詐欺師は誰かと出会う


まるで俺たちは、海にデートへやって来たみたいに軽やかな足取りで砂浜を歩いていた。
俺の目には、例の水死体など映らない。
それに対しおかしいな、とも思わない。
きっと、ネモがそうさせていないのだろう。
何故だか確信があった。

「あーあ、終わってしまった!」

ネモは相変わらず、裸足になって砂を蹴っている。
投げ出された草履を拾って、俺はその場に座り込む。

俺の革靴と草履を並べて、靴下を脱ごうとしたところにネモは勢いよく隣に座った。
砂だらけだ。いつもなら、埃ひとつ付いていない着物が薄汚れてしまっている。
髪の毛も汗と潮風でバキバキに固まってしまっていた。
裸足になった俺の足の上に、ネモは鼻唄を歌いながら砂を掛けていく。

指をもぞもぞと動かして、山になった砂をどかす。
「あー!おとなしくしててよね!」
足首に上から垂直にチョップが落ちる。
言われた通り、動かないでじっとしていると砂の山が出来上がる。

だが、砂の質がさらさらとしたものなのである程度の高さしか積み上がらない。
「水を掛けないとこれ以上は無理だな」
「水!いいね!」

ネモは立ち上がって、慣れた手付きで腰帯の中から紐を解いた。
その紐で両の裾をたぐって縛ると、裾を割って帯に押し込む。
素早く駆け出し、そのままの勢いで海へ入った。

裾を捲ったのに、濡れてしまっている。
歓声を上げながら、海の水を足や手で感じている。

コートを脱いで、ネクタイを緩める。
俺は冷たい海水にそろりそろりと足を着ける。

「うぇっ、冷たいじゃねえか」
「夏はまだ先だぞ貝木くん」

ネモは俺の手を引っ張って、自分の方へ引き寄せた。
その手は物凄く熱くて、熱でもあるんじゃないかと思った。しかし、ネモは別段辛そうでもなく、顔色も良い。

「ねえ貝木くん、楽しかった?」
両手を握られる。
「いや、二度とこんなことはごめんだ」
正直に言うと、ネモはくすくすと笑う。
「もう平気だよ、陰陽寮は貝木くんに関わることはもうないさ。ここまで君が引き寄せられるとは思ってもなかっただろうから、上の奴等が対策を打つよ」
「そうなのか」
「それより菊弘がもう関わらせないんじゃない?それくらいできるよアイツなら」
過保護なのがもっと過保護になると言うのだろうか。
寒気を覚えて、俺はぶるっと震え上がる。
するとネモが急に抱きついてきた。

後ろに倒れそうになったが、なんとか踏ん張ってそれを受け止める。
「なん、だ…どうした」
「ねーえ?貝木くん」

ふう、とため息をついて、ネモは続ける。
「僕と菊弘だったら、どうして僕を選ばないの?」
「………そこは普通、どっちを選ぶ?と聞くところじゃないのか」

「だって君は菊弘を選ぶでしょう。僕は、僕が選ばれない理由を知りたいんだ」
「そもそもそれは、俺が選んでいい事じゃない」
「そんなことはない、いつだて僕らは他人に選ばれて生きている。僕は選ばれなかった、菊弘が選ばれた。僕は、菊弘にさえ選ばれなかった。いつでも菊弘は選ばれる。死んでも、奴等に選ばれた。そこで初めて、僕は菊弘に選ばれた。だから菊弘を恨むことは無い、むしろ菊弘は僕の救世主だ。僕は、初めて選ばれた」

ネモはうつ向きながら語る。
その内容は、菊弘を称賛するものだった。菊弘に感謝しているという内容だった。

しかし、そこには微塵にも暖かい感情は感じられない。

俺は、ゆっくりと後退りをしていた。
一歩、一歩と。

波打ち際にた辿り着いた時、ぬかるんだ砂浜に足を取られ、バランスを崩した。
後ろに肘をついたので、頭や上半身は無事だったが、見事に尻も足も濡れた。
すぐに起き上がろうとしたが、ネモがさっと俺の腰に乗った。
重くはないが、尻が冷たい、不快だ。
「何してる、どけ」

退く気配は無い。笑っている。

やがて波が押し寄せて来て、俺の下半身は正式にびしょ濡れになった。その冷たさに俺がだらしない声を上げると、ネモは愉しそうに笑った。
自分だって濡れているのに、構わないようだ。

いや、そうじゃない。
水の冷たさを、感じていないのかもしれない。

ネモの体温は、馬鹿みたいに熱い。

「お前は、俺に何をして欲しいんだ」
「怯えないでよ貝木くん、僕は別に君には何も望んでいないよ。こちらが何もしなくても、君は勝手に僕に同情的だ。それで十分だ!菊弘の良心が痛むなら、それで十分!」

ネモは俺の両手に自分の両手を重ねた。
まるで焼けた鉄を押し付けられたかのように熱く、痛みを感じた。

だが身じろぎひとつ出来ない。
俺は、ネモの両の目に捕らえられていて、動くことが出来ない。
その視線さえ外すことが出来ない。

波が打ち寄せて、ネモの手と俺の手がじゅううと音を立てた。

馬鹿な。そんなはずはない。

否定はするものの、それを確認することは出来ない。
この目で見なければ、信じることは出来ない。

「よせ、ネモ」

それは毎日聞いている菊弘の声だった。
右の顔は、にやにやと笑っているが、左の顔は無表情だった。

左右の表情が、異なって動く気味悪さを俺に見せないために、菊弘はあえて無表情を保っているのかもしれない。

「なんだよ、出てくるなよ菊弘。まだ僕が上位人格だぞ?」

「お前のやり方が陳腐過ぎて黙っていられなかったよ、短気だなぁ。もう我慢できなくなったか」
左目は、少しだけ俺から視線を外した。
そのおかげで、俺は呼吸が楽になる。

「我慢出来るわけないだろォ菊弘、君がご執心の男だぞ。誰でも欲しくなるさ。菊子だってそうしただろう?」
「なあネモ、提案があるんだが」

菊弘は、俺の手の上から左手を退けて、自分の着物で拭いた。
そして俺の目にその手をかざした。

俺に、見るなということだろう。
俺は抵抗することなく、従った。

「提案?お願いじゃあなくて?」
「お前、霊が見えるんだろう?その右目、私にくれないか」
「はあ?必要ないだろうに。何だ。ゴーストバスターにでもなる気かい?」
「私が見えるようになれば、ある程度対処出来るようになるだろう。そうすれば、お前じゃなくて部下を呼び出してどうにかするから」
「…僕の視界を一度見てからそう言うんだな。絶対に君には耐えきれないぞ。お人好しの優しい菊弘には…。君は結局〈見えない人〉なのだから、その脳には、記憶にはそれは刻まれない。僕は〈見える〉から見えた分記憶される、僕だって悪夢を見るぞ菊弘。馬鹿にしているのか!」

ネモの声は震えていた。
怒りなのか、悲しみなのか。俺には分からない。
「そうだろう、だからお前は表に出ると体に負担が出る。大きな負担だ。貝木の前だから強がっているかもしれないが、今だって意識を保っているのも精一杯のはずだ」

ネモの、右の手は熱い。
だが、菊弘の、左の手はいつもの体温だ。

やはり、ネモは熱があるらしい。いや、それ以外にも何か症状があるのかもしれない。
「無茶を言ってすまなかった、セルのサポート無しでお前を出すのはお前の負担にしかならないと分かっておきながら、貝木を守るためにお前を出した。本当に、すまなかった」

菊弘は、静かに言った。

「……そんなに言うなら、去り際に少しだけ僕の視界を見せてあげるよ。しばらく地獄を堪能しろよクソ女」

ネモは舌打ちをした。

無言の状態が続いて、だが相変わらず菊弘は俺の目隠しを解いてくれない。
右手の体温が、じわじわと下がっていったところで、俺はネモがいなくなったのだと確信した。
なんだ、呼び出す時は色々と準備が要ったくせに帰す時は簡単なんだな。
そんなことを考えながら、菊弘が動くのを待った。
しばらくして、沈黙が破られた。

菊弘が、息を飲んだ。ひっと喉を震わせて。

辺りをゆっくりと見回す気配がする。
「こ、こんな」

菊弘は明らかに動揺していた。
俺は菊弘の手を払い除けて、彼女と向かい合って座った。
がくがくと震え、菊弘は俺など見もせず、狼狽していた。
こんな菊弘は初めて見る。
「おい!大丈夫か」

かっと見開かれた両目は、あちこちを見ていた。

「こんなことが!あっていいのか!」
菊弘は高い声で言うと、わあわあと声を上げて泣き出した。
ぼろぼろと涙を流し、鼻水も滴らせ、子供のように泣いた。
顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、泣いている。

おろおろと俺が慌てて、とにかく慰めようと肩を抱いてみるがいやいやと拒まれてしまった。
見たことのない菊弘の壊れように、俺は呆然としていた。
波が俺の体を濡らしても、もう冷たいだとか思っていられない。

「もうやめてくれ、もういい、もうやめてくれネモ!」

菊弘は、ネモの目で何かを見た。
菊弘が見えなかったもの、ネモが見えたもの。
俺も想像がつかない。ネモには、世界がどのように見えているのかを。
人間の顔が、海が、風が、建物が、どのように見えているのかを。

ネモには菊弘の記憶がある。ネモは、自分の見える世界を地獄と言った。

それは、菊弘が天国を当たり前のように見ているからこそ、分かることだ。
分からなければ良かっただろうか。
知らなければ彼は幸せだっただろうか。
いや、彼と彼女が、同じ体で生き続ける限り、二人は永遠に分かり合うことは、愛し合うことは無いのだろう。
なぜ、このような人間が存在しているのだろう。

なぜ、ネモや菊弘は、こうして生きてきたのだろう。

俺は、ふと、悪夢のことを思い出した。
あれはもしかしたら、ネモや菊弘の記憶だったのかもしれない。
天狐は、俺に警告したのかもしれない。

あの幽霊と、ビスクドールと、臙脂色の服を着た男は、俺に何を言いたかったのだろうか。
誰にも分からない、それは夢の話だから。どこにも答えはない。

誰にも救いは無い。
俺は酷く気分が悪くなって、未だ泣き続ける菊弘を抱き締めることでそれを誤魔化した。





新聞にえびす亭のことが乗ることは無かった。
ネットでさえ情報が流れることがない。
2ちゃんねるで「そういえばえびす亭って無くなったよな」という書き込みさえ消された。
何度書き込んでも、えびす亭やその付近に関する書き込みは反映することがなかった。
まあ、あっち(陰陽寮)には天才ハッカーのはるる子がいる。一介の詐欺師が敵うわけがない。
ホテルのフロントに備えついているパソコンの履歴を消去して、俺は部屋に戻った。

部屋では菊弘が熟睡していた。
その隣で、魔人セルが俺の帰りを待っていたと言わんばかりにニヤニヤしながら初代ゲームボーイをプレイしていた。何だそれ懐かしいな。

「大変だったな」
「本当だ、もう同じようなことはごめんこうむる」
俺はソファーに沈む。
「平気だろう、もう二度と無いよ」
セルはネモと似たようなことを言った。
「…お前は何も知らないのか」
「菊弘のことか?知っているぞ、すべて知っている。だがそれをお前に教えようとは思わない。そんなこと失礼に値する」

魔人が無礼だとかそうじゃないだとかを気にする生き物であるという新発見をした。

「本人が、ちゃんと話すさ。聞かれればな」
菊弘はそういう人間だ、セルはそれだけ言って窓から出ていってしまった。
菊弘の体調を案じてやって来たのだろうか。
菊弘のことを人間だと言い含むのは、人外はこいつくらいだ。

「本人に直接聞けたら苦労はしない」

でもいつか、夢の話だとしても。

面と向かって話せる時が来るのだろう。


俺はシャワーを浴びるために風呂へ向かった。




ゑびす

福神。
何もかも、おめでたい。
具(そな)わらぬ者として海上を漂流し、
漂着しては福を呼び込む。
真実(ほんとう)はさかさまで、
福のある処に流れ着くだけなのだけれど、それはどちらにしても同じことである。

京極夏彦 画文集 百怪図譜より







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