を排除するだけに力を注ぐと」
「人の目の前で命を何度も殺し、そしてお前には救えないぞと見せつけておいて…今更何を!」
夢魔は、心底悲しそうな顔をした。偽りではない。悲しいのだ。
「もう誰にも<修正>出来ない。お前が、誰でもないお前が<修正>してしまったのだから。デイシュウは<生存>でもなく<死亡>でもない、そういう筋書きの中に居た」
菊弘の目の前に、一冊の本が現れる。
「だがキクヒロ、お前が確定した<生存>を作ってしまった。もうお前の助けたあの男は誰でもない。何者でもない。本当の意味で、何か別の違うものになってしまったんだ。あの男だけでは二度と、本筋には戻れないぞ」
「物語への介入は、お前の力でどうにでもなるはずだ」
「分かった。従おう、次の筋書きへの介入を手伝うよ。お前がサポートするんだ、彼を周囲に<死んだ>とも<生きている>とも思われてはいけないよ。幽霊かのように見せるんだ、そうすれば何も問題はない」
「その後は…その後はどうする…」
「日常に生きることは出来る。しかし、あれはもう別の貝木泥舟だ。お前が作り変えた。お前が、面倒を見ろ」

※※※

「物欲しそうに眺めていたのを思い出したので、これみよがしにプレゼントしてやることにする嬉しいか嬉しいだろう金を払え」
「プレゼントって言わなかった?」
和室の大きなテーブルの上に、香水の箱を並べだす男。
菊弘は読んでいた新聞を畳の上に置いて、男のために新しく茶を淹れた。
「バレッタもある」
「へえ!香水が出たのは知ってたが、それは知らなか………ぷっなんだこれ!?付けるのに抵抗があるなぁ!」
机の上に並べられたバレッタを取って、菊弘は自分の前髪を止める。
「他にも色んな台詞のバレッタが出るかな」
その顔は楽しそうだ。対照的に、向かいに座る男は親戚の葬式がいっぺんに来たかのようなそんな暗い顔をしている。だがそれでも、菊弘の知人のその顔とは、また少し趣が違った。
「嬉しそうだ」
「ま、悲しいとは思わないよね」
菊弘は、男に茶をすすめた。男は手を付けず、ひとつの香水を取り出して女の前に推し進めた。王手に駒を進めるように。
「この香りと、同じ匂いなのか」
「は?何が?」
「この香水はお前の旦那のイメージフレグランスだぞ」
「イメージ、フレグランスでしょ?本人の匂いじゃない」
「だからどうだったのかと聞いてるんだお前は文脈から何も読み取れないのか」
「ええー?」
菊弘は香水を手に取った。瓶を眺めてから、しゅっと手の甲に吹きかける。しばらくスンスンと鼻を動かして、小首を傾げたり目を瞑ったりした。
「いやいやいや…完全に良い香りじゃん、こんな良い匂いする男は存在しないでしょ。ほんとイメージじゃん」
「じゃあ、イメージ通りか」
「世間一般的に知られているイメージならそうなんじゃない?」
手の甲を、耳の裏にこすりつけた。
「その口ぶり、自分のイメージではそんな香りじゃないと言ってるようだが」
「そりゃそうだろ、普通の男の匂いってのはもっとこう男っぽい…?」
「なんだ。忘れたか」
「うまく説明できないだけだ」
菊弘はむっと顔をしかめる。すっかり冷えた自分の茶を飲んだ。
「かわいそうになぁお前の旦那はきっとあの世で嘆いていることだろう、自分の妻に忘れ去られて」
「忘れてるわけではない。と、いうかもう何十年も昔の話だぞ?覚えていた方が気持ち悪くないか」
「そうやって自分の落ち度を正当化するところはいつもながらに上手だな末恐ろしい程に嫌な女だ」
男は早口でまくし立てた。
「お前は嫌な女だそうやって関わってきた人間をどんどん余計なものとして記憶の中から消していくのだろうなあ」
「……お前、嫌味を言いに来ただけか」
菊弘は、畳んでおいた新聞を広げる。男はすっと立ち上がった。
「最初に言ったはずだ。プレゼントをしに来たと」
「それにしては大きなオマケだったね」
オマケ…男の嫌味を聞き流しながら、菊弘は鼻で笑う。

※※※
「着物以外のものは無いのかこの家は」
「まぁた文句ばっかり言う」
風呂上がりの男に着替えを渡してやれば、嫌そうな顔をしてそれを受け取った。条件反射で文句をつける男だ、今更気にしない。
「毎日のようにお前の旦那のお下がりを着せられる俺の気持ちを考えてみろ、まるで自分を全否定されているみたいで不愉快極まりない慰謝料を払ってもらおうか」
「ほんと、今更のことを言う」
新品の下着の封を切れば、ひったくるように男はそれを奪った。そして菊弘にローキックを食らわせる。いつまで脱衣所に居るつもりだと文句を言っているらしい。

「それに、その着物はお下がりじゃないぞ」
晩酌。いつの間にかそんな形が出来上がっていた。寝室として使っている彼女の部屋は広く、窓際には使い古したテーブルと椅子が並んでいる。まるで、旅館の一室のようだ。一度そう言ったら「そのとおりだ、そういう風に見えるように配置してる」と笑った。旅行気分を味わいたいらしい。だから、寝室にしては広い。
「…なんだ、プレゼントして受け取ってもらえなかったか」
そのテーブルの上に猪口を置けば、菊弘はそこにおかわりを注いだ。
「いや、どうだったかな。プレゼントってわけでもなかった…気がする…」
「忘れたのか酷い女だなお前は」
吐き捨てるように言えば、向かいで夜空を眺める女は口角を下げた。
「忘れたさ、何十年も前のことだ…匂いだって声だって。忘れた」
「そこはもっと悲しそうに言うべきじゃないのかやはりお前は」
嫌な女だ、と男は結んだ。

※※※
暴力的な朝日が、突如として瞼を焼いた。
「っ、う…」
布団に潜り込めば、物凄い力で引き剥がされる。
「朝飯出来てるぞ、早く顔を洗ってこい」
「…何時だ」
「五時半」
「早すぎるだろう…腹は減ってない」
「布団干すから、食わないにしろどけよ。このまま転がされたいか?」
菊弘は敷布団の端を掴んだ。のろのろと這いつくばって、男は部屋の隅に逃げる。
窓を開け放って、手すりに敷き布団を干す。掛け布団は、さんさんと日差しの当たる椅子の上に引っ掛けた。その様子をぼんやりと眺める。
布団叩きで、ばふんばふんと大きな音を立てている菊弘の背中を、見ていた。
「近所迷惑だ、婆さん」
「…ははっ!一理あるなぁ」
叩くのを止めて、にこりと笑いかける。その笑顔が、嫌だと思った。何をそんなに嬉しそうにしているのだろうか。何をそんなに愛想を振りまく必要がある。
そのまま、窓の桟に腰掛ける菊弘。そよそよと風に煽られた黒髪が、いやに視界に焼け付いた。
「…………なんだ?」
まるで今から襲うように、男は菊弘の眼前に覆いかぶさった。身動きが取れないように、窓の桟に膝を置いて手首を掴む。
「俺を旦那の代わりにするのはやめろ」

それだけ言って、さっと身を翻す。
同じ空間に居るだけで、苛立ちが募った。

次話へ続く

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -