焼け石に水

「旅行に行こうじゃないか」
縁側の下から伸びてきた手が、着物の裾を引っ張った。
暑い。さんさんと日光は地面を焼いている。白い石畳がその熱を返しているせいで暑いのだ。先程打ち水をしたばかりだというのに、水はすぐに乾いてしまっていた。
「行こう、菊弘」
裾を掴んでいた手は、にょきりと増える。どこから生えているのか、もはや判断はつかない。最近は特に拍車が掛かって<見えなく>なっている。2本の腕が4本に増え、6本になる。寝転んでいた体が、ずりずりと引っ張られていった。まさか落とすつもりはあるまいな、とため息をつく。
「旅行に行くぞ」
落とすつもりだったらしい。
一気に力が込められて、まるで寝返りを間違った子供のように縁側から落ちてしまった。
ぎゃん!と声を上げれば、今まで寝転がっていたところに男が座った。座ったように<見えた>。視界にそれを確認して、少しだけホッとする。石畳が乾いてくれていて良かった、菊弘は砂埃を払いながら立ち上がった。
生意気にも亡き夫の服を着て、男は優雅に足を組んでいる。
「まだあったのかそのスーツ。にしても、お前には白が似合わないな」
「あった、というのは実物がこの家に存在したという意味合いか?ならば違う。これはお前の記憶にあったものだ実在はしていないぞ」
がっかりするようなことを言う。
「じゃあ実在している物を着てくれ、目に毒だ」
ため息をついて、打ち水の準備に取り掛かった。何度掛けても何度掛けても、まさに焼け石に水という感じだが、それでもやらないよりかはマシだ。焼け石に水を掛ければ、水蒸気があがってサウナのような効果が得られるのだから。無駄、ということはない。真夏にやることではないのは間違いないが。
桶に水を汲んで、柄杓でそれを掬い水を巻く。
「飽きもせずによくやるものだ、そんなことより旅行に行こうじゃないか」
「飽きもせずによく言うものだ、何度言われても同じ答えだぞ」
男の手が、首元を触った。ひやり、と刃物を当てられたように冷たい。思わず肩が震えた。制止の意味合いを込めて背後の男を睨みつけると、満足そうに口角を上げる。
「何度でも聞いてやろう同じ答えを。何度でも聞いてやる事が出来るからな何度でもそうして俺に同じ事を繰り返すと良い」
誇らしげに言った。寝転んで、濡れていく石畳を見つめている。
「…旅行になんて行けるか」
「なぜだどうして行けない。金銭的な問題や日程的な問題はどうにでもなる、ならばなぜどうして行けないと答える?」
「お前の言う旅行とは、私と二人で出かけるそれだろう。そんなこと今は不可能だ、お前は<不可視>になってしまったのだから。お前は幽鬼になってしまったのだから」
何度も何度も、焼け石に水を掛けている。
意味がないわけではない。無いことが、無い。それは一体、あるのかないのか。ゼロかイチか。
「見えなければ、二人で旅行というものが成り立たない。それでは頭のおかしい女が一人で旅行しているのに、まるで誰かと一緒に居るように振る舞っていることになるじゃないか。私はそんな目で見られるのはごめんだね」
台本の台詞を読んでいるようだった。感情を込めることを辞め、なるべく機械的に努める。それでも、菊弘はその答えを発する度に、男への罪を思い出す。思い出しては、心に傷を作る。焼け石に水を掛け続ければ、石はやがて、大きな音を立てて割れてしまうだろう。
「旅行に行こうじゃないか、菊弘」
まるで呪いのように、男は繰り返す。
桶の中の水が空になって、菊弘はやっと決心が着いた。夕暮れ時。時間も相応しい。
「じゃあ、行こうじゃないか?さあ準備をしろ下駄を履け」
男の手を掴んだ。菊弘が掴めると思えば、その手は受肉する。誰にも見えないが、確かに菊弘には触れることが出来るのだ。
ぐいと強く引っ張られて、男は最初の菊弘と同じように縁側から転がり落ちた。ぐえっと声を出せば、菊弘はそれを踏みつける。だがそこには<何も無い>。さっと縁側に上がって、菊弘は自室へと向かった。
下駄を履けと言われて、男はそれに従うしか無い。今まで焼け石に水を引っ掛けるだけの作業だったのに、今度は急に石を移動させようとするのだから。
菊弘はすぐに戻ってきた。汗を軽く拭いて、浴衣に着替えたらしい。
「行くぞ」
手荷物も何も持たず、女はさっと歩いていってしまう。
「どこへ行く」
鳥居を抜けた。思わず男はそこで<立ち止まる>。
「どうした、お前が旅行に行きたいと言ったんだぞ?ほら着いてこい、とりあえず近場の観光名所に行くから」
菊弘は手を伸ばす。そこには男の手が置かれる。手の主は<見えない>。誰にも見えない。菊弘だけに見える。
音もなく夕暮れの中を歩いていく菊弘。百メートル歩いた先に目的地はあった。
一条戻り橋。
菊弘は、橋の手すりを撫でながらゆっくりと歩いた。その撫でていくあとを、男の手がなぞっていく。
「………ここが旅行先か」
「そうだとも」
声はどこから聞こえているのやら。
「何故ここを選んだのか教えて欲しいなぁ旅行雑誌に何か特集でも乗っていたのかそれとも」
「近かったからな」
皮肉に、素直に答えた。菊弘は橋を渡りきる前に、ぐるりと方向転換する。目の前に男が立っていた。それを追い越して、再び橋の上を歩く。男はそれを追う。女の目的が分からない。
「この橋の話は知っているか」
菊弘は、何度めかの往復でぽつりと言った。
「愛后山の鬼女」
「ちがう」
「…お前のご先祖様はここに十二人の式神を封じて、自由自在好きな時に呼び出していたと」
「ちがう」

菊弘は橋の真ん中に立った。
どこに居るのか分からない男に、静かに言い放つ。
「ここでは死者が蘇るんだ」

焼け石に、必死に水を掛けていたのはどちらだ。

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