神主は力になれない〜誰かの溜息〜



知り合いの神主に相談しに行きました。
彼と出会ったのは、偶然でありました。ただ、参拝に行ったのです。会社の近くでしたから、休憩時間にふらっと足を運びまして。
すると彼が、掃き掃除をしておりました。
そこでニ、三言話をしました。
不思議と、彼のお話は心地が良かったのを今でも覚えています。
まるで、母に寝しなに聞かされる昔話のような、そのような安心感を持ったのです。
それから、彼を尋ねることが多くなりました。
会社の近くですから。

だから、彼に相談をしたのです。
一体どういう専門なのか、それともお門違いなのか全く無知でしたが、それでも身近な神職者でしたから。

溜息の、音が聞こえるのです。
退社し、歩いて自宅マンションに帰ります。風呂も飯も済んで、さて寝るかとベッドに入ります。
疲れているので、すぐにうとうととし始めます。そして、いつの間にか眠っているのです。
しかし、ふいにそれが聞こえるので。わたしは起きてしまいます。

はぁーーーーー………。

長く、そしてしんどそうな溜息です。

いつもそれで目が覚めます。
しばらく、静かな寝室でぼうっと目を覚ましております。
その溜息の音は、聞こえないのです。
そうしていると、また寝入ります。そして、しばらく経ったあとか、それともすぐかは判断がつきませんが、溜息の音で目が覚めるのです。
眠った気がしません。時間の経過に意識が行っていないので、熟睡はしているのでしょう。しかし気になります。
自分の声なのでしょうか。無意識に、溜息をついて、それに驚いた自分が覚醒しているのでしょうか。

一度、その音がどこから聞こえてくるのかを探ったことがあります。
今の時代便利なもので、そのようなアプリケーションが存在するのです。寝言を録音するアプリケーションが、相応しいと思いました。
音を感知すると、それを自動的に録音するのです。
最初は枕元に置いておきました。しかし、布のこすれる音や、寝返りの音しか録音されていませんでした。その日の夜も、溜息の音で目が覚めたというのに。
置いておく場所を、日に日に変えていきました。
ベッドの下。扉の側。部屋の隅。クローゼットの中。

録音されました。
溜息の音は、クローゼットの中で録音されたのです。



「しかし、勿論クローゼットの中には誰もいないのです」

そう言うと、それ以上は何も言わなかった。
「…盗聴の逆という可能性は?」
「盗聴の逆と、言いますと…」
言葉の意味を尋ねる。
「スピーカーが隠してあって、わざと貴方の安眠を妨害するために溜息の音を流しているとか」
「なるほど…しかしそのようなものは見つかりませんでした」
「壁の裏という可能性もある」
「いえ、きちんと探したのです。中の物を引っ張り出して、壁や扉、隙間なども全て見ました…解体、したんですよ一度」
言うと、表情が固まった。異質だと思ったのだ。
「いやいや、ほら最近の家具はネットでも買えますよね?組み立て式なんですそもそも」
弁解すると、少しだけ表情は戻った。
「ならば、もはや人の仕業ではないと思って私に相談しているのかね」
頷く。
「しかし気になる」

掃き掃除の手を、ぴたりと止めた。
「何が気になりますか」
立ち話にしては、ひどく長い時間が経ってしまった。
「貴方が、溜息の<音>と言うのに拘ることが気になる。何故それを<音>と称する?私は溜息としか言っていないが、まるで貴方はそれを<音>でないといけないかのように、口にしている」
言われて、はっとした顔になった。驚いた。確かに、そう言っているかもしれない。無意識に。
「<音>だと認識しているのには、何か理由があるのかな?それを誰かの溜息だと意識したくないだとか、貴方自身が答えを知っているのかもしれない」

どうだね?

その表情は、真剣だった。
「で、でも…そもそも<音>の正体は溜息ではないかもしれません。そのような<音>なのかも」
「だとしても、仮にその<音>の正体が溜息ではないとしても。貴方は溜息の<音>だと言った、溜息のような<音>と初めから言うのならまだ分かる。しかし貴方は一貫して、そう言っている」

「貴方は、分かっているんだ。それが人から発される物だと。人が、吐き出す溜息だと。違うかい?場所だって分かっているんだ、クローゼットの中だと。しかし、そんなはずがない音がするはずがないとも分かりきっている。だから不可解で仕方が無い」

「一度解体したクローゼットに、再びそれを戻したのか?」

「意識していない、認識していない…貴方がそれの存在を無視しているから分からない。盲ていなくても、どんなに視力が良くても人は意識の外に追い出すことが出来るんだ。見ないで済むのだよ」

訳が分からない。欲しい答えではなかった。

「警察を呼ぶ、一緒に行こう」

ついて行った。



男は、自分と他者との線引きを失いかけていた。
自己が無い。度々自分を称する表現が消えていっては、私と自分との感情の違いさえ分からなくなっていっていた。
知り合いの刑事に事情を話し、彼の部屋を見てもらった。
案の定、彼の寝室のクローゼットからは死体が出た。
彼にそっくりの、男の死体が。

何十年と生きているが、あれを見た時は背筋が凍りついた。
ただ、そこに座っているだけの肉の塊だった。生きていた名残が見られない。ただ、そこに居ただけの、死体。
彼とそっくりの死体は、彼との血縁かと思われた。
検死の時に、全てが明かされるだろうと踏んでいた警察だったが、この事件は、全てが謎に包まれることになった。
死因は不明。死体は、ただそこで心臓の動きを止め、血流を止め、肺を動かすのを止め、脳で考えるのを止めた物体だったのだ。
生きていた頃の、胃の内容物だとか、傷跡、手術痕…そういった物も見られなかった。
驚くべきことに、彼と死体はあんなにも似ている…いや、瓜二つだというのに血縁でもなんでもなかった。
死体は、身元不明として処理された。

もちろん彼の殺人の容疑は晴れた。死因も分からなければ、凶器も分からない。死体遺棄として送検されるとの意見もあったが、そもそも彼が死体を隠した証拠もなかった。

唯一死体から出たのは、彼がクローゼットを解体して付いたであろう木くずや、彼が死体を動かした時についた彼の指紋くらいだった。
彼は死体を認識していなかった。

彼は、しばらく精神病院に入院した。
薬やカウンセリングの効果もあって、早めに退院が決定したらしい。
挨拶くらいしておこうと思ったのだが、退院してすぐ、彼は遠くへ引っ越した。
前に働いていた職種とは真逆のものに就いて、そして出世し結婚もしたと聞いた。
今は二児のお父さんだ。

まるで、私の知っている彼とは違っていた。
おどおど話す、しかし丁寧な言葉を選んでいる彼とは、全く違う話し方をする印象を受けた。
よく笑い、明るい。彼は、どちらかというと笑顔が下手くそで、かわいそうというような印象を他者に植え付けていた。
ほおっておけない、守ってあげたい。世話を焼いてあげたいと思うような。
しかし、遠くへ行ってしまった彼は、どちらかというと後輩や仕事仲間をぐいぐいと先導していくタイプらしい。

入院したからなのか、それともあの事件のせいなのか。

まるで人が変わってしまったようだよ、と知り合いの刑事は私に話した。

あの溜息は、一体誰のものだったのか。
自分か?それとも、もう一人の自分か。
自分の吐いている溜息が、他者のものだと勘違いしてしまっていたのか。

今となっては、何も分からない。

菊弘、熊谷菊匡として神主をしていた2016年の秋の話である。






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