詐欺師は誰かと出会う



結局、白智と加賀は行ってしまった。
〈鬼の箱〉と呼ばれる箱を大事そうに胸の前で抱えたまま、白智は一言も喋らず別れてしまった。
その表情は酷く切羽詰まっていて、ネモが言っていたことは本当なのだと思った。あの箱には、何か曰くがあってそれを白智の一族は祓っている。それが使命である、と。
だから白智はすぐにでもこの場を離れて、天狐を、力を取り戻さなくてはいけないのだろう。
加賀は、いつまでもいつまでも、俺たちの方を振り返っていた。

いつからか立ち込めていた霧が、二人の姿を消してしまう。
冷たい冷気と、塩気の含んだ生温い風がごっちゃになっていて気持ち悪い。
俺は、額から汗を流した。

「ねえ、浜辺を歩かない?」

ネモは含み笑いをして、言った。
「例の洞窟には行かないのか」
俺の制止も聞かず、ネモは俺の手を引いてえびす亭を出た。
いいのだろうか、勝手にこんなことをして。

俺は振り回されている。
いつもなら、俺の方が制止されるというのに。

ネモは鼻唄を歌いながら、えびす亭へと続く唯一の一本道を進んでいく。
「ま、目的地への道筋ってのは、どうでもいいことだよ。えびす亭はね、あそこには本来人の住む場所なんか作っちゃいけないんだ。寄り神信仰があった漁師の集落が本来の姿なら、あんな崖の上に家なんか建てないだろう?考えてもみてごらんよ貝木くん。漁師の町って言われてこの辺に民家が無いのは不自然だと思わないかい?」

「確かにそうだな…普通漁師たちの町と言われると、港があって、山の方に民家が建ち並ぶイメージだよな」
「港はね、もっと奥の方なんだ。で、そこにはちゃんと競りの市が行われる場所があって山の方には民家や漁師飯を振る舞う店がある。あのえびす亭は、本来は神聖な場所なんだ」

俺や白智が降りたバス停についた。
簡単な作りの雨風をしのぐそのバス停の後ろに、獣道があった。
ここから海辺へ降りれるようだ。

気を付けろよ、と声を掛けながら一緒にその道を行くと、ネモは嬉しそうに笑った。
俺はそれがむず痒かった。菊弘だと、こんな風には笑わない。
もちろん無愛想な奴ではないので、ちゃんと笑うときは笑うが、こんな風に無邪気に笑う姿など一度も見たことがなかった。

「崖とか山の頂上って、なーんかスペースが空いてるじゃない?あれって大昔の人がそこを神降ろしに使ってたからなんだよね。人間が儀式をしなくても、神が降りやすい場所ってやっぱり天に近い場所でしょ?だからああやってスペースがあるのさ。昔の人はそういうのを神聖な場所として扱ってたから、そこに住居を構えるなんて想像もつかないだろうねぇ。もしあのえびす亭が、本当に客を迎えるだけの店だったらまだましだったかもしれないけど。迎える、歓迎する、奉仕するっていう行為はプラスだし」

よいしょ、と言いながらネモはその場に座る。
もぞもぞと何かしていると思ったら、草履をぽいぽいっと脱ぎ捨てて足袋を懐に仕舞っていた。
俺がその草履を拾うと、ネモはやはり嬉しそうに笑うのだった。

ネモが、砂を蹴って歩く。

まだ肌寒い時期だ、海辺の砂はひんやりと冷たくて心地が良い。

「貝木くんも脱ぎなよ!」

先を行くネモが、上に向かって叫んだ。
「俺はいい」

革靴の中に、どんどん砂が入っていたが、もう気にしてなかった。

「それであの家さぁ、家族ね。海からの漂着物を隠し持ってたでしょ?」
俺は車庫上の倉庫を思い浮かべる。
そうか、あれは本来祀られなければいけないものなのか。
それなのにあんな埃っぽいところに仕舞われていたのだ。

「神降ろしをしていたであろう場所に、家が建ってる。多分大昔はあの家、神社か寺だったんじゃないかなぁ。家の作りがそんな感じするんだよねー。多分どっかの代で儲からないとかそういう理由で廃止したんでしょ、祀るのを。ご神体である海からの漂着物、えびすを海の洞窟に置いてさ。テキトーな発想だよねえ、海の神様だから海の近くに置けばいいやみたいな」

と、そこでネモは1拍置いて、息をついた。
「どうした?」
立ち止まり顔を覗きこむ。
「へへ、喋り疲れちゃった」
「もう大体の事は分かったから無理に話さなくてもいいぞ」
たしかにさっきからネモは喋りっぱなしだ。
「やだよ!僕はお喋りが好きなんだ!」
「じゃあ座って話せばいいだろう」
「嬉しいお誘いだけど、僕は菊弘に任されてるんだ。一日あれば出来る仕事を、わざとサボって長引かせようとは思わないよ」
「あれだけ駄々をこねていたのにか?」
「うふふふ、あれは建前みたいなもんだよー。菊弘にはワガママが言いたくなるんだ、君だってそうだろう?」

ネモは後ろで手を組んで、砂の上をさくりさくりと歩み進んだ。

やがて、本当に洞窟が見えてきた。
長い石段が、えびす亭の方へ延びている。
錆び付いた鎖でそこは封鎖されていて誰も通った形跡はない。
だが、かすかに大勢の人間の気配がして、俺は思わずネモの近くに寄った。

崖の下に、こんな空間があったなんて。

ごつごつとした岩場には長らく海水が来ていないようで、風に煽られた砂が、浜を作っていた。
それでも裸足では足を切ってしまうだろうと思って、ネモに草履を穿かせる。
大丈夫だよ、とネモは言うが何かあっては困るだろうと俺が言うと破顔して「貝木くんがそこまで言うなら」と嬉しそうにした。
俺に心配されるのが好きらしい。

「で、さっきの続きだけど。崖の上は神聖な場所だ、そこに家を立ててしかも祀る人間は居なくなってしまった。ご神体は洞窟の奥へ放置。でも本当なら、そんなことであんな風にはならない」

あんな風、と言われて俺は昨日の襲撃のことを思い出した。
明らかな霊現象。実体を持っているかのような、死人の呻き声。

「大概の霊ってのは音を出したりするのが精一杯さ、出来ても扉をちょいっと押して驚かすとかね。なのに君たちの元に現れた奴等は窓をばんばん叩いた。人間の体に傷をつけた。自然の摂理に反しているんだ、それはおかしい、力が強すぎる。海で死んだものが、すべて敵になっている。おかしいんだよねえ」

ゆっくりと、砂で埋もれた岩場を歩いていく。

海の方から、なにかが這い出ているような感覚。
暗いところから、じっと俺たちを見つめているような。

ネモが急に俺の左腕を掴んでまとわりついた。
驚いたので俺は、少しだけビクッとした。
くすくすとネモが笑う。
「怖がるのは善くない、もっと自信を持って。君は怪異なんか信じないんだろう?悪魔や魔人は存在しているかもしれないけど、幽霊なんて、マイナスエネルギーなんて本当は見えなくていいものなんだ。見えてしまうから仕方がないけど、自然の摂理としては見えなくていいもの、存在しなくていいものなんだ。なまじ見える僕たちがその存在を認めるから、奴等は調子に乗って出てきやがる」

ネモは俺の顔をじっと見ながら、海の方へ左手をぱっぱっとゴミを払うかのように動かした。

静かに押し寄せていた波が、一瞬だけその規律性を失ってぐしゃぐしゃと荒れた。
「な、なにを」
「あーあぁ、本当はここで見えない暗示でも掛けてやりたいんだけどねえ、禁止されてるから仕方無いや。貝木くんには少し怖がってもらうしかないか…」

ネモはため息をついた。

「ここってね、流れ着くんだよ」
「海からの漂着物だろ?」
「さっき見た鯨の骨とかね、そういうのもそうだけど」

岩場の奥を、ネモが指差した。

石段の方に引っ張られて―。次男嫁の啓子さんの話がフラッシュバックする。

丁度、石段の終わったところに、黒い塊が落ちていた。
というよりは、引っ掛かっていたという表現の方が近いかもしれない。
「ここは潮の流れがそうなんだろうね、こうやって海で死んだ死体が流れ着くんだ。大分前に台風が来たろ?それでここに流されてうち上がったんだろう」
ネモは淡々と言う。
「あ、あれは…どうするんだ」
「ほっとく。事が終わりゃ軍が片付けにくるから今僕がやらなきゃいけない事じゃないもの」

ネモはずんずん歩いていく。
俺は置いていかれないように必死に着いていった。
度々俺を振り返っては、楽しそうに笑うので、こうやって俺が必死こいてるのが面白いのだろう。

洞窟につくと、さっきまでの温度よりもとても寒くなった。

やはり、白智と加賀が居ないのは心細い。
その心情を読み取ったのか、ネモは俺のコートの内ポケットをつんつんと指した。
痛い。
俺がそこを押さえると、中に紙の感触があった。

ああ、そうか。加賀の〈お守り〉がある。
ネモはそれがあれば平気だと言うように、にっこり笑って俺の手を引っ張った。
それでも安心はできない。
急に、口数の多いお喋り大好きなネモが、いつの間にか押し黙っている。

洞窟の中は、変に拓けていて歩きやすい。
満潮になれば、辺りは沈むのだろうが今は心配要らないだろう。

「なあ、ネモ…」

俺が名前を呼ぶと、やはり嬉しそうに俺を振り返る。
「なあに?」
「ここにはご神体が置いてあると言ったよな?それってもしかして、さっきのような」

海で死んだ人間の―。
「ちがうよ、ホラ」

ネモが立ち止まり、指し示す場所に祠があった。
石で組み上げられた立派な祠だ。
扉もしっかり閉まっている。
緑の苔がこびりついていて、雰囲気がある。

しばらく俺はそれに見とれる。
立派だ、きちんとした祠だ。これが、昨日の、それ以前の事件の原因だと?

「祠、だな…」

俺がネモの顔を見ると、その顔は意地悪そうに笑っていた。
場にそぐわない顔だったので、俺は驚いた。
こんな場所で、何が起きるかも分からないのに、俺が怯えていることが愉しいのだ。

「ご神体は死体じゃなくて只の木だよ。ほら貝木くんがここに来てくれたから嬉しくて顔を出したぞ」

ネモの言葉にゾッとして、俺は勢いよく祠の方へ目を向けた。

重々しい石の扉は、今まで開いてましたけど?と言わんばかりに当たり前に開いていた。
そこには、15センチくらいの木が置いてあった。

この扉が開いていたら、開いたままだったのなら、こんな木など満潮時に流されているだろうに。
その木は、そこに座していた。

「よく見ると仏像みたいな形をしているだろう?まあ風化してもう分かんないけど」
言われてみれば、木からは右手が出ているみたいにちょっとだけ出っ張りがあった。昔はもっと形がはっきりしていたのかもしれない。
そうすると、それは仏像が右手をあげて拝んでいる姿に見えるのだろう。祀られるほどの理由はそれだ。

突如背後で、びしゃびしゃびしゃ!と音がした。

俺はネモにしがみつく。
そうすることしかできない。

「大丈夫だよ、無害無害」
ネモはけらけらと笑う。

ゆっくりと背後を振り返ると、さっきの水死体が立っていた。
俺は混乱する。
ああ、さっきの死体は死体じゃなかったんだ。生きてたんだ。
息を吹き返して、声のする方に助けを求めに来たんだ。

だから手を伸ばして呻いているんだ。
だからこちらに向かって歩いてくるんだ。

でもあの水死体には、小さな虫がいっぱい付いていた。蝿が飛んでいた。顔の肉は溶けてしまっていて、女なのか男なのかも分からなかった。

でも、それはこっちに向かって進んできている。
ぐちゃぐちゃのはずの足は、歩くという行為を忘れていて、まるで水中を泳いでいるかのように動かしている。
それで進んでくるもんだから、俺はまるで水中にいるかのように錯覚した。

息が続かない。
苦しい。

俺は、同じく水中にいるネモが心配になった。
しかしネモは余裕そうににやにやと笑っている。
何でこいつはこんなに愉しそうなのだろう。

いつもは菊弘が体を使っているから、自分が表に出れるのが嬉しいのだろうか。そんなに嬉しいのだろうか。

逆に言えば、用があるときしか出してもらえないのに、それでいいのだろうか。

俺がネモを見詰めていると、ネモもそれに気付いてくれた。
何か喋ろうとして、俺は口の中の空気をすべて吐いてしまった。
目の前に泡がぶわぶわと広がって俺はしまったと思う。
酸欠に苦しくなり、目を瞑る。
すると頬に両手が伸びてきて、泡の向こうからネモが顔を出し、俺に口付けした。

ああ、酸素を分けてくれるんだな。

そんなことを考えて、ネモに身を任せた。預けきった。
水中の中で漂いながら、ネモが俺の体をしっかりとホールドする。だから俺は何も怖くない。ネモがついていてくれる。
ネモは、俺の唇を優しく噛んだ。
ああこれは菊弘がよくやる癖だ、と暢気に思った。
小さな唇が、俺の大きな口をなぞるように口付けを繰り返す。
柔らかな頬がふにふにと顔に当たって心地良い。
その心地をもっと堪能するために、俺はネモの顔に両手を添える。
「うふふ、」
ネモが嬉しそうに笑う。
俺もつられて口角を上げる。
そのまま、首の後ろに手が伸びてきて支えるように撫でられた。
空いている方の手は、俺の背中に回ってきてネモの体に密着させられた。
浮力のせいで、ネモは俺よりも少し高い場所に居た。
俺が見上げるように口付けをする。
息継ぎの時に、計ったように優しく舌が入ってくる。
すんなりとそれを受け入れたからなのか、ネモがやはり嬉しそうに喉の奥で笑った。
密着した部分がとても熱い。
俺の手が、ネモの体を順番に撫で下ろしていく。
きっちりと鍛えられた筋肉が、鼓動を打って俺の掌を感じ取っている。
腰を抱くと、馴染みのある着物の手触りに目を開けた。

やはり愉しそうに、嬉しそうに、彼女は―。いや、白智はネモのことを〈彼〉と言っていた。ネモ自身も自分のことを〈僕〉と言う。
じゃあ彼は、男なのだろうか。
菊弘は女だというのに。

ネモは男なのだ。
それは、すごく辛いことじゃあないのだろうか。
ちぐはぐな心と体だ。

俺が再び、ネモの顔を包み込んでその右目の傷を舐めると、彼はやはり少年のような声で笑うのだ。
抱き締めて、その匂いを嗅ぐ。

ここは水中なんかじゃない。

菊弘からは、菊弘の匂いしかしない。
ネモである証拠が何も無い。

ネモはしばらく俺と見詰めあって、ぼうっとしていた。
だが、急に声色と表情を変えて、地の底から響く怒りの声で静かに言った。

「邪魔するなよ、今いいところだろ?調子に乗るな海のゴミ風情がよ」

ごう、と音がした。

ネモから大きな圧力が飛んで、石で出来た祠を粉々にした。
粉々どころか、そのひとつひとつは小さな灰のようになってその場にさらさらと散った。
これでは、満潮になるとさらわれてしまうだろう。

俺は状況が理解できなくて、祠のあった場所とネモを交互に見た。

「ちぇ、奴等の力を利用し、もっと貝木くんをトランス状態にして僕のものにしようとしたのに!邪魔された!もう!腹立つ!」

ネモはその場で地団駄を踏んだ。

「と、らんす状態?」
俺はいつの間にか乱れていた服を正す。
何故か唇の周りがじんじんと腫れているような気がして、そこを手で拭う。
「夢を見ているような気分だったでしょ?それをトランス状態っていうのね。奴等は貝木くんを欲しがってたからさ、僕が見せつけてやったんだ、これは僕の……あ、いや菊弘のものなんだぞーってね。するとどうでしょう、嫉妬の嵐。いい加減鬱陶しかったから止めを刺したの」

ネモは、あっけらかんと言うと洞窟を出ていってしまった。

置いていかれても、何も感じなかった。
さっきまでここは地獄の入り口じゃないかと思うくらい重々しい霊気が漂っていて、実際死体が起き上がって俺に近付いてきていた。

でもそれは、ネモが言う限り全部俺の夢だ。
白昼夢だ。

洞窟の中は、涼しげな潮風が吹き込んでいて、俺はうんと伸びをした。

昨日や、さっきまでの出来事がまるで何十年も前の出来事のように、いやそれよりもその出来事がまるで無かったかのような気分で俺は洞窟を後にした。

→続く




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