幽かなる愛(I)

それは儚くて朧げな
静かに障子戸が開いた。
微睡みの中の意識が、引っ張り上げられる。だが疲労から、瞼は開けられないでいた。
戸を開けた者は、ゆっくりと静かに布団を踏んで枕元に座った。
「…おはよう、おかえり菊弘」
聞き覚えのある声だった。自分の声を録音してスピーカーから流れ出す声だ。
「………おはよう、イツカ」
「大丈夫だよ、君の仕事は僕が全部請け負ったから。ここ数年何も起きてないし、何も悪い風にはなってない」
イツカはそっと菊弘の頭を抱えて、自分の膝の上に導いた。
菊弘もそれに従い、うつ伏せのままイツカの腰に抱きついた。頭をそっと撫でる仕草が、心地良くてため息が出る。
「君に流れていた空白の十年は修正済みだ、周囲に影響はない」
「…何から何まで、すまないな」
「いいんだよ、その為の僕だろう?」
くすくすと子供のように笑った。それにつられて自分も笑みになる。
「イツカ…見えないか?お前にも」
言えば、また涙がつたった。どうしても止まらないらしい。
それを指ですくって、イツカは答える。
「僕には異形にしか見えない。僕に見えるのはヒト以外はいつだってそうだよ、君も見た事があるだろう?…具体的に教えようか?」
頷けば、視線を右にやって言葉を紡ぐ。
「黒くて、泥のようなんだ。泥の塊が地面や壁にへばりついて人の形になってる…のがかろうじて分かるよ。泥は水分を含んで動いているけど、いくつか固まって剥がれ落ちてるようにも見えたりする。顔、があると思う場所はよく見れば髪の毛が見えるね」
「誰だというのは分かるのか」
「もちろん、ずっと君を通して見てきたんだもの。貝木くんである名残はもう無いけどね…羅刹天の怨念でああなったんだっけ?だからあんなふうに変質したのかな…」
「会話できない?」
「どうだろう、さっきから部屋の隅で固まって動かないんだ。僕を警戒してるのかなあ?……ねえ、怒らないからこっちにおいでよ」
菊弘は顔を上げた。
部屋の隅に、男は立っている。
「…イツカだ、知っているだろう」
「分離したのは本当だったのか」
「……ここに居るイツカは、きちんと私が現界させたイツカだ」
「あー何か喋ってるのは聞こえる、でもきちんと聞き取れない」
イツカは小首を傾げた。
菊弘が、起き上がって貝木を呼び寄せる。はだけた着物を、イツカが直してあげた。男は菊弘の隣に正座した。
「イツカに話し掛けてみろ」
「…何を話せってんだせめて話題を提供してくれ」
「ん?え?…やっぱダメ、黒いドロドロがもごもご言ってるのしか分かんない。多分波長が合わないんだ、僕と菊弘じゃ波長が全く違うから」
「…そう、だろうな」
菊弘は、目眩を覚えてその場に手をついた。
慌ててイツカがそれを支える。背中を擦る。
「大丈夫だ菊弘、大丈夫だよ。僕が見えてるってことは貝木くん自身が力をつければ、どうにか現界がはっきりするって」
「私が教えるしかない、じゃないか…そんなん無理だ…わからないのに、教えるとかもっと不可能じゃないか…」
やはりさめざめと泣き出す菊弘。それをイツカが慰める。
「泣かないで菊弘…僕も協力するって!セルも力になってくれるだろう?なんなら他の召喚師にも助力を願おうよ、きっとこの状態から脱退出来る。大丈夫だって」

男は、正直驚いていた。
菊弘とネモ…イツカが分離し、そうして<二人>になったことはついこの間知った。そこに驚いているのではなく、こうも弱くなってしまった菊弘に対してである。

「何をそんなに、泣く必要がある…」

男の声に、菊弘は唇を噛んだ。
「…あ!貝木くん今すっごい失礼な言ったでしょ!?なに?もぉ〜会話出来ないってすごく不便だねぇ。まあどうせ、君のことだから?こんな風に菊弘が落ち込んでるのが理解できないんだ」
「イツカ、いいから」
「ダメだよ、ちゃんと言わなきゃ。自分で言える?言えないでしょ?言うつもり無いでしょ?でも僕は言うよ、ほら貝木くんこっちに来て。別室で話そう」
イツカは、半ば強引に菊弘を布団に押し込むとずんずんと部屋を出ていった。男は、布団の中の菊弘を見下ろす。どうすべきか、迷っていた。
「……話、してこい」
ぼそりと、菊弘が言った。
「…会話は成り立たないんだが」
「いいんだ、言いたいだけだから。聞いてきて」
菊弘は目を伏せながら言った。また眠るらしい。そうやってたまに覚醒しては眠りを繰り返す。微睡みに居るのが、今は心地良いらしい。そうするしか、今は出来ない。
「あれだって<私>なんだから」

女が最後に言った言葉に、男は息を飲んだ。
続きを待ったが、静かな寝息が続くばかりだった。

※※※
「僕が言うのもなんだけどさあ」
怒った口調だった。イツカは菊弘の定位置に座り、そうして男は自分の定位置に座った。
「皆菊弘に意地悪ばっかりだ、そりゃああの子は我慢するっていうか?我慢どころか、怒ったりとか悲しんだりとか出来ないからね。だから自分の手で、あの子を怒らせたり泣かせたりしたい気持ちも分かる。分かるけど、君だけはそれをやっちゃあいけなかったんだよ。君だけは、菊弘も心の拠り所にしていたんだから」
初耳だ、と言うがイツカには聞こえていないのだろう。
泥の塊が、もごもごと何かうめいているだけなのだ。
「セーフティルームにはじき出されちゃあ、意味がないだろ?だからこれからだって君は菊弘のセーフティルームになってもらわなくちゃ。君だって別に一生…一生ってのはおかしいか。永遠に菊弘に意地悪したいわけじゃないでしょ?」
色々と弁明の言葉を付け足したかったが、どうせ聞こえないので結論だけを伝える。大きく頷いた。
イツカはそれを見て、満足そうに笑う。
「僕、君のそういういきなり素直になるところ好きだ」
それでも、とイツカが続ける。
「あの子は素直になれないよ、なったとしても本当にヤバイときだけ。あの子は本質が救世主(ヒーロー)なんだから。ヒーローはヒロインにはなれないでしょ?だから君だって、王子様にはなれないんだ…イイトコ相棒だね。僕だってそう、そもそも僕は<菊弘>だし」
喉が詰まる。それだ、ずっとそれが気になっている。
結局イツカは何者なのか。あの時自分が見たイツカは、菊弘だったのか。それとも本当にイツカだったのか。
自分と一緒に過ごしていたのは、誰だったのか。
だが、会話が成り立たないので質問も届かない。
それでも目の前の聡い女は、それを察したようだった。

子供のような無邪気な顔で、にんまりと笑う。この笑顔は、嫌いではない。だが、この笑顔は菊弘の見せる笑顔ではない。そう記憶している。初めて、見る笑顔のはずだ。
「誰でもないものが<ネモ>だ。菊弘でない僕が<イツカ>、イツカでない私が<菊弘>。そうやって覚えていればいずれ分かるようになるよ」

だが、求めていた答えよりも何千歩も遠い答えが帰ってきた。

※※※
もはや生前のものは無視すべきだ。
生前のものが元になっているだけで、今は立派に別の化物に変貌している。魂がいくつも観測された化物、それが熊谷菊弘。死後になればその全貌が明らかになるはずだった。だが、彼女は死ななかった。三途の川にさえたどり着かなかった。嗚呼口惜しい。こちらへ来れば、全てが判ったというのに。魂のことは、我々にもまだ分からないことばかりだ。ただ、そういうエネルギー体であるということしか分かっていない。それをつなぎとめて、罰を下すのが地獄。つなぎとめる役割を担うのが鬼、死神。罪を暴くのは閻魔。それもすべて、魂だ。エネルギー体だ。
そのまやかしが、幻影が、おぼろげな物体が、彼女の死によって分かるはずだったのだ。羅刹天はひたすらにそれが悔しい。彼女が人間の状態で死ななかったことが。だから彼女に執着する。生前のことも自分と似通う部分があって腹立たしい。ひたすらに憎い。羨ましい。嫉妬ゆえに嫌悪はしない、むしろ好ましい存在だ。だからああやって遊びたくなる。
夢魔の、菊弘に対する執着は愛でしかない。そこに憎悪はない。これが二人の根本的な違いである。

羅刹天は貝木泥舟などどうでもいいのだ。どうとも思っていない。
愚かな人間が鬼に、悪魔に誑かされただけなのだ。
死ねないものになった男に対して、何の感情も抱かない。その男も結局は菊弘に愛を抱いているからだ。そんなものに興味はない。
愛が分からないわけではない。
だから、本当に貝木を消すつもりはない。絶対にそれはない。羅刹天は、菊弘に憎悪を持っていたとしても、恋人たちを引き剥がすようなことは絶対にしないのだ。彼女は、愛を知っている。
貝木泥舟は自身が分からなくなってきている。自己、自分…I(アイ)。
熊谷菊弘は、愛もIも分からないままである。それは永遠に、ぼんやりと、うっすらと。幽かなるものなのだ。



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