詐欺師は鏡に映らない


「お前、あれは夢じゃなかったのか…」
「あれからしばらく時間が経ちましたね。じゃあわたしのこと…<菊子>のことも聞いた?」
「菊弘じゃない、菊弘…菊子というのは誰でもない…」
「誰でもないのはネモちゃんよ」
女はくすくすと笑った。俺は思わずその首筋に手が伸びる。そのままベッドに座って、抱き締めてしまう。ああ、どうしてこんなにもこの女が愛おしいのだろう。わけがわからない。
「その様子だと、まだ何も教わってないみたいだ…しょうがないなぁ」
髪の香りを嗅ぐ。少し汗ばんでいた。それがたまらない。このままだと話し続けることは不可能だ。
それを察したのか、女は俺の首に自分の両腕を回しながら、そのままベッドへと背中をつける。押し倒した形になって、俺はとても恥ずかしくなった。こうしたかったはずなのに、やってはいけないことをしてしまった。そんな気持ちになった。この女…否、菊弘は散々抱いたというのに。
「そうそう、ネモちゃん。あの子を出してしまったでしょう?疲れてしまったんだ、菊弘は。今、脳の処理が追いついていなくて…君のことまで考えが及ばないんだよ」
そっと、女の細い指が俺の頬を撫でる。
「だから守ってやれない、だから行っちゃ駄目だと言っているんだよ」
「……分かった、適当に話をつけてあの家へ行くのはキャンセルする」
いつもなら、反発して言うことなんか聞かないのに。
この女の言葉は、素直に聞いてしまう。
「菊弘はこのままたくさん寝かせてあげたらいい、そしたら回復も早いから…。心配しなくても、このことはきっと…魔人のあの子が把握しているよ」
魔人の…セル・オペラーテのことだろう。
「……ふ、ふふふ」
女は、そうして短く笑った。
「駄目ね、君。わたしの気に当てられて惚れ込んじゃってるじゃあないか。駄目、駄目よそれじゃあ。それじゃあ…」
─君は、大佐にはなれないね。

女は俺の耳に小さく口づけをした。
そしてそのまま、ゆっくりと脱力していく。俺の首を抱いていた腕が、ゆっくりと落ちて、寝息とともに女の体がベッドに沈んだ。
どっどっどっどっ…と、心音がうるさい。
俺の気も知らず、すやすやと惰眠を貪る菊弘に腹が立ったが、そのまま寝かせてやることにした。

朝の9時。
軽く身支度を済ませて、半田美紀子に電話を掛けた。
「おはようございます、貝」
こちらが何かを言う前に、美紀子は捲し立ててくる。
「貝木さん!?良かった…!今お電話しようと思ってたんです…ッ」
「ど、どうかしましたか」
と、聞かざるを得ない慌てようだった。
「昨日の夜…娘の私物や私のものが、洋服や下着が…ごっそり盗まれたんです…」
「それはもう、警察にお話しなくては」
「深夜に呼びました!でも、侵入した形跡が全くなくて!指紋も、私達の分しか……とにかく!とにかく来てください貝木さん!女二人で…不安なんです!」
気圧される。
女が語尾を荒げてパニックになっているのを目の当たりにすると、どうしても貝木という男は悪手を選んでしまいがちだ。
ちらり、と未だ寝息を立てて寝ていた菊弘の方を見る。
やはり菊弘…菊子は、ベッドの上で横座りになって呆れた顔をこちらに向けていた。予感が的中した、と不機嫌だ。
「…分かりました、今すぐ向かいます」
俺が電話に向かってそう言うと、べーっと菊子が舌を出した。

「仕方ない。こうなったら、君じゃなくて別の人にどうにかしてもらうしかないね。今から言う番号に電話してくれるか?きっと、君が名乗れば何があったかすぐに把握して動いてくれるだろう」
とても女性的な菊子。そんな彼女が少しぶっきらぼうな男言葉を使うと、まるで子供が大人の真似をしているみたいに見えた。
ぼんやりとする意識を、必死に正す。理性がぐらつきやすい。彼女の気に当てられているからなのだ。
「どこへ電話を?」
「陰陽寮への直通電話だよ」

俺は、言われた通りの番号に掛ける。


はい、と短く聞こえた。
その声は聞き覚えがあった。
「ハレさん、俺です。貝」
『ははぁ、きみが例のカイキだな?わたしを誰と間違えたって?もう一度名前を言ってみなさいよ、え?』
同じ声だ。電話の向こうで<ハレアキラ>と同じ声をした人物が、静かに怒りを燃やしていた。
耐えかねて、菊子が俺から電話をひったくる。
「ハルアキラどの、お久しぶりですね」
『…お前、菊子だな?菊子が出るくらい菊弘はダメダメになっているのかい。報告は読んだが、そこまでとはね……困ったねえ』
「困っているので直通電話に掛けました」
『フン、生意気な女だ。待ってろ何も出来ないただの女、せめて存分に菊弘の男をたらし込んでいるといい。今ハレや他の陰陽師は出払っているんでね、わたしが行ってあげるよ』
言いたいことを言って、通話は一方的に切られてしまった。
菊子とハルアキラは、あまり仲が良くないらしい。
「気にしないことだね、あのヒトは陰陽寮全員にあんな感じだから」
「…怒らせてしまったんだが。第一印象は最悪だぞ、大丈夫なのか」
菊子は、肩をすくめる。幸先不安だ。半田家では何か起こっているし、今から来るという人物についても不安だった。

「ふぅん?事情は大体把握した。半田さんたちに、わたしのことはカイキの助手とでもしていなさいな」
パンツスーツに、シャツの前を少しはだけたラフな格好の女。一見、男と見間違えるのは、そのきりっとした眉に雰囲気のせいだろう。女らしさを感じさせない。細身ではあるが、その骨格に女特有の柔らかさはなかった。
「よろしく…お願いします…」
「ところでおまえはどうするんだ、菊子。おまえが居ても仕方ないだろう」
俺は頭を下げたが、ハルアキラは無視して菊子に言った。
「もちろん役立たずのか弱い女は待機していますよ。車で待っています、さっさと解決してきちゃってください。安倍晴明様?」
言われたら菊子も言い返す。……安倍晴明?いや、まさかとは思ったが。
「あなたも、ハレさんと同じ」
そこまで言うと、ふいに口元がぎゅいっと強く掴まれた感覚に陥った。喋れない。
ハルアキラは、手元でなにか印を結んでいた。
「…そうとも?あれと同じ、わたしは安倍晴明のひとりだ。名前で察したのならそのまま黙っていればいいのだよ、きみ。カイキ?」
俺は、ハルアキラの剣幕に圧され、黙ってこくこくと頷いた。この人は、怒らせてはいけない。割れ物のように扱わなくてはならない。

「貝木さん!来てくれて本当にありがとうございます!」
「遅くなってすみません、こちら助手の…」
涙目になっている美紀子の前に、ずずいとハルアキラは体を出す。
明成めいせい と申します、流石に女性お二人のおうちに男ひとり上がり込むというのは不躾かと思い…付き添いを命じられました。どうぞよろしくお願いします」
「まぁまぁ…本当にありがとうございます、電話口では取り乱してしまって…」
「まずは詳しいお話をお聞かせ願えますか?」

ハルアキラは、あまりニコニコしない。
微笑。それだけだ。口調も優しくはない。言葉は丁寧だ、だが距離感がある。
それでも、彼女の話術に半田美紀子と、その娘郁恵は、つらつらと語り続ける。

「では、視線を感じていただけだったのが…昨日、突然窃盗という形で動きがあったと、そういうことですね」
「はい…」
「指紋が我々のものだけ、ということで警察も簡単な捜査だけして帰っちゃったんです。被害届は出しましたが、ろくな捜査もしてくれない。このままだと泣き寝入りです…!」
娘の郁恵は、憤りを感じて口調が荒い。
「失礼。盗まれたものは何だったのですか。洋服、と聞いておりますが…」
「下着が三枚…私はブラとショーツ、セットになっているものを三組と…あとキャミソールが二枚…。で、お母さんは?」
「私はブラジャーがふたつ…」
「ではお聞きしますが。…どうしてそれが、盗まれたと気付いたんです?」
えっ?と、母娘は素っ頓狂な声をあげた。俺も、なぜそんな質問をするのか意図が分からなくて、ハルアキラの横顔を眺める。
「お持ちの下着は全部で何枚、何セットです?」
「えっと…私は引き出し一個分……ブラとショーツセットになってるのが七組あります。で、ショーツが」
「質問を変えます。では、郁恵さんはスカートを何枚お持ちで?ジーパンは?靴下は?」
「スカートは六枚、ジーパンは二本…靴下は二十八組…」
俺は、ハルアキラの質問の意図には気づけなかったが、この不自然さには勘付いた。
「…洋服の数を、全て把握しているんですか?お母様…美紀子さんの方も?」
俺の言葉に、二人はハッとする。
「………あっ、そういえばそうよね?おかしいわ…どうして、私……」
「郁恵さんも、普段から洋服の数を覚えているわけじゃあないんですね」
ハルアキラに言われて、郁恵もその不自然さに気付いたらしい。
「やだ……ほんと、どうしてこんな…。変よね…」
「道理は簡単です、貴女方が無意識に<男性から服を盗まれるのではないか>ということを危惧しているからでしょう」
あっさりと、とてもあっさりと言うが。
それだけでは納得の行かないのが人間というものだ。しかし、美紀子と郁恵が疑問を言葉にする前に、ハルアキラは高らかに宣言した。
「動きがあったということは、これからももっとエスカレートするのは間違いありません。半田さんたちはすぐに一週間ほど宿泊出来る準備をしてください。ここからは弁護士カイキの仕事ではなく、霊媒師カイキとしてのお仕事をさせていただきます」
霊媒師と聞いて、胡散臭さに二人は顔をしかめた。ああ、めちゃくちゃだ。だが、ハルアキラの言葉には力がある。
「さ、外で車を待たせてあります。避難してください」
たったそれだけの言葉で、二人は立ち上がった。これが、晴明筋の<言霊>の力だ。


「説明してください」
俺は、二階の美紀子の部屋を探るハルアキラの背中に言う。
ハルアキラは、クローゼットを開けて中を見ていた。天井や壁を確認している。
「簡単だ、この家に空き巣が入った。それだけのこと」
「じゃあなおさら警察の仕事では?なぜ<霊媒師>と?」
「霊媒師の仕事があるからだ、彼女たちは空き巣の姿を見たわけじゃない。本能的な危機で、空き巣が入るということを察していただろう。下着を盗まれるとね。それは霊的な何かを感じ取っていたからだ。分かるか」
分からない。
俺が黙っていると、ハルアキラはスーツのジャケットを翻して部屋から出ていく。それを追うしか無い。
「助手のカイキ。ポストにわたし宛に郵便物が突っ込まれているだろうから、それを取ってきてくれないか。そしてリビングでそれを読むといい。そこに全部書いてある。読めば、察しの良いきみはわたしの言ってることが分かるだろう」
それだけ言って、ハルアキラは郁恵の部屋を漁ることに集中してしまった。

─晴明筋のマイペースさには、慣れたつもりだったが…。

俺はため息をつきながら、階段を降りる。
ハレアキラは、まだ分かりやすく説明してくれていた。順を追って、丁寧に。
あれはきっと、ヒトが好きなのだろう。
だからハルアキラは逆に、ヒトが好きではないのかもしれない。

俺はびくりと肩を震わせた。
階段を降りた真向かいの、廊下の先。そこには大きな姿見があった。風呂場のすぐそば。
そこに男が写っている。

俺の姿とは、少し違った。スーツじゃないからだ。Tシャツにジーパンだ。太っている。

まばたきを一度、した。
そして再び見た視界の中には、怯えきった顔の俺の姿が写っている。ホッと体の力を抜く。
─ポストに資料が突っ込まれているんだったな…。
玄関を開けて、外のポストを確認しに行く。
ポストの中には、古い紙束がどっさりと詰め込んであった。植物のツルの紐でくくられたそれは、落ち葉が絡みついている。まるで、おとぎ話に出てくる郵便物のようだと思った。怪しい。しかし、あのハルアキラ宛ということならば、納得出来る。
それを取り出して、中身を確認する。
「ねーーーーえ?おたく、半田さんの娘さんの彼氏?」
突然投げかけられた声に、俺はぎょっとした。
玄関の柵の向こうには、小太りの中年女がにやにやと笑っている。隣の家に住む林由美だ。美紀子から少しだけ話を聞いていた。ちょっと距離感の近いお隣さん、だそうだ。
「いえ、私は…」
「本当なのぉ?空き巣って…あの人たち、本当にそう言ったのかしら」
林由美は、俺が返事をしなくてもどんどん話し出す。
「だっておかしいわよ、空き巣ならもっとずっと警察がいるもの。どうせ虚言なんでしょう?ひどいのよあの母娘、近所でも迷惑しててねぇ。覗かれてるだとかなんだとか、騒ぎ立てるのよ。聞いた?」
「すみません…私も今日、そのことで相談されたので詳しくは…」
「あらそうなのぉ?」
ねっとりと絡みつくような視線。これは知っている。他者を妬み、蹴落とそうとする者の卑しい視線だ。
半ば女のことを無視して、俺は玄関に入った。そして、やはり空気の冷たさ…鋭さに体がこわばる。この独特な雰囲気を、俺は知っている。
えびす亭で感じた、あれと。あの洞窟で感じたあれと、近い。

二階で話し声が聞こえた。
ハルアキラだ。
俺は資料を小脇に抱えて、声のする方へと向かった。
この雰囲気の異変に、ハルアキラが気付いていないわけがない。

鏡のはめ込まれた窓を、ハルアキラは開け放っている。そこは壁だ。隣の家の壁がある。
そこに何かが居た。何か、大きな形をしたものが。そんなものが入り込む隙間はないというのに。
俺には見えない。川のせせらぎ、水の香り。両生類の生臭さが少しした。
「何かあったらすぐに名を呼ぶさ。おまえの言うとおり、人型は慣れないから通常通りの動きは出来ないからね」
「ははは、私をそれらしく付き従えるなどと…一体何年ぶりだろうなぁハルアキラ」
見えないものは、低い声で愉快そうに言った。
「さぁてね、忘れてしまったよ。だから助けて欲しいと思って呼ぶのはおまえの名前じゃあないかもしれないなぁ」
ハルアキラは、俺の存在に気付いて少しだけ顔を厳しくした。それまでは、やんわりと微笑んでいたというのに。申し訳ない気持ちになって、目をそらす。
「ふん。女のように金切り声で叫んでいたら、面白いものが見れると思って駆けつけやるかもしれぬ」
声は、鈴を鳴らしながら遠くへと去っていった。綺麗な鈴の音だった。
「…その感じだと、見えてはいないようだ?カイキ」
ハルアキラは、窓を閉めて言う。
「ええ、俺は怪奇現象を信じてませんので」
きっぱりと言ってやった。最近、どうも周囲は俺にそういう力があると決めつける。これはもはや、菊弘の近くに居るせいだ。あいつや、あいつの人外たちのせいで影響を受けているだけだ。
「じゃあ役に立たないな、やっぱり菊弘連れてこい。あれとおまえを囮にしよう」

こういう役回りばかりだ。




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