詐欺師は鏡に映らない


「君は、自分の存在というものを何で確認している?」

菊弘は、正座して背筋を伸ばしたまま言った。
それが俺への問いだと気づくのに、しばらくかかってしまった。それもそのはずだ。菊弘はこちらを見ていない。
鏡越しから、俺に視線を投げかけているだけだ。
鏡に映る彼女は、無表情だが、眉だけはきっとしかめている。
「答え方が…分からない」
俺は素直に答えた。
この場では、長々と詭弁を語る余裕が無いのだ。
部屋の中の窓。その全てに張られた鏡。
その異質な空間に、俺は気圧されている。聞いていた話しとまるで違った。騙したはずが、騙された。まんまと、どえらいことに巻き込まれてしまったのだ。いつもながら、巻き込まれ体質で困る。
「なら、YESかNOで答えられる質問に変えるよ」
「…頼む」
菊弘は続けた。
「自分の姿を形を全てを、自分がそこに居ると証明できるのは自分自身か?それとも他者か?」
難しい問いだと思った。
自分は自分が居ると思えば、それはそうなのだろう。
俺は菊弘のいつもの言葉を引用した。
『そう言ってしまえば、そうなる』

だが、それは自分への暗示かもしれない。本当は、そこに居ないのかもしれない。菊弘がその言葉を、そういう風に使うように。
物事を捻じ曲げてしまう時に。強引に事を片付ける時に。
自分を『○○だ』と言い聞かせる時。そんな風に。

不意に、背筋が凍った。
この家に住まう何かへの恐怖ではなく、本当にこの場に自分が存在しているのか。そんな不信感への、恐怖だった。
「答えられないのならば、それはもはや答えということね」

菊弘は、笑っていた。鏡の中の菊弘は、笑っている。
その隻眼は、見たこともないくらいニイと細められていて、まるで別人のような笑顔だった。
お前は、誰だ。

俺は、自分の存在でさえ証明できずにいる。
それなのに、この部屋に居るもう一人の人物の存在でさえ、証明できないでいた。


新興住宅地の会場で、良いカモを見つけた。
適当に話し掛けると、会話を欲していた暇そうな主婦はかなり食いついてきた。まあ立ち話もなんですからと、あちらからファミレスに誘った。
上手く行き過ぎている。この時点で俺は、なにか理由をつけて断るべきだったのだ。

年齢は六十代半ばというところか。独身の一人娘が居て、この度その娘が派遣から正社員に昇格したので、そろそろ一軒家を購入しようかと迷っていたところだったと言う。
─貯金はあるのよ、お父さんが少し残してくれた貯金がね…。
でも娘もいい歳だから、結婚とかもあるじゃない?それを考えるとねえ、家を買っても…。
ぺちゃくちゃと話してくる。
─そうですねえ、二世帯住宅という手もありますけど。
俺は適当に世間話を広げていく。
─でも今時の子は、同居とか嫌がるでしょう?
─というところを考えると、いきなり大きな家を買うのは、確かに迷いますねえ。

「そうなの、でもね。今住んでる借家がねぇ…」

半田美紀子は、悩ましげに頬杖をつく。
「何かトラブルでも?」
「いやねぇ、会ってすぐの方に相談するようなことでもないのだけど」
「ああ、よろしければ私の名刺を…」

俺は懐から、名刺入れを取り出し、弁護士の名刺をテーブルの上に置いた。
「まあ!弁護士の方でしたの」
「ご近所トラブルから、建造物の問題…何でも大丈夫ですよ。ああ、勿論今は休日で、そして只の世間話ですので相談料などは取りません」
俺の笑顔と冗談に、相手はくすくすと笑う。
「建造物の問題、でいいのかしらねえ…。あのね、お父さん…私の旦那ね?今までは、みんなで旦那の実家に住んでいたのよ」

半田美紀子は、お見合い結婚だった。
結婚してすぐに、旦那の実家に二世帯で暮らしたが、特に嫁姑問題はなかった。娘…郁恵が生まれる前に、夫の両親は亡くなる。
その家に親子三人で暮らし。そして、つい二年前に美紀子の夫は病死した。
「だから、お父さんのご実家の家も売ってしまってね。その、何ていうのかしら。あまりに思い出が残ってしまっているから…そこに居続けるのが私は辛くてね…」
「なるほど、分かります。私には母一人ですが…」
「あらそうなの?ご実家に?」
「ええ、今は一人暮らしで…しかしいつかは結婚して、お嫁さんと一緒にその家に帰りたいと思っています。自分の思い出もありますから」
「そうよねぇ、家ってやっぱりそういう思い入れってあるわよねぇ…。それでその借家もね?前の住人の方の思い入れがあったのかもしれないわ…」

窓にね、鏡が入れてあるのよ。

半田家…借家だが便宜上そう称する─は、なんの変哲もない一軒家だ。古い和風な建築とは異なる、今風の普通の家。
立地条件も、駅から15分、車でしばらく走れば大型スーパーもドラックストアもあるという好条件。
それにお手軽なお値段。だからと言って、事故物件というわけではなかったし、内見を始める前に、母娘はこの家に決めていたも同然だった。
しかし担当者は、喜ぶわけでもなく、少し複雑な顔をしていたという。
前の住人…かつての家の持ち主が、住み始めてからリフォームを始めたと。リフォームくらいなら、そのままで全く構わない。
母娘はのん気に言った。
で、そのリフォームが例の窓の鏡張りだ。リビングの窓、二階の二部屋の窓。そこが鏡張りになっている。

「何でこんなことを?」
娘、郁恵の問いに担当者は首を傾げるばかりだ。
「それが…お教えしてもらえなかったんですよ。この家は好きにしてもらっていいと…そのように私どもに管理をお任せ頂きましたので…もし、半田様が住まわれないのであれば、私どもと致しましては借家という形でなく、何かスタジオやそういったもののレンタルで使おうと考えておりまして」
「ええ?それはなんだか勿体無いわね」
母、美紀子は言う。娘もその言葉に同意した。
「だってこの部屋だけに鏡が張ってあるだけなんですよね?じゃあ私達気にしませんから、ねえ?」

即決していた。

「カーテンだってつけるし、別に外の景色を見たいわけじゃないと思っててね。だって庭も無い家よ?両隣、そして後ろもお隣さんの家だし…。だけど、郁恵…娘がね」
美紀子は、ため息を付く。
「なにか…覗かれてる気がするって言うのよ…」
「覗かれてる?それは外から?」
「…さあ、はっきりとどこから、とは言わないの。視線を感じるって。そうやって気味悪がるようになっちゃって…そう言われてみると、私もなんだか気になってきちゃって」
「それは…鏡を張っているからでは?鏡に映るご自分たちの視線…」
「そうなのよ、そう思ってカーテン閉め切ってね?でも、何なのかしらね…視線を感じるのよ…カーテンの隙間からっていうのかしら。鏡を取り除こうにも費用がね…私達としては、すぐに次に引っ越すのも」
「その視線っていうのは、どういう…?お隣さんから覗かれてるとか」

俺は、言い掛けて辞めた。
覗けるわけがない。窓には全て、鏡が張ってあるのだから。外からも、中からも見えやしない。
それを分かって、俺は、自分たちの視線なのでは?と言ったのだから。

既に、俺の中でその家には、母娘以外の何者かが居て、それが見ているのだと思いこんでしまっていた。
「…良ければ、私がお家にお伺いして、見てみましょうか」

そんな言葉が、次いで出た。


ホテルに帰ると、珍しく菊弘は既に眠り込んでいた。
時刻はまだ、20時。
「……おい、どうした体の調子でも悪いのか」
冗談のつもりで声を掛けた。しかし、返事はない。ただのしかばね…なわけがないので、その布団からはみ出している肩を揺さぶる。
「おい、菊弘。おい」

まるで、そこには菊弘が居ないようだった。
いや、確かにそこには体がある。人間がいる。正しくは、人間ではないのだけど。
「……おい、おいどうした、熟睡し過ぎだぞ」
強く揺さぶって、横向きの体を無理矢理仰向けにさせた。
顔を覗き込むが、その表情は安らかそのものだ。眠っている。寝息を立てて。気持ち良さそうに。
しかし、だからこそ怖かった。地の底から這い上がってくる恐怖。喪失感。
何だ、何だこの気持ち悪い感覚は。
「きく」

菊弘は、ばかっと目を開けた。その瞬間、俺の体は文字通り凍りつく。
無機質な、水分の気配さえ無いような瞳が、俺を見ている。
「きく、ひろ……」
「駄目だよ貝木君、いってはいけない」
無機質な視線が、俺を見ている。口は、小さく動いた。
「いってはいけない。いってはいけないよ」
「…………なにを…」
俺の目の前で寝ているものは、菊弘ではなかった。
するりと、布団の中から手が出てきて、俺の手を取った。静かに、起き上がって横座りになる。
「そこはいけない、そこはわるい。あなたにもわるい、わたしにもわるいの」
すがるような瞳に変わった。
感情がどっと漏れ出す。ほろほろと涙を流し、俺の手に頬ずりをした。
つまりこれは、菊弘ではない。

「…お前、誰だ?まさか、菊子か?」
「そう、菊子」

女だ。
目の前には、女が居る。
俺はこの女が苦手だ。微笑う。それも、とても綺麗なそれで。侵略されていくような感覚。じわじわと、甘い香りが俺の体を支配していく。
逃げようとしたが、どうしても体が動かない。
この女に、魅了されてしまっているのだ。

熱い。体が熱い。
「いってはいけない、というのは…あの、家に…」
うなされているかのように、俺は口を動かす。女の見上げる視線で、脳みそが溶けていくようだった。


名前当てゲームをした。
俺は菊弘の、数個あるなかの名前を当てるゲームを持ちかけたのだ。
新幹線の長い退屈な時間。
菊弘が一度ヒントを出し、俺が見事その一度で当てられたら、俺に勝ち点ひとつ。
ハズレたら、勝ち点をひとつ失う。だから俺は、慎重に探りながら、ヒントを菊弘から引き出していった。ヒントが出るたびに、俺へのペナルティは増えるが、菊弘から出されるペナルティは「車内販売のチョコ菓子」だとか、ホテルについて一番にシャワーを浴びる権利を譲れだとか、そういうものだった。
勝ち点は、その時ひとつだけだった。
そして流石に音をあげた。すると、そこでゲームは終わるはずだった。
だが、俺はふと口にしてしまったのだ。

菊弘が男を前にして、絶対にその男から呼ばれてはいけない名前を。

「まさかと思うが、菊子だとかそんなダサい名前じゃあないだろうな」

突然、隣に座っていた菊弘が、何か違うものに変わった。
明らかな別人。口元、目元、瞳に肌の色。髪。すべてが菊弘のままだというのに、そこにいるのはまるで知らない女だった。
「……堂島大佐では、ありませんね…」
にっこりと、女が笑う。
俺は、しまったと思い即座にその場を離れようと立ち上がった。助けが居る。誰か…菊弘の配下の人外たちか、陰陽寮の者を、と思った。
「やだ、危ないですよ。この乗り物、すごく速いんだから」
「………」
きゅっと、控えめにスーツの袖を掴まれた。
「……………ふぅん?」
女は、静かに小首を傾げて、何かを考えるかのように瞳を動かした。俺は、脱力して座席に戻る。
「ねえ、君は菊弘の恋人ですか?恋人とは違いますよね、恋人にわたしの名前を呼ばせるわけがないし」
「…仕事の、パートナーだ……ただの」
「わたしと堂島大佐も、そうでしたよ」
女は言う。だが、菊弘が話す限り、俺が自分で調べた(勝手に解釈した)限り…その堂島という男はただの上司というわけではなかった。
恋仲、とも言い難い。
命の恩人とも話すし、大嫌いな男だとも話す。
彼と菊弘の間には、複雑な感情があった。と、思う。
「そう、君は」

女は、頬に一筋の涙の道を作った。
「君は大佐の位置に居るのね?」
─じゃあ、やっぱり守ってもらわなくちゃ。
その言葉を聞いて、足元からじわじわと炎が立ち上ったように体が熱くなった。目の前の女に、この熱さをぶつけたい。そう思って、たまらなくなって。女の唇を乱暴に嬲った。
まるでそれを知らない童貞のように、必死に女に覆いかぶさって、必死に愛した。深く口づけをかわして、唾液を啜り、彼女の吐息を飲む。
この車両には、酔っ払って眠りこけたサラリーマンと、耳の遠い老女しか乗っていない。深夜の東京行き。
息が苦しい、と女は俺の胸板を軽く押した。荒い息を、ふたりで整える。
「…ふ、ふふふ。優しそうなひとで良かった」
もう一度、口づけた。

はっと目を覚ますと、ちょうど目的地のひとつ前の駅に停車するところだった。隣で菊弘はすやすやと眠っている。服の乱れは無い。俺は、かさかさに乾いた自分の唇を指で何度もなぞった。今まで唾液でびしょ濡れだったはずなのに…。

夢だったのだ、と。
そう思うことにした。

そして今に時は戻る。




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