詐欺師は鏡に映らない


半田母娘をホテルに送り届けて、車の中で眠りこけていた菊子…菊弘は、俺に起こされて少し不機嫌だった。
状況は、寝ているうちに脳に情報が染み込んだらしいので(ワケが分からないが、本人がそう言ったのでそのまま記す)説明は不要だった。
「……ハルアキラさんが出てくるなんて珍しいですね」
未だ寝起きの声で、菊弘は言った。
「たまたまだよ、陰陽寮本部が今ガラ空きなんだ。仕方なくの留守番さね」
「私が疲労困憊のとこ出てきたというのは、まぁ道理ってわけでしょうけど」
「ほんとだよ。おまえはそういうのがあるから嫌いだ、うまく使われている感じがして気味が悪いぜ」
「私だって好きでそうしてるわけではないので…たまにはきちんと仕事をこなしてくださいよ。万年サボり魔なんですから」
ふたりはギスギスと言い合っている。俺を挟んで。俺を挟むな他所でやってくれ。見ろ、リビングはこんなに広いんだぞ。
「ま、サボり魔はサボり魔らしく、サボることにするさ。あとはよろしく」
「本当に助けてくれるんでしょうね?」
革靴を履いて、さっさと玄関から出ていくハルアキラ。菊弘は、神経質にため息をつきながら言った。ハルアキラはそれに答えずに、ひらひらと手を振って出ていった。ばたん、と強く玄関が閉まる。
この家は、変に密閉感がある。玄関が閉まったせいで、リビングの扉が少しだけ動いた。
それに対して、菊弘はびくりと肩を跳ねさせた。
珍しい。あの菊弘が、怯えている。
「…怖いのか?」
思わずにやにやと笑いそうになるのを隠す。俺はポーカーフェイスが得意だ。表情筋が死んでいるわけではない。断じて。
「いや、まぁ…怖いと言えば怖いかな。得体の知れない雰囲気がするんだこの家…気配、が…気配がするんだよな…いや。気配というか、気配の気配…っていうか?んん?」
「自分で言っておいて混乱するなこっちはもっと分からん」
「とにかく不気味だ、そこの姿見も。変にデカイしさぁ…普通じゃあないよ」
風呂場の例の鏡を言っているのだろう。
たしかに、あれは普通の姿見というよりは…。
「ほら、これ絶対おかしい。ハルアキラさんは何も言ってなかった?」
「特に何も聞いてない。俺はこの紙束を読んでおけそしたら分かるからと言われただけだ。……あと、そうだな…あの人は何か見えないものと楽しげに会話していたのを見たくらいで…」
俺と菊弘は、二階へと上がった。囮として、二階の部屋に居なくてはいけないらしい。ハルアキラは、とりあえず二人でのんびり過ごしてくれてればいいからさ、としか言ってくれなかった。準備や進行は自分がする、おまえたちは何もしなくていいと。
「ああ、それはきっとハルアキラさんと仲が良い妖怪だな。聞く話によるとかなりの大妖怪らしいぜ、なんでも…川か沼かの主だとか。私もよくは知らん。見えないしな」
娘、郁恵の部屋に二人して床に座り込む。
「名を呼ばれたら助けるのどうのこうの言っていた、あと…人型の姿だと慣れないから動きにくい、と。つまりハルアキラさんは…人外なんだな?」
「妖怪に分類されるらしい。ハレさんは分類的には鬼…吸血鬼だが」
意外に初耳だったので、俺は少し眉を吊り上げた。しかし、菊弘はじっと、窓にはめ込まれた鏡を見ている。
「ハルアキラさんは妖怪だ。安倍晴明が妖怪になったルートがハルアキラさんで、安倍晴明が吸血鬼になったルートがハレさんなわけだ」
「何が違うんだそれは」
「あー、私もよくは知らん。だが、ハルアキラさんはあの安倍晴明の力をそのまま持った大妖怪なわけだ。ハレさんの方はホラ…自分を吸血鬼にした真祖が居て、その眷属に当たるわけで。ハルアキラさんは何にも縛られてないから危険なんだと…ハレさんは自分と同じ存在が嫌いだがね、監視の目的もあってハルアキラさんを陰陽寮という組織に縛っているらしい」
「…ふぅん……」
なんだかややこしい話になりそうだったので、生返事をしておく。
ところで、と言い掛けてやめた。菊子の話題は、菊弘は好まないのだ。
初めて菊子に遭遇した時、そして菊子が菊弘に戻った時。菊弘は今まで見たことのないスルーっぷりを決め込んでいた。
俺が菊子の名前を出そうとした時点で、物理的に口を塞いだ。ばしーん!と思いっきり口元を手のひらで押さえやがった。あまりの強さに、俺は鼻血を出したくらいだ。
だから、今回もやめておこうと思った。
「…菊子のことだが」
それを、なんと菊弘の方から言い出すものだから。
俺は自然と背筋が伸びた。
「あれは人格というより、なんていうか…その……まぁ、女らしさが天井ぶち抜いた私、みたいな…?」
「そのあたりは分かっている」
「うぐっ……いや、まぁ…そうだな、うん。経験しているもんな…」
うろたえて、菊弘は自分の羽織を脱いだ。丁寧に畳んで、気まずさを紛らわしている。
「と、とにかく…あれの名前を呼んじゃ駄目だからな。今回みたいに勝手に出てきちゃうのはしょうがないが、あれはその…駄目だ。お前が居る時に、出ちゃ駄目なやつなんだ」
ただ照れているだけなのだ。
菊子は、いっちょ前に色気が凄まじい。それはきっと、この菊弘の持つ<山人>の魅了の性質なのだと思う。堂島静軒が、自分のために利用した、それ。
(そういえば…菊子は大佐になれないだのどうだの、何か言っていたが…)
─何だったのだろうか、あの言葉は。
「分かった、もう呼ばない」
約束しろよ!と菊弘は耳を真っ赤にして言った。


他愛のない会話を続けていた。
何かを忘れている気がして、それを思い出すためにつらつらとどうでもいい話をしている。そんな会話のなかで、菊弘の<多重人格>の話題になったのだ。
─そもそも、人格が別だとどう証明する?
どうやって、菊弘は自分が多重人格であると気付いたのか。
「それは…、気付いた経緯ってことか?それともどうやって多重人格だと判明したのか、という一般論の回答を求めているのか?」
菊弘は、腕組みをして小首を傾げた。
「なんだそれは、そのふたつは同一だろうに。何が違う」
「前者だと私のとてつもなく長い昔話が始まる。後者は」
「後者で頼む」
鏡越しにかち合う視線。俺はそこから少しそらした。
婆さんの長話など、聞いても面白くない。菊弘も、俺に自分の過去を話すことを渋る。あまり快く思っていないようだ。…別に菊弘に気を遣ったわけではなく、俺がこいつの長話を聞きたくないだけだ。

「君は、自分の存在というものを何で確認している?」

そして、時系列が冒頭に戻るのだ。



菊弘は、正座して背筋を伸ばしたまま言った。
それが俺への問いだと気づくのに、しばらくかかってしまった。それもそのはずだ。菊弘はこちらを見ていない。
鏡越しから、俺に視線を投げかけているだけだ。
鏡に映る彼女は、無表情だが、眉だけはきっとしかめている。怒っている?俺は何か菊弘の勘に触るようなことを言ったのだろうか。
「答え方が…分からない」
俺は素直に答える。
この場では、長々と詭弁を語る余裕が無いのだ。なぜか、焦りが生まれていた。
部屋の中の窓。その全てに張られた鏡。
その異質な空間に、俺は気圧されている。雰囲気が変わっていた。
「なら、YESかNOで答えられる質問に変えるよ」
「…頼む」
菊弘は続けた。
「自分の姿を形を全てを、自分がそこに居ると証明できるのは自分自身か?それとも他者か?」
難しい問いだと思った。
自分は自分が居ると思えば、それはそうなのだろう。
俺は菊弘のいつもの言葉を引用した。
『そう言ってしまえば、そうなる』

だが、それは自分への暗示かもしれない。本当は、そこに居ないのかもしれない。菊弘がその言葉を、そういう風に使うように。
物事を捻じ曲げてしまう時に。強引に事を片付ける時に。
自分を『○○だ』と言い聞かせる時。そんな風に。

不意に、背筋が凍った。
この家に住まう何かへの恐怖ではなく、本当にこの場に自分が存在しているのか。そんな不信感への、恐怖だった。
「答えられないのならば、それはもはや答えということね」

菊弘は、笑っていた。鏡の中の菊弘は、笑っている。
その隻眼は、見たこともないくらいニイと細められていて、まるで別人のような笑顔だった。美しい。不気味なはずの微笑。不気味だと思うのは、この世のものとは思えないくらい美しいからだ。
お前は、誰だ。

俺は、自分の存在でさえ証明できずにいる。
それなのに、この部屋に居るもう一人の人物の存在でさえ、証明できないでいた。
「……資料、資料を読んでなかった…」
得体の知れない恐怖をごまかすために、必死に記憶を漁った。そうだった、ハルアキラに読めと言われていたのをすっかり忘れていた。
菊弘は、俺に背を向けている。仲良く一緒に資料を読む気はないらしい。
鏡越しの菊弘を、視界の端で見る。自分の顔を、ずっと見ている。無表情。疲れているのかもしれない。この異質な空間に。

資料をめくると、紙の音がやけに響いた。
密閉感の強い部屋、音もよく響くし、耳が常に詰まっているような気がする。
こんな部屋でよく休めたものだ…。
資料を読み進めながら、関係のないことを考えた。

古い紙に書かれた文字は、達筆過ぎて読めない箇所がいくつもある。
だが、日付やその隣に書かれた名字を見る限りは、この家の前の持ち主の仔細なデータであることが分かった。これを、ハルアキラが準備させたというのなら、妖怪の配下にでも調べさせたのだろうか。
窓を鏡張りにした住人、そこを注視すべきと思ったので、半田家の前の住人のデータを熟読した。しかし、別に何の変哲もない。鏡張りにした理由も、特におかしなところはない。だが、その次のページを見ると俺は思わず生唾を飲み込んだ。
半田家の前の住人…黒木家。父母、祖母、長女ひとり次女ひとりの、普通の家族。
その家族の、それぞれのコメントらしい。
名前の下に、家のことについて書かれていた。

祖母・ツル
─覗かれとるんよ。覗かれとる。誰かが見とる。隙間からじゃと思ったが、違う。窓から覗いて…そこの、大きな鏡から。
父・弘樹
─みんなが口々に不気味だと言うんです。不気味だ不気味だと、だからそんな風に思ってなかったわたしでも不気味に思えてきちゃって。……だから、外そうか?って話したんですよね。話したはずなんですけどね…外して、ないですよね。二階と、リビングと、窓に鏡はめちゃってるんですよね。なんでだったか……話し合ったはずなんですよ。
母・由里子
─たしか…あたしからお父さんに言ったのよ。それは外しちゃだめって。どうしてか……どうしてかは分からないわ、きっとみんなと話し合ったから…そう決まったのよね。で、窓には鏡をはめ込むことにしたのよね……。そしたらほら、お義母さんも覗かれないからって安心したのよ。覗かれたくなくて、そうしたんだから。
長女・樹理亜(じゅりあ)
─不在
次女・希羅星(きらら)
─おねえの部屋とあたしの部屋が一番変だと思うけど、あの大きな鏡をどうにかしないと駄目よね?駄目って、おねえが言ってたのよ。おねえ、家出する前に。そんな風に言ってた気がする。

よく分からない。
窓に鏡をはめ込んだのは、誰かに覗かれている気がするから。
これは半田家と共通する。しかし、覗かれないために鏡をはめ込んだはずなのに、半田家では同様に<覗かれている気がする>という現象は治まっていない。
長女が不在なのは、家出したからだろうが、次女のコメントも気になる。
だが、一番不可解なのは、家族全員が家の異変について<話し合ったかどうか曖昧>なところだ。
「…菊弘、半田家の前の住人のデータだ。読んでくれ、お前の意見が聞きたい」
俺が次の資料を見ながら、菊弘の方に読み終えた方を差し出した。うん、と短く返事をして、菊弘はそれを受け取るために俺の方へと向き直る。自然と、二人並んでベッドを背に座った。

続く資料には、長女の家出について書かれていた。
日記や、ケータイのデータの書き写しらしい。女子高生らしい言葉遣いが達筆で書かれていて、そのちぐはぐさに苦笑した。
─ひとりかくれんぼをした
俺は、その文面に読む目を止める。
─この家不気味だから、絶対に何か起きるんだと思って。なにか起きたら明里や知由香に話してあげるんだ。
─押し入れで二時間待ちとか。ケータイ持って来といてよかった。ひとりかくれんぼなう。ウケる。
─やばい
─鏡が
─嘘じゃん

─鏡が開いた

次のページをめくる。
─嘘。うそうそうそマジでなんか出てるじゃんあたしの部屋に来てるじゃん なに?
─男?おっさん?はあ?意味分かんねえ 変態入ってきた?
─帰った
─階段降りていった。幽霊とかって階段使う?
─やば。110押しといて電話掛けるだけにしとくわ
─は?居ないんだけど
─ごめん混乱してた。何言ってっか自分でも分かんないワラ

鏡が開いた?
俺は、ぼそりと呟いた。
そして、思いついた。あの姿見は、何だ?
「なあこれ、こっち気が付いたか?」
菊弘は、ふと俺に一枚の資料を見せてきた。思考が中断される。
「どれだ」
「半田さんの前の住人は黒田さんだが、その前に半年しか住んでない櫻井さんが居るだろう。これ、ここ。おじいちゃんとおばあちゃん、そんで若い夫婦、子供が一人ってなってるんだが…」
「あぁ、すまんそこ飛ばしてた」
俺の言葉に、菊弘が怪訝そうな顔をした。
「半年しか住んでないのには理由がある、櫻井さんちのお子さん…さやかちゃん五歳。この子が家の中で失踪したんだそうだ」
「家の中で」
菊弘は続ける。
「おばあちゃんと留守番してたさやかちゃんは、その日は二階で遊んでた。おばあちゃんがさやかちゃんを最後に見たのは、二階でお昼寝をしている姿で…おやつの時間に呼んでも返事がないので二階に上がったら、忽然と姿が消えていたらしい。かくれんぼをしているのかと思って、家中をくまなく探したが見つからない。パートから帰ってきた母親と一緒に探したが、見つからない。外も探すが、見つからない。警察沙汰になって、結構騒ぎになったらしいぞ」
「…お隣のおばさんはそのことは言わなかったな。あの噂好きお喋りババアにしてみれば、触れておきたい話題だろうに」
「お隣さんは、いつからそこに住んでるんだ」
菊弘の問に、美紀子の情報を思い出す。
「林家はここらへんの地主だったらしいからな…なんなら戦時中からこの土地に住んでる、と。三代くらい前に金に困って、近辺の土地を売ったそうで…それがこの家と、逆隣の家の土地だ。林家の両隣は、昔は自分らの土地だったらしいぜ」
だから、どこかしら他者を見下しているような雰囲気なのだ。
「そこまで広くはない土地に、家を無理矢理建てて売ったわけか…。隣接し過ぎてるのには、そういう事情がね…」
なるほど、と菊弘は何度か頷いた。
「じゃあこれ、覗かれてるってのはさ。お隣さんの嫌がらせとかじゃあないのか」
「……ああ、ありえない話じゃあないな。だがハルアキラさんは、怪奇現象を解決するために動いているんだろう?」
「いやいや、よく考えてみろよ。半田家で起きてることが全部一緒の原因だとは限らないだろ?覗きはお隣さん、窃盗は霊とかそういう…」
そこで菊弘は、顔をしかめた。そして押し黙る。
「……?どうした、菊弘」
「いや、頭痛がするんだ…この鏡の部屋……鏡と私は」

─相性が悪いんだよ。

彼女の声が、とても苦しそうだったので。
俺は思わずその細い肩を抱いて背中を擦った。そうだ、こうやってしてあげていた。
術後の古傷や、摘出した骨の部分がしくしくと痛むというので。
俺は、 は彼女のそばにこうして……………。
あの日、研究所で……。
菊子に…。

空気が動いた気がした。





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