下巻




11

真夜中の墓場で、二つの影が墓を暴いていた。
イツカとセルである。
骨壺は簡単に手に入り、誰もいない寺の中で、静かに作業は進んだ。

朝日が昇る頃には、すべての行程が終わっており、あとは当の本人が目を覚ますのを待つばかりだった。

当の本人―、菊弘はありきたりな夢を見ていた。
花畑を歩いていると、川が見えてそのすぐ側にみすぼらしい格好をした老婆が菊弘を呼んでいた。

「はいはい、こっちですよーこっちね。ここでまず罪の重さを測るからねえ。今着てる着物を脱いで衣領樹に引っ掻けてねえ」
「…はあ、いやに事務的だな。えっと奪依婆さんですよね?ここは三途の川ですか?」

菊弘は着物を脱いで、奪依婆に渡す。
「そうだよー詳しいねえあんた、今時奪依婆なんて知らないだろうに。ここは通称三途の川ね。受け付けだよ受け付け。ここで罪の重さ測って、それぞれの部署に送るからそこでまた審査を受けて…って、あんた名前は?」

長机の上には書類が並べてあって、奪依婆は老眼鏡を掛けてそれを眺めている。
罪の重さを測ると言われている衣領樹は、普通の重量計測器だった。
奪依婆の背後には、れっきとした衣領樹が立っているというのに。

「熊谷菊弘です。これ、衣領樹使わないんですね」
「クマタニね、クマタニクマタニ…。これねーこっちの測りの方が数字出るからさ、大分昔にやり方変わったんだよ」
「へー」
「あ、ああクマタニさんね。…あっちょっと待ってあんた羅刹天様直々のお迎えじゃないと受付通れないみたいよ。うーん…じゃあその辺で待ってな、羅刹天様はお忙しい方だから。すごいねえ、あんた。羅刹天様がお迎えだなんて。何しでかしたんだい?」
「いえ、普通に生きてただけなんですけどね」

世間話(あの世話?)をしていると、遠くから誰かが菊弘を呼ぶ声が響いた。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこでぱっと目が覚めたのだった。


12

「あ、やっと起きた」

目の前には、菊弘を、菊弘が覗き込んでいた。
「僕が呼び戻したんだよ!」
「…ありがとうネモ、地獄から救い出してくれて。で、その体は何だ?セルにでも肉の塊で作ってもらったのか。だとしたら悪趣味だな」

菊弘は起き上がる。しかし全身が痛い。その痛みと違和感に顔をしかめながら、嬉しそうに笑うネモ…イツカに答える。
「違うよ、今僕が入ってるのは正真正銘君の体だ。菊弘の体だよ!死神に魂を斬られただろ?君が居なくなったから、僕の魂が前に出ただけさ」
「はぁ?じゃあ私が肉の塊か?」
「止せよ菊弘!とぼけちゃって!セルが作る人体は、肉の塊でしかない!死体だ!生きた魂は入れないよ」

何度も鏡で見た自分の顔が、まるで別人のように微笑む。
いや、今は本当に別人だ。

菊弘は、違和感のある体に、視線を落として眺めた。
痩せ細った手首。ごつごつとした手は自分のいつも見る手よりも男らしい。
肩幅も、がっしりとしている。髪をさわる。
首に襟足が触れている。
喉は喉仏が出ている。
そういえば、自分の声が、普段よりもとても低く聞こえた気がした。

あることに気が付いて、ある可能性に思い当たって、慌てて立ち上がると目眩がした。
倒れそうになるのをネモが支える。

ネモの方が小さい。

「どうしたの?トイレ?」
「…鏡、鏡が見たい」
言うと、ネモは快く承ってくれた。支えられてそのまま廊下に出る。
寺の廊下は長い。
朝日が差し込んでいるが、まだ夜の冷え込みが残っている。

だが汗が出る。気持ちの悪い汗だ。
ネモが心配そうに声を掛けてくるが、それに答えられない。
答えたくない。

嫌な考えが脳内を巡る。
この寺には見覚えがある。
魂が呼び戻されたということは、骨を使ったということだ。
恐らく<反魂の術>…いや、完璧に魂が戻り、心も存在している。
ということは、陰陽道の<生命存続の術>だろう。

御手洗いの扉を開けて、大きな鏡のある洗面台に手をつく。
まだ顔は上げられない。

「ねえ、本当に大丈夫?どこか変なの?おかしいなぁ…失敗するわけないんだけど」
ネモは本心から、菊弘を心配している。
そこに嘘はない。

「ネモ…、ここは中野だな?」
「え?うん、そうだよ。セルが時空を切り取ってこの世界線に無理矢理持ってきたんだ」
「お前、墓を暴いたんだな…?」
「そう!だってこの体は僕が入ってるし、それに僕がきちんと一人の人間として存在していないとこれからちょっと不便だろうなあと思って。セルと話し合ったんだ。もちろん僕が、そっちの体に入っても良かったんだけど…それは菊弘が嫌がるだろ?」
ネモは、菊弘の背中をさすってくれている。
広い、骨ばった背中だ。

「なぜ、この体を選んだ」
「だってこの人が菊弘の魂と一番似ているからね、一番入りやすい体はこの人の体しかないんだもん」

鏡には、まるで幽霊のように顔色の悪い、旧知の男の顔が映っていた。
30歳、いやそれよりももう少し若いだろうか。
生前の知人の姿と全く変わらない。

中禅寺秋彦の隣には、少しだけばつの悪そうに眉を下げる菊弘の姿が映っていた。
「ねえ、それよりも早くセルに魔力を分けてあげて。僕の力だけじゃあ君を呼び戻せなかったから、セルは魔力をたくさん消費して死ぬ寸前なんだよ。僕への説教は後だっていいだろ?頼むよ菊弘」
「…わかった。そうしよう」
「こっちで寝てるんだ!」

ネモは菊弘の手を引いた。


13

「おお、噂通りのご尊顔だ」

坊主が使っていたであろう使い古された布団に、ぐったりと横たわるセルは菊弘を見るなり言った。
「冗談が言えるならまだ死なないな」
「ははは、噂通りの渋いお声だ」

恐ろしく長かったセルの髪は、魔力の減少に伴い短くなってしまっている。
菊弘はセルの隣に正座すると、その右手をセルの額に乗せた。

「馬鹿げたことをしたな魔人セル。なんだ、ネモに誑かされたようだな?ええ?」
「僕はそんなつもりなかったよ!」

後ろからネモが頬を膨らます。
「そんなつもりがなくともお前には<山人>の魅了効果があるんだ、それ加えサイキッカーだぞ。自分の手段に賛同させるために無意識化で相手を暗示に掛けているんだ」
「なるほどそれで、納得いったよ」

菊弘の右手から、微かな光が流れている。
額からその光がセルの身体中に充満していく。
真っ青だった顔色も、ある程度血色の良いものに変わった。

じわじわと髪も伸びていく。
「反魂を行うと言われたとき、普段のわたしなら止めるところを好奇心が勝ってしまってこのザマだ。まあ結果オーライだが」
むくりと起き上がったセルは、元のセルだ。
「成功したから良かったものの、失敗したらどうするつもりだったんだ?」
「失敗なんかしないよ、僕がやるんだから」

ネモはにっこりと笑った。
「…それで、ネモはまだ<キャスター・オルタ>のクラスを保っているのだな?」
「うん、菊弘が現界した時のものを引き継いでる形になるね。でも魔力は僕には関係ないからクラスは存在するけど、その定義に依存しない感じかな」
「なるほどな。セル、お前結界はここにも張れてるんだよな?」
「勿論だ、だから死にかけていたというのもある」
「無理をさせてすまなかったな、ではこれから私はこの体でもう一度お前と契約を結ぶ。それで魔力供給は安定するはずだ。中禅寺さんのお体を借りているのだし、他の恩恵も受けれるな…この人もれっきとした<陰陽師>だ」

菊弘はうーんと伸びをした。
「よし、まずはバーサーカーをどうにかせねばなるまい」


14

「さっさと殺してしまえばいいじゃない」

金指シズヨは、己のサーヴァントに向かって分厚い魔導書を投げつけた。
鈍い音がしたが、バーサーカー…ラクスの体はびくともしない。
恭しく礼をしたままだ。

「我が主よ、それについて弁明をしてもよろしいでしょうか?」
「許すわ、なぁに」

シズヨは一人掛けのソファで、指の爪を磨いている。

「他のマスターを殺すにはまず、キャスターの結界を破らなくてはいけません。キャスター・オルタの念動力を弾かなくてはいけません。セイバーには結界等の防御術はありませんが、絶対的な攻撃力がありますゆえ。それを全て私めが退くとならば貴女様の」

「わたくしの、魔力が足りない?」
ばきん、と付け爪の砕ける音。
「ええ、仰る通りでご」

言葉を続ける前にラクスの顔面に大振りのナイフが突き刺さった。
ラクスは痛がる素振りもせず、さっとそれを抜いて懐に仕舞った。
顔からは一滴も血が出ることはない。
避けた傷口からは、じわじわと闇が流れ出た。

しかしそれもすぐに塞がってしまう。
「わたくしの魔力不足は認めます。では貴方の今現在の力で出来ることは何?スパイのような真似事も出来ずかといって殲滅も不可能…となれば貴方のような使えないサーヴァントは何をするの?」

「人間を殺すことは、私めには羽虫を殺すことと同じでございますれば」

ラクスは最後の力を振り絞って、キャスター…セルの外結界を破った。
炎に焼かれ電気に裂かれた体を、歩きながら回復させる。
今の状態では、この回復でさえ魔力を消費する。
主が違うだけで、ここまで違うとは。

死神、鬼、悪魔のラクスにとって本来ならば魔力など自らの持つ力に付加されるだけのものでしかない。
自身が、魔力を頼るしかないしがない存在であることが嘆かわしい。
煩わしい契約者との繋がりが取っ払われて精々したと思えばこれだ。新しい主は利己的で傲慢で我儘で頭が悪い。
これならまだ菊弘の方が…と、考えたところでかぶりを振った。

「これも魔力を原動力とする所以でしょうか、嗚呼…愚かしい」

キャスター陣営のマスターは二人ともひとつの家に固まっている。
ここに全員居るものだと思っていたが、気配を探る限り人間が四人、家の中に居るだけだ。サーヴァントはいない。
舐められたものだ、と顔が歪む。
笑っているつもりだが、その端麗な顔は怒りに歪んでいた。

懐に仕舞ってあった<死亡者予定リスト>を取り出し、確認する。
『○月×日 ※時※分※秒 高草木家に暴漢が侵入し一家殺人で全滅、遊びに来ていた高草木愛夏の友人も巻き込まれて死亡』

玄関の扉を蹴っ飛ばす。
リビングからは男女の笑い声が聞こえた。
ずかずかと土足のまま上がり込んで、リビングのドアを乱暴に開け放つ。
しかしソファに座って笑い声を上げている男女は、ラクスの方を見向きもせずテレビの天気予報を見ている。
女の頭を刀を抜かずにそのままぶん殴った。
しかし笑ったまま。
男の方も何のリアクションを示さない。笑ったままだ。

ラクスは気味が悪くなって、抜刀しその二人を斬った。
しかし、魂を斬った手応えがない。
男女は斬られたことで動きを止めたが、その魂はまるで存在しないかのように現れることはなかった。
いつもなら、自分の眼には白い光が死体から抜け出るのが見える。

だが、今しがた斬った人間は、それが確認できない。

「なんだ、これは…一体どういうことだ」
「簡単なことですよ。魂が入っていないんです」

背後から突如その気配は現れた。
振り向くと同時にその刀を振るう。
しかし入り口の燦に刀が突き刺さり、その刃は届かなかった。

いつものラクスならすぐにそれを抜いて斬りかかっていただろう。
しかし目にした人物が有り得ない人だったので、動きも思考もピタリと止まってしまった。

「有り難いね。僕は武道派じゃない、そんなもの振り回されたらあっけなく死ぬ」
「貴方は…存じ上げていますよ、担当は別の死神でしたがね。菊弘殿のご友人でございますね」
「ええ、菊弘が世話になっております。僕は中禅寺秋彦、しがない拝み屋です」

そこには黒衣の男が立っていた。
凶悪な顔つきで、じろりとラクスを睨む。

「…なるほど、セル殿の案か、はたまた菊弘殿のもうひとつの人格者の案かは分かりませんが反魂術をご使用になったのですね。そして<陰陽師>である貴方に新しく<サモナー>のクラスを獲得させる、と?」

ラクスは<死神の鎌>を仕舞った。
死亡予定者以外の人間は、斬れない。

「さすがですね、ご聡明でいらっしゃる」
「私めを人間ごときの配下に従えようだなんて可能だと思っているそちらとはまあ違いましょうなぁ」
「それでも貴女は力を出し切れず苛立っているでしょうに。僕の方に付けば、その力を存分に振るえるでしょうねえ。僕はこうして再びこの世に舞い戻った、それを普通の人間であると称するのは貴女らしくない。菊弘が戻った時はどうお考えになったのです?僕と菊弘とでは何が違うのでしょうね。何も違うことはありませんよ。一度死を経験した者が蘇る、そうすれば人は何を思うか貴女はご存知ですか?」

ラクスは綺麗に笑う。
「いいえ、考えたこともありませんでしたねえ。それに菊弘殿にそのようなことを聞いたこともありませんでした。その口振りから察するにあの世で菊弘殿と再会致しましたか?」

黒衣の男はにやりと笑った。
「…ところで、外結界は破られたようですが内結界は破らなくてもいいのですか?」

はっとした。
ラクスはすぐにリビングの窓をぶち破って外に出た。
しかし遅かった。

破って外に出たと思ったが、女の悲鳴が聞こえて、そして自分は柔らかい絨毯の上に転がり落ちたのだった。

「何しているの!?ラクス!」
叫んだのは、己のマスターである。


15

「あなたっ、他のマスターを殺しに行ったのでは…」
ずかずかとラクスに近寄り詰問する。
それに答えず、ラクスはさっと起き上がりシズヨを自分の背後へと押しやった。
それにさえ文句をつけるシズヨ。しかし、眼前に敵の姿を確認すると流石に押し黙った。

シズヨの自室には、黒い霧と共にセルと、先程対峙していた黒衣の男―中禅寺秋彦が立っていた。

「キャスターのサーヴァントね…またしくじったの貴方」
「お許しを我が主、内結界を破る前にその領域に侵入してしまいました。まさかキャスターがここまで魔力を取り戻しているとは…計算違いでございましたので」

ラクスの背後にいるシズヨは、今にも目の前の従者を殺さんと殺気立っていた。

「まだ間に合いますよラクスさん、僕の方に付きませんか」
中禅寺は手甲を締め直す。
「ふざけないで、貴方がどのサーヴァントのマスターかは分からないけどその様子じゃあの糞餓鬼どもは上手く丸め込まれたようね…。でも魔術師でも何でもない子供が束になってもわたくしには」
「そうは言いますが金指さん。貴女はどういう由縁で魔術師だと言い張るのですか?」
「…はあ?」
「本来、現代の魔術師というのは先祖代々のものかその派生のものを指します。いわゆる人とは違う力を持つ者は、超能力者や霊能力者と定義されるのですが、貴女は前者なのですか?僕らが調べる限り、貴女のお家は只の商家です。別段普通の商家、明治時代から続くれっきとした商家ではありますがそれに魔術の関係は一切見当たりません。なぜ、貴女は自分を<魔術師>であると言い張るのです?」

中禅寺の言葉に、気圧されてシズヨは黙り込む。
それにマスターを守るように答えるのはラクスだ。

「何故今それを尋ねるのでございましょうか?私めはバーサーカーのクラスとして、彼女のサーヴァントとして召喚されました、すなわちそれなりの魔力が備わっていたということでございましょう。そこに先祖の事は関係ないのでは?…我が主、ご自身を取り戻されてくださいませ。貴女の強みは、ご自分を過信しているところでございますよ」

皮肉を込めて言ったつもりだったが、背後のシズヨはその言葉で再起した。

「なるほど、バーサーカー。貴女はそもそも<分かっていない>のだな」
セルは腕組みをして、ふうとため息をついた。
「…何の事ですセル殿。私めはこうしてバーサーカーとして現界致しましたが狂化は抑えられているのですよ?何も理解不能なことはございません。私めは、英霊として」
「そこですよラクスさん。そもそも貴女たち人外は<聖杯戦争>の<サーヴァント>として機能するために現界したのではありません。<聖杯戦争>という自然の摂理に反したものを廃止させるために<聖杯>を壊すのが目的なのですよ」

「え?」

声はシズヨからだ。
ラクスは、しっかりと立ったまま顔を動かさない。
息さえしていない。
気配さえ、消えていくのではないかと感じるくらい静かに立っていた。

「やはり、分かっていなかったのですね。いや、記憶を消されたか、操作されたか。都合の良い駒として放り出されただけなのですよ、貴女は。貴女方は」
中禅寺は冷酷に告げた。
「狂化が及んでいない?そんなことはありません。貴女なら、いつもの貴女なら誰よりも早く黒幕の意思に気付き己の利益のために動くはず。それなのに貴女は今現在、明らかに劣等を選んでいる。強いられている。貴女なら、冷静な判断が出来る貴女なら一番始めにやることは己のマスターを抹殺し、自由になることでしょうに」

「はっ!」
ラクスは吐き捨てた。
「貴方の言う通りだ、だから私は菊弘を殺したじゃあないか」
「ですから、それではバーサーカーのサーヴァントとしてはちぐはぐなんですよ。結局のところ、黒幕に良いように使われているのです。黒幕は<聖杯>を壊そうとする菊弘が邪魔だったので貴女に殺させた。利用されていたのですよ」

シズヨは話についていけず、ただ黙っている。
中禅寺が話を続ける。

「貴女、ラクスを名乗っていますね。死神のラクスだと」

セルは中禅寺の背後で、もやもやと黒い霧を発生させ続けている。
部屋の家具や、輪郭がぼやけて訳の分からない空間へと変わってしまう。

「狂化のバーサーカーならば、貴女は。鬼でしょうに」

「お、おに…!?」
シズヨは己のサーヴァントを見た。
恭しく腰を折り、丁寧すぎる言葉を使う喪服に身を包む者。
長い睫毛と銀色の垂れ目からは気品さえ伺える。

「ふ、ふ、ふ」

しかしその口から漏れる含み笑いの声からは、地獄の灼熱さえ感じられるような、禍々しい雰囲気が溢れ出ていた。
ばきばきばき、という骨の折れる音が響く。
苦しそうにラクス、バーサーカーが体を折った。

途端、長髪を束ねていたリボンが燃え、跡形もなく消えた。
豪と青い炎が、体から燃え上がる。
シズヨはその場にへたり込んだ。

喪服が燃えて、新しくじわじわと白い着物が浮かび上がり、ラクスの頭蓋を割って生えた角は、真っ直ぐ天を差していた。

綺麗な指先からは獣のような爪が伸び、靴もいつの間にか裸足になっていて、その脚の生白い肌は地獄の炎に焼かれて変色していた。
ほんのりと、硫黄の香りが鼻孔を刺激する。

「私が、ただの駒と申すか人間」

声は凜と響いた。
声を発しただけで周囲の黒い霧は晴れ、代わりに地面からじわじわと真っ赤な人の手のような影が涌き出てきた。

むせかえるような気配に、中禅寺は着物の裾で口を覆った。
幻のはずの熱さに、目が焼けているような感覚に陥る。

「愚かな、人間よ。愚かな。私がただひとつの駒であるわけがない。私は菊弘殺したぞ。殺したのだ。それが謀(はかりごと)の一部だと言うのか」

「ちょ、ちょっと!バーサーカー!ラクス!何よ、何なのよこれは!」
シズヨはまとわりつく手の影を踏みつけながら、よろよろと己のサーヴァントにすがりついた。

「貴方、このような力があるのならなぜ今まで黙ぷびゅべ」
「嗚呼うるさい屑虫よのう…、目障りだわ小童」

羅刹天は、手を伸ばしてシズヨの頭部を潰した。

勢いよくその中身は飛び散った。
羅刹天の頬に肉片がこびりつく。長い舌でそれを舐めとり、手についた血もべろべろと貪る。

「カァッカッカッカ…!初めからこうすれば良かったのだなぁ。処女の血肉は全身が昂るわい、嗚呼心地好い、心地好い」

どろりと、濁った毒の目で中禅寺は見据えられる。
だが黒衣の男は、相変わらず親戚全員の葬式をはしごしたような顔で突っ立っている。

恐怖の感情など微塵も感じられない。

羅刹天は大きな身振りでその日本刀を抜いた。
そしてセル目掛けて投げる。

セルは防御壁も張らず、ただ後退しそれを避けた。
中禅寺からセルが離れたのを見計らって羅刹天は一気に距離を詰める。

「思えばおかしなものよの、あの男女…金指家の両親は魂が存在しなかった。なるほどな、そのような世界なのか。作られた、偽りの世界…。くだらぬ、ほとほとくだらぬ。何も面白くないな。なあ人間の男よ、お主もそう思っておるからそのような顔をしておるのだろう?」

ゆるゆると、首に手が回される。
「いいや、最初から仕事で来ているので面白いも糞も無いさ。私はお前が哀れで仕方ないのだよ。未だに自由に固執し、だから自由になれない。哀れな神様だねお前は」

「かか、私を憐れむとは甚だ可笑しい。自由を求めている?私が?馬鹿な」
「支配されて初めて己が安定するお前など、哀れで仕方ないさね。羅刹天、今お前が対峙しているのは中禅寺秋彦ではないぞ」

中禅寺の、黒衣の男の足元にぼんやりと白い光が溢れ出す。
それは、契約の魔方陣。

「まさか、呼び戻したのは…!?」
「菊弘の名において羅刹天、お前を我が配下とする。人外契約の決まりにおいて、この契約は成り立つ。羅刹天、答えを」

がっくりと膝をつき、羅刹天は大きなため息をついた。

「嗚呼、私は貴女には勝てない…口惜しや…口惜しや…」

契約に応じたものとして、羅刹天は今までの契約違反のペナルティのために姿を消した。
行く先は、音も光も時間もない、ただの真っ暗闇の中だ。
そこで己が今まで犯した罪を振り返らなければいけない。
彼女にとって、最大の苦痛である。



16

「もう終わった?うまくいったね!」
物陰からひょっこりと、ネモが姿を現す。
「これであとはセイバー陣営だけになったな」
セルは体の周りに空気と時空をねじ曲げて作った盾を何枚も漂わせながら、菊弘の隣に並んだ。
「我らのマスターも消滅しているのだろう。もはや世界の均衡が崩れ出している。奴さん、私たちが優勢だと気付いてやけを起こしているな?」
「そうらしい。ほら、ご登場だ」

セルの視線の先には、時空の歪みが発生し三人の人影が現れた。
「ほーらだから言ったじゃないか、ラクスはただの時間稼ぎにしかならないって。ボクの作戦通り最初から菊弘のみを狙えば良かったのに」
「楽しみのひとつもあった方が面白いじゃないか!バカかインク、それに時間稼ぎも大事だったさ。ねえ藤のプリンセス」

夢魔サキュバスと夢魔インキュバス。
黒いドレスと黒いタキシードに身を包む二人に囲われているのは。藤(ふじ)のプリンセスと呼ばれる女。
真っ赤な夕焼けのような色に薄いベールの掛かったミニスカート。学校の制服のようなシャツには、緑のネクタイ。肘まで覆ってある白い手袋は高価なものだろう。
肩に軽く引っ掻けているカーディガンは、二人の悪魔の妖気に漂って揺らめいている。

「作戦も糞も無いわ。あなたたちが本当に使えないから今回もあたしの負けなのよ。あの人にあたしやあんたたちが黒幕だってバレた時点で私たちの負けよ」

「幻影の魔女、ウィステリア」

菊弘は、その魔女の名前を呼んだ。


幻影の魔女は、作り出された創作の魔女であり実在する人間が成った魔女だ。その力はその名の通り、幻を作り出すこと。
しかしその魔力に囚われた者はそれを幻であると見破ることは無い。
それを可能にしてしまうのが、一人の人間に複数の魂を持つ菊弘であり、彼女の天敵なのだ。
ウィステリアは自分の作り出した幻影の中で自由に過ごしたい。
しかしその幻影は、まれに人類史に悪影響を及ぼすので、菊弘はそれを防ぐために幾度もウィステリアと戦ってきた。

「やっぱりお前だったかサキュバリエス」
「え?あれ?そっちが菊弘?え?ってことはそっちの明らかな菊弘は誰なの?」

サキューは首をかしげた。
菊弘の隣に、ネモが並ぶ。
「僕は自分を名乗れないんだけど…うーんと、じゃあクラスで例えとこう!サイキッカー!菊弘の配下の一人だよ〜」
「そっちがラクスに魂を斬らせたんだろうが。だから仕方無くこの体に私の魂を入れたんだ」
「こっわ!顔こっわ!!誰それ!いつもの何百倍も凶悪じゃん!」

サキューはげらげらと腹を抱えて笑う。
それを冷ややかに見つめるウィステリア。
「ねーえサキュバリエス?ボク閃いちゃったんだけどさー。今菊弘は男性の体なんだよね?じゃあ君の力も通じるんじゃないか?ボクが魔人とサイキッカーを抑えとくからさ、君と藤のプリンセスで菊弘やっつけちゃいなよ」

インクブスはセルの背後を取って頭をコツンと小突いた。
抵抗する間もなく、セルは糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ込んだ。
眠っている。
「イツカ!逃げろ!」
菊弘は叫んだ。しかし既にそこには、地面に伏して眠り込むネモの姿があった。

「つーかまえた」
サキューは、菊弘の目を両手で塞いだ。



菊弘の辺りは、真っ暗になる。
遠くの方で賑やかな音楽が流れている。

ふらふらとそちらへ歩いていく。

微かな光が、重たいカーテンの向こうから差し込んでいる。
菊弘はそろりとカーテンを開けた。

音楽がぴたっと止んで、代わりに目が潰れんばかりの光が菊弘を照らした。
手で顔に影を作りながら辺りを見回す。
そこは見世物小屋だった。観客が座るはずの座席には人っこ一人居ない。座席に挟まれた通路を行くと、眩しい光…スポットライトが菊弘を追う。
がたん!と大きな音がして、目の前のステージのライトが点いた。
そこには、猛獣用の檻が置いてあった。
目を凝らしてよく見てみると、中に子供が入っている。

「おい!」
菊弘はステージに駆け上がり、檻にしがみついて中を見る。
隅っこの方で裸の子供が震えている。
「こっちだ!今出してあげるからね!」
菊弘が声を掛けながら、檻の鍵を壊す。
子供は、怯えたようにこちらを見ている。色素の薄い子だ。髪の毛は生えていない。病気なのだろうか。
でも菊弘はそんなことは気にしない。早くこの子を助けないといけない。必死だった。
檻の鍵を素手で殴って血だらけになっても、自分は回復する術があるのだから気にしなかった。

鍵が壊れて落ちると、子供がびっくりした顔をしてこちらに近づいてきた。
菊弘は怖がらせないように笑う。すると、子供も笑ってくれた。
檻のドアを開けて子供の手を引いてそこから出す。

子供は、菊弘を通り抜けて背後に居る人物に抱きついた。
菊弘は振り返る。
スポットライトの逆光で、子供を抱きかかえる人物が誰なのかは分からない。だけど二人は楽しそうに笑っている。
「さあ行こうか菊弘」

その声で誰だか分かってしまった。
「大佐!堂島大佐!」

菊弘はここです、そう叫ぶ前に檻の中に引き込まれてしまい、子供を抱きかかえた人物は、檻の鍵を閉めて行ってしまった。
もがく。暴れる。
しかし自分の着物の裾を何かがしっかりと掴んでいる。

「大佐!大佐!置いていかないで大佐!」
「なんでひとりだけいってしまうの」

ぞくりとした。
その声は、記憶の隅に残っている声だ。誰だったか、それは覚えていない。でも、あの時の誰かだ。
着物の裾を掴んでいる生白い手は、爪がぼろぼろになっていてひどく痩せ細っていた。

「なんできみだけ」「なんできみだけ」「なんできみだけ」

わらわらと、子供たちが菊弘を追い詰める。
「ちがう、私は、選ばれたんだ…!私のせいじゃない、私のせいじゃ」

遠くで、子供の笑い声と堂島の優しそうに語る声が聞こえた。


17

「我輩たちは<しんゆう>なのだ。友人。<ぞうお>を繋いだ<しんゆう>

しんゆう。
心を有すると書く。その名の通り心臓を有している。親友ではない。
ぞうお。
臓が一緒になる。憎悪ではない。

わたしと彼は、互いに魔界で死闘を繰り広げた。
やがて決着のつかないことを察し、二人の間に同盟を結ぶことにしたのだ。
二人の心臓を交換して所有することで、互いの能力を少しだけ引き出すことが出来る。
どちらかがピンチの時は絶対に助けないといけないというわけだ。

私は彼に、絶対的な怪力を貸し与えた。
彼は私に、柔軟で突発な思考力を貸し与えた。

「ねえ、じゃあネウロの心臓を突くとセルさんが死んでしまうの?」
そうだろうな。
生き物の死を定義するのが、脳や体の生命反応の停止だとするのなら、私は死んでしまうのだろう。
だからそれをさせないために、お互い必死で死ぬまい、殺すまいとするのだ。

「自殺とは人間に見られる特有の行動だ。そういえば貴様は魔界にやって来たのは<自殺>だと称していたが、あれは己が人間だからそう抜かしたのか?」

そうだったろうか。確かに自殺したとは話したかもしれない。
しかし私は生前から人間ではなかった。化け物だった。
およそ人間には到底出来ないことを姉と一緒にやってのけた。

顔も形もうりふたつの姉は、元気で丈夫な体を持っていた。
私は病気しがちで、いつも寝ていた。
姉はどこにへでも行けた。私は歩いたこともない。
姉は明るく美しい。私は暗く輝かない。
姉はそのアイドル性を生かして政治をした。
私はそれのサポートをした。
姉が雨を降らそうと舞うのなら、私がそれを叶えた。
姉が隣国と戦争をしようと奮起するのなら、私がそれを叶えた。

しかし姉はそれに飽きた。私はそれを叶える術がなかった。
身代わりになどなれない。姉と私は似ているけれど全く違う生き物なのだ。
ある日、姉は自分の好いた男と共謀して私の両足を切り落とした。

逃げれないのに。歩いたことなどないのに。
痛みに這い回っていると灯台が倒れた。油が私に掛かる。そして火が付く。
私は声も出なかった。いつもテレパシーで姉と会話していたので問題はなかった。
だが、私の声が聞こえるはずの姉はどこかへ行ってしまった。
そして国が滅んだ。

「では我輩が自殺するのなら、貴様は二度目の死を迎えるというわけだ」
ネウロはソファで寝転んでいる。
その上には助手である弥子が乗っている。手には包丁が握られていた。
何の冗談なのだろう。わたしが呆れて笑っていると、その包丁は彼の胸へと降り下ろされた。
冷たい異物が熱い臓物に触れる感触に、わたしは膝を付く。
動くことが出来ない。ぜえぜえと息が上がる。

「何をしている馬鹿め。それでは刺さっただけではないか」
弥子とネウロは楽しげに笑い合っている。
ネウロが包丁の束を持って、せーのという弥子の声掛けとともに一度抜かれた包丁が再び心臓に突き刺さる。
激痛。
楽しそうな掛け声。
激痛。

悲しくて涙するはずのない魔人は、咽び泣くことしか出来ない。


18

檻の中で怯えていると、急にスポットライトが消えて暗闇が辺りを支配した。
「愚かだね、自己を自己と認められないだけで不安になるのか君は」

声はどこまでも通った。
安心する落ち着いた声だ。何度もこの人の話を聞いた。
静かで、だけど厳しくて、全部正しく聞こえる。確かに正しい。正しいし理論的だ。
菊弘は声のする方に走った。
どん、とぶつかって尻餅をついてしまう。
かすかな、古い紙と線香の匂い。菊弘はその人にしがみついた。

「当の昔に結果の出たことをいつまでもうじうじ悩んでいるようじゃ、君も立派なうつ病患者だ。情けないね。さっぱりとした人間だと思っていたが見当違いだったようだ。それでも似た道を歩んできた者かね」
「…は?」

菊弘は、少し口角を上げて言う。

「僕は君にはがっかりした。裏切り者の女狐は、精神不安定なただの女だった。君に期待した僕が馬鹿だったよ」

中禅寺は、菊弘の手を払う。
「…え、あの」
払われた手は宙をさ迷う。よろよろと立ち上がり、中禅寺と対峙する。
あまり変わらない背格好。顔色は死人のようだ。

「…それは、中禅寺さんのつもりか?」
「…………なにを」
「私を叱るつもりか?なにも知らないくせに?説教するつもりか?同じ道?似た道?何もかすっちゃいない、全部間違っている。なんだ?誰のつもりだ?お前は誰のつもりだ?私の良心か?それで?その程度で?中身の無い話を?よく出来るな?恥ずかしげもなく、その人をやれるな?馬鹿じゃないのか?なあ?」

菊弘の髪が、ざわざわと逆立っていた。
目の前にいた男は、もはや形を保っていない。

気配そのものは、中禅寺ではない。
幻影の魔女、ウィステリアだ。

「小娘、私の大切な人を演じたいのなら、一度会ってくるがいい。それで嫌味たらしくぐだぐだと無象の話を聞かされてこい。正論でだらだらと有象の話を聞かされてこい!ど素人め!」

菊弘が己の魔力で思いっきりすべてを吹き飛ばした。

空間は壊れ、セルと菊弘は目を醒ました。


もう少しだけ、続く


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