シンベエの場合


目を覚ました少女は、大きな大きなベッドの上でただ座り込むしかなかった。
ぼーっと真っ白いシーツを見つめる。
「おはようございます、まいしすたー」
静かで、低い声が扉を開けて入ってきた。まず、その背の高さに驚く。そして金色の髪、浅黒く健康的に焼けた肌。異形の耳、異形の目。少女は布団を握りしめる。
「…こわいものではないですよー!だいじょぶです、わたし何も怖いこと、しませんね?」
にこにこと、男は笑いながら優しげに話しかけてくる。手にはピンク色のマグカップを持っていた。うさぎが月で餅つきをしているイラストが書かれている。
それを少女に手渡す。ミルクですよ、と男は言う。
おそるおそる少女はそれを受け取り、まず香りを嗅いだ。それは知っている香りだった。温めた牛乳。しかし、味はどうだろうか。知らない男に、手渡されたそれを警戒する。
「アー…ちょと貸してね」
男はそれを察したのか、少女のマグカップを取ってコクリと一口飲んだ。
「ほら、だいじょぶですよ!普通のホットミルクですね?」
「………」
少女は少し眉をひそめる、そして再びマグカップを受け取った。だが、そのマグカップの暖かさを両手で堪能するだけで、口をつけることはない。
さむい?と男は首を傾げて、ベッドサイドの電源をいじる。みん、みん、みん、と不思議な音が鳴って、少女のベッドがぬくぬくと温まりだす。
「質問をしてもいいですか?」
男は微笑みを崩さない。少女はしばらく考えるように目線を巡らせてから、頷いた。男が嬉しそうに破顔する。しかし、眉はしかめたままだ。困っている顔に見える。
「自分のお名前は、わかりますか?」
「……じはん、中村慈半です」
「お父さんとお母さんは?」
男の質問に、慈半はきょとんとした。
「父親と母親、っちゅーのがどんなもんかはわかる、ます…分かります」
「わたしにはフランクに接してくれてだいじょぶですよ!わたし、日本語へたくそなので…」
「ええと…その、ワシには父と母はおらん」
「いない?それはどうして?」
男は慈半に薄桃色のカーディガンを渡した。慈半は受け取りながら話す。
「死んだ」
「……………そう、でしたか」
男は黙り込んだ。何かを考えているようだった。次は慈半が質問をしてきた。
「…あんた名前は」
「わたしですか?わたしはシンベエと言います!あなたの、オニイチャですよ〜!」
にぱにぱと、ここ一番の笑顔で答えた。とても嬉しいらしい。目尻のシワがくしゃくしゃだ。
「…………おにい、ちゃ?おにいちゃん?」
「ええ、そうです!」
「……兄貴なんか、ワシに居なかったばってん…あんたとワシじゃ似とらんし」
「血はつながってませんよ〜」
「え?ほんなら何?どういう関係で兄妹なん?」
「説明します、歩きながら話しませんか?」


そこは暗闇だった。長い廊下、高い天井。外の景色を見るための大きな大きなガラス窓。窓というよりガラスで出来た壁だった。宇宙に広がる永遠の暗闇が、そこすべてを支配している。薄暗い灰色の地面、遠くに見えるクレーター。
ここは月である。
慈半はすんなりとそれを見ただけで受け入れた。
かかとのない平べったい靴を履いて、シンベエと並んで歩くとその体格差に驚く。
こんなにも、彼との差は大きかっただろうか?
そんな疑問が生まれて、すぐに消えた。
「あなたには、師匠がいましたね?師匠、わかりますか?」
「おん、ワシの人生の師匠と言っても過言じゃねえ人だな。それが?」
「師匠、ほんとうはサムと言います。わたしの父親です、あなたはサムの弟子。ね?」
うん、と慈半は頷く。
「わたしも、父親は師匠です。弟子ですね?あなたもサムの弟子、わたしが先に弟子になりましたね?あなたは、妹弟子です。わたし、兄弟子」
交互に自分と慈半を指差しながら、シンベエは楽しそうに説明をする。
「…ワシが妹弟子であんたが兄弟子やけん、お兄ちゃん?」
「そうです!わたし、じはんのオニイチャです!!」
がし、と慈半の手を握って、ぶんぶんと握手する。
慈半は不可解だというように顔を歪めて、その手を払った。
すたすたと廊下の先を目指す。
「あっ待ってください、じはん!お腹は空きませんか?」
慌ててシンベエは後ろをついてくる。
「…空いとらん」
「何か食べたいものは?」
「……うーん、特に無えなぁ」
「好きな食べ物、嫌いなもの…ありますか?」
「思いつかねえ」
慈半は、淡々と質問に答えながらガラスの壁を手でなぞっていく。指紋がついて、少しだけそこが汚れた。
「………じはん、たくさん寝ていましたね?オニイチャと、運動しませんか?」
シンベエは、慈半の前にさっと立ち憚ると、にっと意地悪そうに笑った。
「…オメーとじゃ体格差がありすぎんだろ。一方的に不利なのは好かん」
「ふふふ、そうやって逃げているんですね?負けるのが怖いので」
慈半はシンベエの腹に思いっきり頭突きした。飛び上がらないといけなかったが、油断んしていたシンベエには大ダメージだったらしい。
「っ、そ、そうやって…体の小ささを利用するのも、手ですよね…!いいと思います…!」
「ばってん今の体じゃ、力負けすっでの。運動っつってもオメーのことだからどうせ戦闘訓練じゃろ?ほなやらん」
くるり、と踵を返す慈半。シンベエは慌てて隣に並ぶ。
「では基礎訓練に戻ります?体作りからにしましょうか!」
何をするにも、嬉しそうである。


貝たちの持つ肉を使って形を作った。調子はいい、今のところ馴染んでいる。
ただ、元の大きさ(彼女の言う体格はおそらく全盛期のものを指す)に戻るためには貝たちと同じように栄養のある食物を食べなくてはいけない。月のものが提供する貝たちの餌を与えるわけにはいかないので、まず彼女が何を食べたがるのかを探った。
しかし、腹を空かせて文句を言うこともなく、あれが食べたいこれが食べたいなどのことも言わない。食欲が存在していないらしい。少し問題だ。
では、何をエネルギーにしているのかというと、トレーニングと称してあれこれと身体検査を受けさせたところ、彼女の半径二メートルの酸素と窒素は、とても薄くなっていた。この研究所…自宅には彼女用に地球と同じ環境下にあるように作られている。
酸素と窒素を吸収し、それをエネルギーにしているらしい。しかし、呼吸はするものの二酸化炭素の排出は確認されていない。
口から吸い、肌から吸っているが、吐くのは呼吸の真似をしているだけだ。
排出はしていない。もちろん尿も便もそうだ。お手洗いに行こうという気持ちもない。
しかし、風呂には入りたがる。広い風呂を喜んでいた。これは彼女の性質で間違いない。運動をすると汗をかくようだが、体の冷却を目的とするわけではないようで、運動するから汗をかく、という彼女の意識からそれが出ていると思われる。成分は汗となんら変わらない。涙も出る。泣いたろころはまだ見ていない。
地球時間3日で、彼女は『元の大きさ』に戻れた。健康状態に異常無し。
488664007857回目で、初めてのフェーズ2に移行。現在【シンベエ】との関係も、当時とほぼ変わらぬ状態を保っている。
ここでいう当時の、というのは彼女が■■■に入隊している世界線ではなく、■■■に入隊し【シンベエ】との再会を早期に済ませ、なおかつ【シンベエ】の寿命を引き伸ばすことに成功したいわゆる〈シン慈ルート〉を指す。
が、まだ性的接触は無し。フェーズ2にて行う予定。しかし、今後の展開を考えると〈シン慈ルート〉をなぞるのではなく、通常通りのルートをなぞって【シンベエ】との別れとフェーズ3で迎える必要性があると考える。
性的接触後の、彼女の反応や変化を考慮して予定変更もあり得る。

記録終わり。

今日の訓練が終わり、そして慈半の大好きな入浴タイムになった。
新しい着替えとバスタオルを持って、足取りは軽い。
黒一色の服を好む彼女は、白い壁で囲まれて、白い家具だらけのこの家では一番目立った。あの濡烏の髪も、美しさが際立つ。
汗の滴るその一つ結びを、わたしは思わず触りたくなって辞めた。そんなことしてはいけない。
「だいぶ全盛期ですね」
言葉としては意味不明なことだが、慈半には男の言葉の意味が伝わったようだった。
「おう、これでもう劣らんわ。お前とも五分五分じゃろ」
「ふふふ、それはどうでしょう?じはんはいつも、わたしに接近されて次の手を迷うと頭突きする癖が抜けませんから?あれじゃあだめですね」
「ばってん、効いとるやん」
「…次はもうかわせます」
少しむくれて言えば、けらけらと笑う。
慈半は、きれいに可愛く笑う。
それに関して違和を覚えながら、こちらから中止することは不可能なのでどこかでうまく軌道修正をしなくてはならないと、わたしは考えを巡らせた。
…【シンベエ】を失えばきっとこの笑顔も消えるだろう。

それでいい。

「あれ?一緒に入らん?」
シンベエが立ち去ろうとしたので、慈半は不思議そうに言った。
「まったく…じはんはそれだからいけませんね」
シンベエは偉そうに説教を垂れる。
「わたしは男、あなたは十六歳の女の子ですよ?」
「つい昨日まで何も気にせんだった奴がなんばいいよっとか…。まぁ、入らねえなら別にいいけどよ」
慈半はそのままぴしゃりと戸を閉めた。
シンベエは自室に戻る。
そして、大きく深呼吸をした。
─よし、今夜だ。今夜で行こう。
【シンベエ】は慈半の処女を奪っている。

正しくはそうではない。だが、とある世界線の【シンベエ】が過去の改変をうまく行ったので、大抵の慈半は【シンベエ】に処女を奪われたことになっている。
これが本当にうまいことパラドクスのことを考えて改変されており、今の今まで問題になっていない。
慈半の処女喪失。それが【シンベエ】と最初で最後の性交。
─大丈夫。やり方は分かっている。
わたしはラプラスの悪魔…すべての事象を観測し把握する。だから性行為だって分かっている。やったことがないだけで。
─駄目だ。出来ない。
なるほどこれが童貞というものか。わたしはがっくりと肩を落とす。やけに人間臭くなってしまったものだ。これもおそらく、わたしが彼女の魂をすべて取り込んだ影響なのだろう。
─どうしよう。
【シンベエ】の顔で、ううんと悩む。しかし、彼女の記憶から引っ張り出してきた【シンベエ】はなんら恐れもせずにわたしに無責任なことを囁いてくる。
縛って無理矢理がいいと言ってくる。そ、そんなひどいことが出来ようか!
わたしの彼女は、我が永遠なるつがい。彼女を敬い尊敬し、そして愛する姿勢はあなたがたと同じのはずだ。
【シンベエ】は笑った。
だからこそ、壊したくなるものなのだ、と。恐ろしい。嗚呼、ヒトとは恐ろしい。
【シンベエ】は訂正する。およそ自分たちはヒトとは程遠い。人工的に作られた戦争兵器だ。だから、普通の男として接する彼女が愛おしく、そして壊したくなる。乱暴に扱って、どうなるか反応が見たくなる。彼女はどんなに乱暴に壊しても、すぐに胸元に戻ってくる。それがいい。何度も何度も見たくなる。
【シンベエ】はうっとりとしながら解説をしてくれた。わたしは正直、血の気が引いた。
─出来ない。
そう言ってうなだれれば、【シンベエ】は堂々と言った。
『わたしがやりますよ』

彼女の夜這いは、【シンベエ】に主導権を渡しての実行になった。


ベッドに入って、すやすやと寝息を立てる慈半。
その隣にシンベエが滑り込んできても、慈半は嫌がらない。優しく撫でる大きなてのひらに、頬ずりさえする。いつも憎まれ口を叩き、そして素っ気ないが、愛情は確かにあるのだ。血の繋がらない兄に対して。家族を失い、師匠を失い、そして再び自分を導き支えてくれる存在に対して。
「まいしすたー?」
耳元で、低く囁く。
「ん、んん…?」
寝返りを打って、シンベエの方に慈半は体を向き直した。ひどく顔が近くても、気にしない。
「キスしても、いいですか?」
シンベエは、微笑みながら言う。
「んなもんいつもしとるやん」
勝手にしろよ、と慈半は再び寝返りを打った。シンベエは慈半の背中を抱きながら、そっと頬に口づけを落とす。
「……ん、おやすみ」
慈半はそれを合図にした。いつものことなのだ、挨拶代わりの頬へのキス。
しかし、シンベエはそのまま耳の付け根にも口づけを落とす。ちゅ、としっかり大きな唇でついばむ。前髪をかきあげて、慈半の耳にかけるとその生え際にも同じように口づけをした。額にも。そして、背後から強く抱きしめる。
「ん、なに…?」
「勝手にしろ、と言いましたから?」
薄っすらと目を開ける慈半の、その目元に。慈半はそこでびくりと体を震わせた。シンベエの大きな手が、自分の寝巻きの裾から肌を触り始めたからだ。
えっ、と声をあげて目を見開く。慌てて上体を起こせば、ほんの少しだけシンベエが離れたがまた抱き寄せられてしまう。強い力だ。
「あっ、や…!あ、兄貴…ッ」
「ん?」
「何す……んっ」
振り向いたところで、顎を掴んで無理矢理唇を奪う。ぎく、と慈半は後退しようとした。しかし力が強い。かなわない。慈半はシンベエにはかなわない。
何か喚く前に、シンベエは素早く慈半の服を脱がせてしまった。ワンピースの寝巻きは、いとも簡単に裸体を晒させる。きゃあだとか、やめろだとか慈半は文句を言っているが、その体はシンベエよりも小さく、そしてか弱い。
彼女は全盛期のつもりだが、実際はその半分以下なのだ。体だって、あの屈強な女戦士ではない。ただの細腕の、女なのだ。下着に手を掛けたところで、慈半が目にいっぱい涙を溜め始めた。それが流れ落ちるのが見たくて、シンベエはわざとらしく乱暴に下着を引きちぎる。
「ぅあっ!?や、やだ…!やだやだやだやだ!!」
じたばたと暴れても、組み敷かれる。がぶりと首筋に噛みつかれて、慈半は快楽につま先を伸ばした。乳房を揉みしだき、乳首を指で弄ぶ。
「はぁう…っ、あ…ぁ……んっ…」
「じはん………じはん…」
ああ、やはり彼女は快楽に堕ちやすい。体を大きな手のひらで、いとおしげに撫でるだけで女の肉が濡れて、迎え入れる準備をしていた。そこにそっと、指を這わせる。怖いのか、男にしがみつく腕に力が込められた。
「ふふ、だいじょうぶですよ?怖くない、怖くない…」
「や、だ…こわい…!いたい…!」
ぼろぼろと泣いている彼女の涙を、シンベエは舐め取る。そのまま舌が頬を滑り落ちて、深い口づけになった。怖さを紛らすために、慈半は必死に男の舌を絡ませた。
「痛いことは、しませんからね…?」
こすこすと、優しく入り口を中指でいじくりまわす。肉芽への愛撫も忘れない。びくん、びくんと慈半の膝が揺れた。脱力し、一層股を開く。体の準備は終わった。
「あ、ぁ…や、やぁ…!」
「だめ?じはんのここ、触りたい…」
口づけをする。優しい口づけを。すると慈半は、拒絶の言葉を吐かなくなった。シンベエは優しく笑いながら、そうして彼女の初めてを奪った。男の無骨な指が、彼女の膣内を突き進んでいく。
「ぁ、っく…きゅ、ぅ…んっ」
「ははははは、いいですねじはん。かわいい。子犬ちゃんみたいです」
いいところを男の指が撫でると、喘ぎ声を我慢する慈半。ん、と真一文字に閉じた口の隙間から、漏れ出す声はまるで子犬の甘えた声だった。脳髄が溶かされる。その声を聞くだけで。
「さ、本番をしましょうね?もっと、気持ちよくさせたいから…。もう、だめは無しですよ?だめ、と言ったらお仕置きです。痛いこと、します」
慈半はそれを聞いて、とろけた瞳のまま首を振った。
「ああ、良い子だGood Girl 。かわいいですね…」
男は慈半の頭を撫でながら、自身の凶暴な肉杭をそこにあてがう。慈半の体がこわばった。だが、入り口を広げてそして中に納まるまでには、すでに弛緩して快楽にほどけていた。まるで何度も経験したかのように、処女であるはずの彼女はそれに溺れた。

「ッ、あいしていますよ…!じはん…あいして、います…!」

肉同士がぶつかって、声も聞こえない。汗が飛び散って、どれが涙だか愛汁だか分からない。

「わたしのすべて、わたしのいとしい子……はっ、あ…!じはん…。じはんじはんじはん…!」

シンベエが何度も何度も愛を吐き出す。今まで出せなかった愛を吐き出す。
隠し持っていた愛を漏らす。止まらない。悲しくなった。嗚呼、生前これが出来ていたなら。どんなに幸せだっただろう。涙の代わりに、愛の言葉が溢れた。

「愛しています、永遠に…!あなたの、ことを…ッ」

自分が愛を教えてあげられたのなら、どんなによかっただろう。
だが、彼女に愛と感情を教えたのは、別の男だ。そして、今も。彼女を最終的に手に入れるのは別の男だ。自分はもうすぐ、死んでしまう。消失してしまう。再び、慈半の中に大きく残るきず として。そうやって残るだけで、あとは消えてしまう。

「永遠に……永遠に、あいしていますよ…わたしのじはん…」

吐精して、そして何度も果てた慈半に囁く。くちづけを落としながら。
慈半は、息も絶え絶えに答えた。

「ワシも……ワシも愛してる、シンベエ。…ワシの兄貴……」


フェーズ2は成功。今後の反応を見る。このあとの関係の悪化は有りえないと【シンベエ】は話すので、それを信じてみようと思う。あと数回は、性的接触を持ったほうが彼女の【シンベエ】に対する感情も高まるのではないだろうか?それを提案したところ、【シンベエ】に否定される。
わたしが求める彼女は〈シン慈ルート〉の慈半ではない。ならば、【シンベエ】との接触は最低限がいいだろうとのことだった。言われて、わたしもそのとおりだと納得した。
どうしたというのだろう。
【シンベエ】に同情しているのだろうか。同調しているのだろうか。
彼女ともっと一緒にいたい、彼女をもっと愛したいという気持ちが溢れて、とまらない。【シンベエ】をもっと、彼女と一緒に過ごさせてやりたいと、思ってしまう。

…少し心配事がある。
あの時、【シンベエ】を失った慈半は感情が乏しかった。
そしてその時には、彼女には愛する人が既に居た。今はどうだ?わたしは■■■■■の再構築は行っていない。必要かもしれないが、なぜか避けていた。
おそらくこれは、嫉妬である。
彼女のなかで、絶対の信仰であり、愛であり、憧れである彼を。
彼を再構築して彼女と並ばせてしまったら、わたしは必要ないからだ。わたしを求めることはないからだ。
それは、悲しいと思った。
【シンベエ】は再び主導権を欲した。別れも、自分がやりたいと言う。
わたしは素直にそれを受け入れた。

わたしに、彼女に別れを突きつけることは不可能だったからだ。
出来ない。わたしは、彼女を悲しませたくない。
だが、【シンベエ】との別れは、彼女をきちんと作り上げるためには必要なのだ。

寝起きの慈半に、口づけの雨を降らせて起こす。
「…んんん〜!うがあ!!」
鬱陶しい、と慈半はシンベエの顔をぶん殴った。ひょい、とかわすシンベエ。

三日間。普通の日々が過ぎた。
あの日の夜がなかったみたいに、ふたりは今までどおり過ごした。
慈半はシンベエと密着することを避けていたが、シンベエは変わらずハグやキスをして、それを鬱陶しがる慈半を見て楽しんでいた。
ふと、トレーニングが終わったあとの休憩時間に、シンベエは切り出した。
「突然ですが、明日しにます」
「………………ん?」
「明日、わたしはしんでしまいます」
あまりに突然のことで、慈半は理解しきれないようだった。
「明日しぬんですよ、わたし。寿命です。あなたの師匠と同じように、短命なので」
あっさりと、そして変わらぬ笑顔で言う。慈半は対象的に、どんどん顔を怒りに歪めていった。
「クソほど笑えん冗談じゃ、そんならワシが今ここで殺してやろうか。ファッキンブラザー」
「ああ!それはいい考えですね?そんな最期も、きっとすてきです」
その言葉を聞いて、慈半はシンベエの頬を叩いた。ふーっ、ふーっ、と荒く息をしている。
「ふざくんなぞ!!冗談でもそぎゃんこと、言うなッ!」
「は、ははは…冗談でそんなこと、いいませんよ」
苦笑するシンベエの、腹に思いっきり慈半は正拳突きした。しかし、それは止められてしまう。強い力で手首を捻り上げられて、慈半は抵抗した。脛を蹴るが、自分が痛いだけだった。空いている手で、もう一度シンベエに殴りかかった。だが、それも手首を掴まれておしまいだ。
「離せ!離せチクショウ!死ぬなんて言うな!!言うなよッ!クソ!クソ!!」
子供が駄々をこねるみたいに、慈半はその場で暴れた。
シンベエは、困った形の眉をもっと下げて、そして静かに言う。
「そんなこと言われても……」
「いやだ!もう、いやだ………もう、いや………あんなの、一回でいい……。一回でも、いやなのに……」

ぐずぐずと、胸の中で泣き出す慈半。
シンベエは察して、心が苦しくなった。
「ごめんねじはん、だめなんです。もう一度、うしなってください」
「いやだ………いやだ、兄貴。いやだ…!」
慈半はいやだを繰り返す。子供のように、言い続ける。絶対に覆らないことを、ただのわがままだけで突き通そうとする。そのうち泣きわめき出した。そうしてみると、本当に子供のようだった。
感情を失っていない彼女は、今ではこうやってむき出しの悲しみを吐き出せる。これが本当の、彼女の姿なのだ。

あの時、悲しめなかった分。
あの時、泣きわめくことが出来なかった分。
あの時、本人にぶつけられなかった思いを、延々と吐き出した。

「ひとりに、しないで」
シンベエは、しがみつく慈半を抱き上げベッドに座った。慈半はシンベエの首に抱きついたまま、絶対に離れない。
彼女がいつもよりも幼い見た目を選んだのは、こうやって兄に素直に甘えるためなのかもしれなかった。
「今、いっしょにいますよ?」
泣き続ける慈半の背中を撫でる。
「だめ、ずっと…ずっと一緒にいて…」
「…こまったなぁ」
泣きそうになって、シンベエはぐっと堪えた。ここで自分が泣いてしまえば、慈半はもっと苦しむだろう。死にたくない。もうあなたと離れたくない。折角出会えたのに。だが、自分はただの記憶の再構築だ。永遠に存在するには、あるじがそれを許さなければならない。あるじはそれをしたいらしい。したかった。

わたしはシンベエも、他の人も、慈半の愛した人は全員、彼女のために………。

だが、それは不可能なのだ。
ラプラスの悪魔は、あまりに無力過ぎる。ヒトが存在しないここで、この悪魔は魔力を何から吸収しているかというと、宇宙空間に存在する曖昧なエネルギーをかき集めて取り込んでいる。それでなんとか魔力を構築してしのいでいるのだ。
月人や、貝たちから何かを得ようにも、そもそも彼らと自分は質が違う。うまく、魔力に変換出来ない。
それを含めて、自分に近い彼女を生み出すことで魔力値の安定をはかるのが目的でもあった。彼女に会いたい、その一心でやっていることだが、彼女が自分から離れて確立することで得られるメリットも多かったのだ。

「…ああ、ひとりにはなりませんよ?じはん」
シンベエは泣き疲れてぐったりとしている慈半を抱え直して、そして頬を手の甲で撫でた。
「………なんで」
枯れた声で、慈半はぼそりと呟く。
「だいじょうぶ、オニイチャまだ居ます。あなたのオニイチャ、わたし以外に」
シンベエはにこにこと言う。慈半は不可解だと顔をしかめた。
「ちぃ兄ちゃんにあなたの面倒をみてくれるよう、頼みますね!」
「…え?え、えっ…?ちょ、まって……?ちぃ、にいちゃん…?はあ?」
「わたしが、だい兄ちゃん」
「………あ?」
「わたしの、えーっと………弟?だから、そっちは小さいオニイチャなので、ちぃ兄ちゃんですね」
「え、ごめん何言ってるかマジで分かんねえ」
「とにかくオニイチャ、もうっひとり居ますから。ひとりじゃないですよ?」
「いや、だから…そういうことじゃ、なくて…」
─お前が、いなくなるのが…。
そこまで言って、慈半は口を閉じた。静かに、ほろほろと涙を流す。
それを手で拭って、シンベエはそのままベッドに寝転んだ。慈半を抱き込んで、そのままぎゅうっと強く抱きしめた。慈半は、されるがままに胸の中で泣いていた。


慈半が目覚める。
ベッドの隣には、誰も居ない。自分の体が砂だらけだ。いや、これは灰だ。
「……………ばか、ばかばかばか、馬鹿。馬鹿……馬鹿兄貴…」
必死にその灰をかき集める。体中が白くなった。また、別れがしっかり出来なかった。あのときだって、急だった。
「シンベエ…!シンベエ!!」
虚空に向かって、慈半は叫んだ。

ベッドから、こつん、と指輪が落ちていった。ころころと、転がっていく。扉の向こうの革靴に、指輪がぶつかる。
革靴の主はそれを拾い上げると、自分の左手の薬指にはめた。

「…あ、どうぞ続けて?泣いているじはんちゃんはとても可愛らしいので、ぼくとしてもまだ眺めていたいのでね!さ、しくしくと泣いててください!」
灰色がかった青い髪、異形の目異形の耳。シンベエとはカラーリングが対照的なその男。
慈半は、ぽかんとその男を見上げるしかなかった。


フェーズ3終了。
フェース4に移行する。
ここまでは順調だ。現状、全工程の成功率58%…。
フェーズ4は複雑だ。【スコット】という男が未知数過ぎる。まだこの男の動かし方を悩んでいた。【シンベエ】よりも複雑で、そして気難しい。
彼次第で、慈半の今後は決まるだろう。流れとしては、このまま【シンベエ】の代わりに【スコット】が兄として生活を共にする。だが、それだけだ。それだけ。
【スコット】は短命ではない。すでに改造を済ませてあるからだ。
慈半は新しい兄と一生を過ごす。いや、どこかで気付くはずなのだ。すでに兆しは見えている。
慈半は既に、これが二度目であると分かっていた。【シンベエ】を二度失うことに絶望していた。その反応を踏まえると、【スコット】とのことがどうなるかが全く予想できない。
否、予想予測は出来る。おおまかに分けて、どちらかだ。
今までの488664007856回と同じだ。

自壊するか、しないか。それだけだ。
自壊してしまったら、また作り出して、そして彼女を彼女として確立させるために人生をもう一度経験させるだけだ。それでいい。


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