ハイヒールを履かせて


Twitterにてリクエストを貰って書かせていただきました。お持ち帰りはご本人様のみでお願いします。

ハイヒールを履かせて



梅雨が始まった。
菊弘の家は除湿器も付けずに、小雨の中障子を開け放っている。
境内から砂利を踏みしめて、部屋を目指す。
家の主は、定位置に正座して新聞を読んでいた。
老眼鏡を掛けている。

「なんだ、老眼鏡なんか掛けて」
庭から声を掛けると、菊弘はこちらを見もせずに言う。
「お前と云う男は、季節に合わせた格好が出来ないのか。湿り気を背負ったカビ菌の塊がやってきたと思ったわ」

縁側に上着を脱ぎ捨てて、靴を脱ぐ。濡れてしまった靴下もその辺に丸めて置く。
「それならそこで寝てる真っ黒な固まりも黒カビじゃねえか」

裸足のまま上がり込むと、それと同時にため息を付きながら立ち上がって、俺の服と靴下を回収する。
放っておけばいいのに、お前は俺のお母さんか。
「セルは別件で多忙でな、今特別に魔力をフルでセルに渡してるんだよ。私は生身に戻ってるんだ」

言いながら去っていく。
靴下は洗濯機にぶちこまれ、コートは別室の除湿器の掛かった洗濯物干し部屋に、一緒に吊らされているのだろう。

「誰が黒カビだ」

真っ黒の黒カビの固まり―セルは寝転んだまま、俺に言う。
「体調でも悪いのか」
「いいや、休憩に来ていただけだよ。デイシュウこそどうした」
「近くに寄ったからな、このまま飯も食って風呂もいただいて泊まる算段だ」
ネクタイを外してその辺にほったらかす。誰も座らないであろう位置に陣取る。
「じゃあしばらく居てやれよ、菊は生身だ。あれこれと体の負担があるからな」
「中身は只のばあさんだからなぁ」
ゆっくりと歩いてくる気配がした。背後でネクタイをくるくると巻き取っているようだ。

「ほんとだよ、ババアだし体はがたがただしで最悪だよ。梅雨の時期は仕方ないけどね」

ババアババアとは言うが見た目はいつも通りだ。
菊弘は定位置に座る。机の上には、きちんと巻かれたネクタイが置かれた。
「茶は自分で淹れろ」
親指で後ろにある茶櫃を指す。
俺は言われた通りに、机の上の急須を取ってポットに向かう。
自分の湯飲みを取って、ついでに菊弘の湯飲みにも注いでやった。

「じゃあそろそろ行くかね」
「うむ。気を付けて」

セルはゆっくりと立ち上がる。
いつもなら、奴の姿は輪郭にもやが掛かっていて、視界にうまく捉えることが出来ない。
だが、今日は少しだけ違った。
魔力を全部セルに移動させているというので、存在感がはっきりしているのだろう。
足元も、いつもはもやもやとして<足>とかろうじて分かるレベルなのだが…。

「お前、土足じゃねえか」
「ん?ああ、これはわたしの足だぞ」

ほれ、と右足を差し出したので、手にとってまじまじと見てみる。

「その絵、はたから見ると危ないな」
菊弘が笑う。

セルの足は、真っ黒いヒールブーツのようだった。
今まではそういう風に見えていたのだが、はっきりと見えるようになると、それは黒く艶のある<足>だった。
爪先は靴の先のようになっているが、よく見ると爪のような形になっていた。
「かかとがこんなに尖る必要があるか」

まさに靴のヒールだ。
「わたしの趣味だ」
あっけらかんと答える。
「悪趣味だよなあ、そんな高いヒール履いて歩けるかってんだよ」
菊弘が新聞を捲りながら言う。
「そんなことはない、女性はヒールを履くことによって足が長く見えるし、それに綺麗だ。歩く姿なんか惚れ惚れする」

菊弘が言うことの反対を支持したくなるので、ハイヒール党を推した。
「そこまでお前がフェミニストだとは知らなかったなぁ」
ぺったんこ党が嫌味を言う。
ぺったんこ?胸がか?

「まあ菊も履いてみるといいじゃないか。ほら、お前のサイズのハイヒール置いていってやるから」

セルは真っ赤なハイヒールをどこからともなく取り出して、俺に手渡した。
「じゃ、あとはデイシュウよろしく」

そう言ってさっさと行ってしまった。
縁側から降りると、雨水を弾いてしばらく歩いて、その姿は突如消えた。

「魔力の無駄使いしやがって物質の具現化なんて必要なときにだけやりゃあいいのに」
菊弘はお茶を飲み干す。
サイズは24センチくらい。ヒールの高さは10センチもないだろう。
俺は菊弘の足首を掴んでひっくり返した。

「んおおお!?」
勢いよく、畳の上に菊弘が寝転ぶ。
足袋を脱がせて、ハイヒールを履かせる。

「ちょ、なに!無理!」
「ほら、歩いてみろよ」
「畳が傷つくでしょうが!」
体育座りをして、俺に怒鳴り散らす。
「それに靴を室内で履いてはいけません」
「新しい靴はいいんだぞ」

菊弘の両手を掴んで、そのまま立ち上がらせようとする。
体重をかけて引っ張っているが、相手も体重をかけて対抗しているので、お互いに中腰になってしまった。

「廊下なら、いいだろう…」

引っ張られることに疲れた菊弘が負けた。



一度ハイヒールを脱いで、廊下に並ぶ。
俺は畳の上に行儀よく正座した。

「では、菊弘婆さんのガールズコレクションの始まりです」
「チッ」

何故こんなことをしているか。
そう問われたなら「暇だった」「退屈だった」「そういう内容のリクエストが来たから」と答えるしかないのだが、俺たちはまあ時間を持て余していたのだ。

恐る恐る、菊弘はハイヒールに足を入れる。
まるで今からその靴は、呪いのせいで一生脱げなくなって踊り続けなくてはいけない代物なのではないかと思うくらい慎重に、それを履いた。無駄にドキドキする。
俺はお前の両足を切断する度胸はない。
まあ不自由になった菊弘の面倒を見てやらんことは無いが。

菊弘は、履いてしばらくそのまま突っ立っていた。
俺はてっきりその履き心地を堪能しているのかと思ったが、自分の足を見詰める菊弘の表情は、どこかおかしい。

「どうした、歩いて見せろよ」
「…え、あの…これどうやって歩けばいいの」
「はあ?」
驚くことに、本当に菊弘はそこから一歩も歩けないでいた。

「いつもみたいに普通に歩けばいいだろ」
「いやそれが…足がね、動かないの。動かそうとすると転げそうで…」

足が動かない?一体どういう道理でそうなるのか理解できない。

俺は億劫に立ち上がって、菊弘の目の前に立った。
「右足を前に出せ」
「…ふんっ!…ほっ……くっ」

何故か膝が前に少しだけ出て、その度に菊弘はこけそうになる。
ダイエットマシンに足踏みするやつがあるだろう。
あれみたいな動きだ。一向に一歩が踏み出せない。

「生身ってのに何か原因があるのか?」
「あっ」
ひとつの可能性を示唆すると、菊弘は思い出したように言う。
「私、両足の腱が切れてるんだった」

「…は!?」
「戦場でドジってね。手術して歩けるようになったけど山登りとかは出来ないし、なんなら立ちっぱなしもしんどいくらいだ」

初耳だった。

一度ハイヒールを脱がせて、素足のまま歩いてもらう。
後ろからその様子を観察していたが、菊弘は少しすり足気味で歩いているようだ。
いつもは(当時はなんかは)草履を履いているので、それでも歩けるのだろう。
だが、かかとの高い靴は、引きずって歩くとなると危ないし、足への負担が掛かる。

「なるほどな、お前はヒールを履くのをやめろ」
「えー、せっかくだからちょっと歩きたかったのに」

歩きたかったのかよ。さっきまでぶーぶー文句垂れてた豚ちゃんはどこに行った。
「じゃあ俺が支えておいてやるから、廊下の端から端までな」

老人介護だ。
いや、老人はこんな高いヒールなんて履かない。
小さな体を半ば後ろから抱えるようにして支えてやれば、菊弘は大袈裟に膝を高く上げて、ようやく一歩を踏み出した。
二歩目、三歩目で感覚を掴んだのかその歩みも様になってくる。

廊下の端まで行って、そのまま抱き上げて靴を脱がす。
まるで幼児とごっこ遊びしてるみたいだ。

「ふう!疲れた!」
案外楽しかったのか、スッキリした面持ちでそう言った。

部屋に戻って、茶菓子を摘まみながら靴の話をする。
「大体、ハイヒールを履く機会なんか生前にいくらでもあっただろ。冠婚葬祭とか」
「全部着物で行くけど」

ああそうだった、そういう時代の人だった。
いや、でもモダンガールとか流行った時代だろうに。
それでも、足のことがあって、彼女はそれを諦めていたのか。

「あ、でもドレス着たことあるわ。その時たしかヒールだったな」

煎餅をぼりぼりと音を立てて食べながら、菊弘は言う。
「なんだ、その時はどうやって移動してたんだよ」
「旦那さんがお姫様抱っこしてくれてたよ」

恥ずかしげもなく、にっこりと自慢げに話した。
「確か知人の妹の結婚式だったかな……いつも通り和装で行こうと思っていたら、僕はタキシードで行くぞ!と騒ぎだした。まあそれはそれでいいんだけど。後からお前もお揃いで行くぞ!ドレスを着なさい!着ないと僕は作業着で行くからな!君がドレス着ないとタキシード着ないぞッ!なーんて言い出すからまあ参ってね」

どんな亭主関白だよ。亭主関白の仕方が子供か。
俺は黙って話を聞く。

「私はヒールでは歩けないって断ったら、じゃあ僕がキクちゃんを抱っこしていけばいいじゃないかッ!てね。まあ結婚式は立食じゃないから移動もそこまで無かったし、その知人の妹の兄が、面白いから絶対にそうしろとまで言うから…私は断れなくてね…」

嬉しそうな顔したり苦そうな顔したり忙しいな。

「きちんと洋装の化粧もして、黒のマーメイドドレスで行ったんだ。そしたら本当に奴は私をお姫様だっこして歩き回るもんだから!…半泣きになりながら、頼むから席に下ろしてくれって頼んだな。あの時の奴等の顔といったら……写真は残ってないぞ、あっても絶対に見せない。で、次にドレスを着るときも僕が抱っこしてやるからな!って言われたから、もうその機会はない!って答えた。大体ドレスは背中が見えてたりするからなぁ…私は背骨のところに大きな手術痕があるんだ。旦那さんはまぁ、そこから何かが這い出てきそうで面白いじゃないか!これはキクちゃんのジッパーだ!中の人にご挨拶しなくては!なんて楽しそうにしてたけど、周囲はそんな人ばかりじゃないからね。…そういえばその結婚式以来、履いてないかもなぁハイヒール」

そうだ、俺たちはハイヒールの話をしていたのだった。

「また履けばいいじゃないか。歩けなかったら俺が抱えてやるよ」
「何だそれ。歩く姿が綺麗なんじゃなかったか?」
「それは人それぞれだ。それに、今は生身かもしれないが元に戻れば大丈夫なんだろう?」
「まあねぇ、でもやっぱりかかとが高いと歩きにくいし。あ、ヒールで歩いてる姿惚れ惚れするなら、ついでにボンテージでも着てやろうか?」
「何だそれはぁ、知らん」

お決まりの台詞を言うと、菊弘は呆れたように笑った。

彼女の、背中にあるという大きな傷跡をぼんやりと想像して、俺はお茶を飲み下した。







×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -