□その執事、謙虚



シエル・ファントムハイヴは、優雅な朝食後のティータイムを満喫していた。手には、今朝から何度も読み直した新聞がある。
一面よりは目立たないものの、シエルにとってその記事は目を引いた。

『イタリア貿易商フェッロカンパニー。何者かに襲われ死傷者多数』

「……ふん」
シエルは鼻で笑うと、デスクの上に新聞を投げた。

「坊ちゃん、お手紙が届いております」
「入れ」
執事の声が扉の向こうで聴こえた。
シエルが短く返事をすると、漆黒の燕尾服に身を包んだ男が、静かに入ってくる。
「見てみろセバスチャン。この間の記事が乗っているぞ」

シエルは何通かの手紙が乗った盆を受け取ると、代わりにさっきの新聞を渡した。
「ああ、フェッロカンパニーの記事でしたら目を通しました」
にっこりと笑うセバスチャン。
「<死傷者を襲った凶器は、未だ見つかっておらず。検死に寄ればナイフのようなもので刺されたということである>…あの方が、片付けてくださったようですね」
「しかも表向きの貿易商ばかりでなく、裏の<フェッロファミリー>も何者かにツブされている」
「喜ばしいことではありませんか?わざわざ坊ちゃんが手を下さなくてよかったのですから」

セバスチャンの言葉に、シエルはため息をついた。

「あのお方のことが気になりますか?」

セバスチャンは笑いかける。
「気にならない方がおかしいだろう。結果だけを知らされても、これからあっちがどう動くのかわからないのだからな」
シエルは、イライラと机を指で叩いた。

「連絡は、来ているようですがね」
セバスチャンは、失礼と言ってシエルの手元から、一通の手紙を取った。

「宛名は<伯爵殿>…差出人は<シルバー>。慣れない筆記体で書かれています」


屋敷の扉の前に、ひとつのトランクを持って歩いてくる人物がいた。

「…門から屋敷が、こんなにも遠いとは……」
銀髪に毛先が赤い麗人。
垂れ目がちな銀の瞳。大きな丸眼鏡…まるで顔のサイズと合っていない。話す言葉は英語ではなかった。
少し息を荒げながら、麗人は呟いた。
「やはり、馬を…馬を使えば良かったか…流石に人の体でこの重労働は、辛い」

普通は、門から馬車や車で来る。
ぜえぜえと肩で息をしながら、麗人は戸のノッカーに触れた。

しかしその瞬間。

「よおぉし!今日こそはセバスチャンさんに褒めてもらえるように、お庭を綺麗にするんだ〜」
庭師のフィニが、るんるんと心ウキウキさせながら、扉を思いっきり開いたのだった。
麗人がノッカーに触れたのと、フィニが馬鹿力で扉を開いたのは、ほぼ同時であった。

ドバーン!!
「おぶっ」
麗人は、扉で顔を強打した。



「…?何だ今の音は」
シエルは、ふと気が付いてセバスチャンを呼び鈴で呼んだ。
大方、またフィニが何か破壊したのだろうが…シエルは、どんどん無くなっていく修理費に目眩を覚えた。
いくら稼いでいるからと言って、こんこんと勝手に湧き出てくるわけではないのだ。

「お呼びですか?」
「さっきの音は何だ。フィニが何か破壊したのなら…」

「せ、セバスチャンさぁああああああん!」
シエルの部屋の扉が、乱暴に開いた。
「メイリン、主人の部屋に急に入室するのはいけませんとあれほど…」
「そそそそそそそれどころじゃないんですだ!早くっ、早く来てくださいですだよぉおおお!」

メイリンは半泣きになりながら、セバスチャンにすがりつく。

「えぇい一体何事だ!?」
シエルが痺れを切らして、立ち上がった。
「ぼ、坊ちゃん!坊ちゃんも来て下さいぃい!大変なんですだッ、フィニが、フィニが…」



「うわあああああん大丈夫ですかぁあああ!?」
フィニは玄関先で、わんわん泣き喚きながら何かを揺さぶっている。
「おいフィニ!そうやって揺さぶるんじゃねえよ!!こういうときはまず、止血をだな」
その隣で、おろおろと慌てる料理長・バルド。
「止血!?止血ってどうすればいいの!?」
泣きながらフィニは、バルドに言う。
「血が出てるところを抑えるんだよ!…て、あれ?」

物凄い力で揺さぶられていたもの…銀髪の麗人は、目を回している。
無傷なのは、一目瞭然であった。
「あ、あのぅ…だ、大丈夫で御座いますから…とにかく離してくださいまあせ…目が、目がまわ」
「よかったぁああ!生き返ったああああ!」
フィニが抱きしめる。
「う、うげぇええええええ!?だ、だから離し」
めきめきと体中の骨が悲鳴を上げる。

「何の騒ぎですか?」
セバスチャンとシエルが、メイリンに連れられて玄関へやって来た。
そこには、泣きながら何者かを抱きしめるフィニと、それをどうにか止めようとするバルドの姿があった。

「あ!セバスチャン!!フィニをどうにかしてくれよ!さっきからこんなんで…」
「うわああああん!!死んじゃったのかと思いましたよーうッ!!」
「あの…、だから、離してください…ホントに死んでしまい…ま」


「お前は…!」

シエルは、フィニが抱きしめている者に近づいた。
「止めなさいフィニ。お客様が苦しんでいます」
「…へっ?」

フィニはやっと我に帰り、絞め殺そうとしていた者を離した。
「あ、有難う御座います…その説はどうも…」
へろへろになった麗人は、苦笑いを浮かべながらシエルに話しかけた。

「<シルバー>は、やはりお前か…」


「本ッッッ当に申し訳ありませんでしたー!!」
フィニは泣きながら頭を下げた。
「い、いえ…わたくしめの不注意で御座いますので。お気になさらないで下さい」
麗人は、頭に氷嚢を乗っけて答えた。
「でもスゴイですだ…!無傷だなんて!」
「そうさなあ、フィニの馬鹿力を喰らっても平気なんてよ。セバスチャンぐらいだぜ」
麗人の周りには、使用人たちが囲っていた。
わいわいと、楽しそうに話している。

「貴方達、何をしているんですか?お客様に失礼ですよ」
パン!パン!と、大きな手拍子が響く。
セバスチャンが、来客用のティーを持ってきたのだ。
追い払われた使用人たちは、名残惜しそうに部屋を後にした。

「あぁ、お構いなく。わたくしは客人扱いされるような身分の者では御座いませんので…」

慌てて麗人は椅子から立ち上がる。
「そういうわけにもいかないだろう。わざわざ手紙まで出して来てもらったのだからな」
シエルがセバスチャンの隣に並ぶ。
「伯爵殿、改めまして挨拶を…」
麗人は腰を折った。

「わたくしめはラクシャーサ・ネリテイと申す者で、気軽にラクスとお呼びください。先日は失礼をば致しました」
「その件に関しては…<商談>の通り、証拠隠滅…フェッロファミリーの抹殺…そして」
「いえ、わたくしはただ頭を下げるしか御座いません。急なことだったとはいえ、貴方を脅迫する形になってしまいました…心から、お詫び申し上げます」

ラクスは目を伏せて、平謝りである。

やりにくい。
シエルはそう思った。
それを察したのか、セバスチャンが代わりに話しかける。

「あなたは坊ちゃんを<保護>…お守りすることが目的と仰っていましたね。それは一体どういう意味なのですか?」
「…単刀直入に申し上げたいのは山々なので御座いますが、それはこちらの<規則>で、勝手に漏らすわけにはいかないので御座いますよ」

ラクスは困ったような顔をした。先日とは打って変わっている。
余裕ぶった素振りなど、微塵も見せない。
なんとも謙虚である。

「…それは、あなたの正体も同じですか?」
「ええ、今お話しても構わないのですが…ここで早合点して正体をバラしてしまった場合、わたくしめが不利になってしまう可能性が考えられますので」

ラクスは眉を下げた。
「…それで、僕は何も知らされないまま知らないまま、お前にどうされるんだ?不利になってしまう?それは一体どういうことだ、お前の言っていることは全く分からない」

シエルは、椅子にもたれた。
「伯爵殿が難しく考えることは必要御座いません。わたくしはただ…」

ラクスは、膝の上で拳を握った。
「ここで執事として雇っていただければ、それで良いので御座います!」

「……………は?」
「<契約>…とまではいいませんが約束致しましょう。わたくしは伯爵殿の邪魔になるようなことは一切致しません。伯爵殿の元で、忠実に勤めます。しかし、貴方の<護衛>は任務の一環であり、他にやらなくてはならないことが御座います」
ラクスは、ぺらぺらと続ける。
「毎日お使えすることは出来ませんが、出来る限り伯爵殿のお側に置いていただければ、こちらとしては願ってもないこと…何の支障も御座いませんので」

深々と、頭を下げる。
「どうか、ご検討お願い致します」
ラクスは、それだけ伝えると帰っていった。


「つまり、奴は<自分がどういう素性の者で、どういう目的で僕を監視するのか>…根本的に大事なことを話さず、雇ってくれと言うのか」

シエルはテーブルの上のチェスを、指先で弄ぶ。

「まず僕を<何>から<保護>するのかさえ言ってないぞ。信用するにも無理があるだろ…」
「確かにそうですね。疑うな、という方が無理でしょう」
セバスチャンは苦笑する。
「…しかし、それを承知で申してきたのでしょうね。とても、坊ちゃんを欺こうと思ってやっているとは思えません」
「それについては同感だ。奴は僕を嵌めようにも利点が無い。それに、悪魔じゃあないなら…一体何なのか」
「悪魔でしたらわかるんですがね。坊ちゃんのようなお方の魂は、格別に美味しいでしょうし。その魂を狙っているというのなら、理屈は簡単なのですが…」

冗談とも、本気ともとらえられないようなことを言うセバスチャン。
シエルはそれを横目で見ると、鼻で笑った。
「まあいいさ。丁度退屈していたところだ…」
「おや、ではあの方をお雇いになるので?」

セバスチャンの問いに、シエルは不適な笑みを浮かべるだけであった。



数日後。
ラクスはシエルに呼び出され、再び屋敷を訪れた。
「まず雇うにあたってだな、色々質問に答えてもらうぞ」
シエルは椅子に座り、ラクスの顔を見た。
ラクスは相変わらず、顔に似合わない丸眼鏡をはめている。

「雇っていただけるので御座いますか!?」
ラクスは、ぱあぁっと顔を輝かせた。
「まぁな……」
シエルはその輝かしい笑顔に顔を背けた。眩しすぎるらしい。
「質問、と申しますと…。あの、お答え出来る範囲は決まっておりまして…」
「構わない。お前には黙秘権がある」
まるで刑事の尋問だ。
シエルはセバスチャンに目配せをした。
すると、セバスチャンはラクスに紅茶を運ぶ。

有難う御座いますと、ラクスは微笑んで礼をする。

「まず手始めに、僕のことをどこまで知ってるのか教えてもらおう。お前はアズーロの元に居た時から、僕のことをいろいろ知っていたようだが」
「伯爵殿は、表向きは玩具会社の社長をしていらっしゃいますが、女王の名の下に秩序を守る<女王の番犬>であること。それに、貴方のご出生のことや、悪魔…セバスさんと契約したことも、存じております。ああ、どこから漏れただとかそういうことではありませんので…こちらが勝手に、自然に、分かることなので御座いますよ」

ラクスは真剣な表情で語り出す。
「そもそもわたくしは、貴方だけでなくここのお屋敷に勤める使用人さんたちの過去や秘密…表には知られていないようなことも存じております。わたくしは、伯爵殿を守るためにそれらを調査済みなので御座います」

シエルは驚く。
「…流石に、只の人間ではない…というわけか」
「わたくしめ以外の者は、普段は他の業務を行っており、わたくしめだけが特殊なので御座います。わたくしだけが、伯爵殿の護衛という役目を負っているので御座います」

「ではラクスさん。あなたは一体、何から坊ちゃんを守るというのです?私だけでは力不足なのでしょうか」
セバスチャンはにっこりと笑う。
「はっきりとは申し上げられません…しかし、強敵だとだけ、お話しておきましょう。それに、セバスさんお一人では立ち向かえるようなものでもありません」

「いやにはっきりと言うな?」
シエルは少し笑いながら紅茶を飲んだ。
セバスチャンは、眉をピクッと動かした。

「私でも、無理なのですか」
「ええ。無理で御座います」

ラクスは、銀色の瞳で見つめる。
ふっと、紅茶のカップに口元に運んだ。

しかし、香りを嗅いでそのまま再び元の場所に置いた。

「時が来れば、直接全てをお話できます。それまではどうか、辛抱なさって頂きたいので御座います。わたくしから言える事は、以上です」


「………ま、いいさ。セバスチャンも一人だけだと忙しいしな」
シエルは言う。
「セバスチャンのサポート役として雇おう」
「誠で御座いますか!?そ、それは本当に…有難う御座います!!」

ラクスは立ち上がった。歓喜に打ち喜び、両手を胸の前で握っている。

「…とりあえず、一次審査は合格だ」
シエルは不適な笑みを浮かべる。
「一次…審査?」
ラクスは首を傾げる。
「………あぁ!この紅茶のことで御座いますね」
「申し訳ありませんラクスさん…坊ちゃんのご命令で、痺れ薬を混入させていただきました」
セバスチャンが困ったように笑う。
「匂いがおかしかったので何かと思えば…」
ラクスも困ったように笑う。セバスチャンは、肩をすくめた。
「まぁ、ファントムハイヴの執事になるのですから…これくらいできなくては、ね」

「次は二次審査だ。ラクス、別室に移動してもらおう」

三人が向かったのは、洗濯室。
「う、うぎゃぁあああああああ!」
そして女の悲鳴。
「な、何事ですか!?」
ラクスが慌てて向かう。

「た、助けてくださいですだ〜」
そこには、洗濯室には、泡まみれのメイドが泣いていた。
「…こ、これはどういう…」
「ラクス、お前ウチの使用人たちのことを知ってるんだよな」

シエルは無表情で言う。

「え、えぇ…」
「言っておくが。ウチの使用人はセバスチャン以外使えないんだ」
「ヒドイですだ〜坊ちゃん…ワタシだってやればできるだよ〜」
メイドのメイリンは、シーツと共に泡に溺れている。
「では、ラクスさん。これを片付けてください。それが審査内容です」

セバスチャンは懐から時計を取り出した。
「えっ!?えっ!?えええ!?ちょ、ちょっとお待ちください!わたくしめはそ、そんな万能というわけじゃ」

「はいスタート!」

狼狽えるラクスをよそに、セバスチャンは勝手に審査を始めた。

数十分後。
「こ、これでよろしいでしょうか」
ラクスは、頭に泡をくっつけて、苦笑している。
「す、すごく手際がいいですだ〜ラクスさん」
ついでに綺麗にしてもらった(と、いっても拭いただけ)メイリンは、感動している。

「16分57秒…中々のタイムですね」
セバスチャンが言う。
「よし、合格としよう。では、次はその泡まみれのシーツの洗濯だ。セバスチャン、手順を教えてやれ」


シエルは、満足そうに去って行った。
それにメイリンが連れ従う。

「ん?どうしたメイリン」
「ふふふ、坊ちゃんなんだか楽しそうですだね」
メイリンはニッコリと笑いかける。
「楽しい…まぁ、そうだな」
「ラクスさんを雇われるんですだか?」
「ああ、お前らはともかく…セバスチャンだけじゃ忙しい時に何かと不便だからな。それに…」

「それに?」
「からかいがいがある奴だしな」
「か、からかう!?」
「セバスチャンよりもどこか抜けてるから、面白そうだろ」
シエルはにたりと笑った。
メイリンはそれを見て、寒気を覚えた。天使のような悪魔の笑顔とは、きっとこれのことをいうのだろう。


「いやあ!お天気がいいときの洗濯物干しは、気持ちが良いですねぇ」
ラクスは、真っ白なシーツが並んで干される庭で、ううんと伸びをした。
「業務を楽しくこなされているし、手際も良い。ラクスさんは出来た人材のようですね」
「そ、そんな!本当にわたくしは、セバスさんのように何もかも出来るというわけではないので御座いますよ」
「知っての通り、私以外の使用人たちは皆あのような感じですので……少しでも、一般レベルでこなしていただけるのなら、本当に助かります…」
セバスチャンは心の底から言った。
得体は知れぬが、まともな人材だ。それにシエルも気に入っているようだし、それになにより、自分の仕事がスムーズに出来るのが嬉しいのだ。

「では次は料理審査と行きましょうか」

「僕に三時のおやつを作ってくれ」
「お、おやつ…ということは洋菓子で御座いますよね?」

ラクスは、広いキッチンに案内された。
「ここにあるものを好きに使っていただいて構いません。あ、バルドは余計な手出しをしないこと。てゆうか貴方はキッチンから出てください」
「なんだよー!俺にも手伝わせろよー!!」

セバスチャンの冷たい一言に、バルドは涙目になりながら叫んだ。

「…洋菓子、洋菓子……ううむ…」
独りきりにさせられたラクスは、エプロンを着ながら、ぶつぶつと呟く。
「洋菓子…かぁ」



「…時間が掛かっているようですね」
セバスチャンは、中庭のテラスへ紅茶を運んできた。
テーブルの上に静かに並べる。

「しかし…素性がわからないというのは厄介だな。奴を雇って僕の身に厄が掛かれば、元も子もない」
「その心配はありませんよ。不審なところでラクスさんの名前は聞きませんでしたから」
「…調べたのか?」
「ええ。しかしどこにも、ラクス・ネリテイという人物の手がかりはありませんでした。良い意味と、悪い意味で」
「だからこそ、近くで監視しておくというのも手だな」
「はい、私の目の届くところに置いてくだされば、貴方の身の安全は保障されます」

シエルは紅茶を飲んだ。

「お待たせ致しました、伯爵殿」

ゆっくりと歩いて、テラスへと現れたラクス。
お盆にひとつのケーキを乗せていた。

「…こ、こちらで御座います」

テーブルの上に置く。

「ホットケーキ……」

シエルの目の前には、数枚重ねられたホットケーキがある。
はちみつがかけられており、美味しそうな香りを引き立てていた。

フォークを手に取り、それを一口サイズに切り取って口へ運ぶ。

「あ、あの…わたくしめはこう見えて日本育ちでして…。その、洋菓子作りは苦手というか…それしか作れないというか…」

ラクスは、あわあわと慌てて弁解する。
「…お口に合いましたでしょうか?」

「ん…普通にうまい」
「ほ、本当で御座いますか!?」

シエルは、感心したようにホットケーキをもぐもぐと食べ続ける。

「セバスチャンとまではいかないが、うちのバルドよりは断然腕は立つようだ」
「それは助かります。私のサポートはきちんと任せられそうですね」
「お褒めに上がり、光栄の極みでございます」


ラクスは嬉しそうに二人の後をついて歩く。

「お二人とも優しい方で安心致しました。わたくしが読んだ資料にある限りは、お二人とも、非道な印象で御座いましたから」

「私は坊ちゃんの命令で動いておりますから。非道なのは坊ちゃんのことでしょう」
「聞き捨てならんな。僕はただ、女王の番犬として仕事をこなしているだけだ。非道も何もない」
シエルは不敵に笑った。
「ラクス。お前、町の方に住まいを持っていると言ったな?例の…他の仕事もあるなら住み込みでは難しいだろうが、とりあえずお前専用の部屋を与える。好きに使っていい」
「隣は私の部屋となっています。こちらはもともと他の従業員のための部屋なのですが、今は余ってしまっていて」
「お部屋まで与えてくださるのですか!何から何まで有難う御座います…!一生懸命働かせて頂きますゆえ」

セバスチャンは、扉を開けて案内した。
三人は部屋の中に入る。

大きな窓と、ベットが並べてある。
何の変哲もない只の部屋であった。

「宿泊せねばならない時は、こちらを使用させていただきますね」
ラクスは、ベッドのシーツを撫でながら言った。
従業員のベッドであろうと、上等なものを使ってある。

「ところでラクス、お前一体何の仕事をしているんだ?セバスチャンが調べても出てこないとなれば…」
「人間が、ましてや悪魔でさえたどり着けるようなものではありませんので…。疑われるのはごもっともで御座います。しかし最初にも言ったとおり、まだ話せないのですよ」

ラクスは振り返り、申し訳なさそうに眉を落とした。

「…僕が、雇い主が言っても?」
「ええ。伯爵殿…雇い主の命令の前に、使命というものがありますので」

シエルは、ラクスを見つめた。
日本育ちと言ったが、その容姿にはそれらしさがひとつも出ていない。
銀の髪に赤の混じった髪。銀の瞳、楕円に歪んだ瞳孔。

「使命とならば、仕方がありませんね。私も…坊ちゃんの命令に従わなければならないという使命があります」
セバスチャンは、笑いながらラクスと対峙する。

「その使命は、契約によって交わされています。つまりは絶対なのです」

「ええ、理解しておりますよ。セバスさんと伯爵殿は契約で結ばれている…重々存じております。伯爵殿の命令は、絶対…」
「ですから、坊ちゃんにあなたを殺せといわれたら、殺さねばならないのです」
「それは困りました。わたくしめも、仕事ですから…回避しなくてはなりません」


シエルは、ゆっくりと目を伏せた。
「セバスチャン命令だ、そいつから全てを聞きだせ。口を割らないのなら…」


「始末しろ」

「イエス、マイロード」

黒い悪魔は、最初から全力で襲いかかった。暗闇が、一瞬だけ部屋の窓を覆い尽くす。
シエルは、熱い風が体中を撫でるのに不快感を持った。
目を瞑り、一歩、下がる。
すると、下がったところに誰かが自分を優しく支えた。

「おっと、申し訳ありません」
ラクスだ。
「…ッ!?セバスチャ」
「彼はあそこで御座います」

ラクスは、にっこりと微笑みながら恭しく右手を差し出した。
視線を向けると、呆然と立ち尽くしている自分の執事が居た。
「な、何してるセバスチャン!」
「少しだけ、セバスさんには意識を飛ばして頂きました。今はわたくしと貴方…二人だけです。どんなに叫んでも誰を呼んでも、契約で縛られた悪魔でさえ貴方の声には応じることが出来ません」
耳元で、背後で、静かにラクスが答える。その顔は、笑ってさえいる。

「お前…何が目的だ…!」

対峙し、きっと睨みつける。
見上げる形になるが、すぐにラクスの方から片膝を付いた。
「初めから全てを申しております。わたくしめは、貴方をお守りすることが任務で御座います…貴方は悪魔をも凌駕する者に命を狙われることになるでしょう。それを分かっていて、わたくしの上の者は特に何も手を打たない…だからわたくしが単独で動いているので御座います」

部屋の中は、いやに静かだ。
何の生物もここには存在しない。時間さえ、流れていない。

「わたくしが邪魔で御座いますか?ならば執事として雇って頂かなくても構いません。その際は窮地に参上するまでで御座います。しかし、貴方としては、わたくしのようなワケの分からない者は側に置いて監視しておきたい…そうで御座いましょう?」
にこりと微笑むそれは、まるで悪魔のようだ。
追い詰められている。
しかし、相手はシエルを追い詰める気は毛頭ない。気持ち悪い、不可解な感覚。

「貴方をお守りさせてくださいませ、伯爵殿」
懇願さえしている。

「……僕を<何か>から守ることで、お前に利益が発生するのか?」
「ええ!はい、その通りで御座います!遠回りにはなりますが、そのような結果になることは間違いないかと…」
ラクスは嬉しそうに、両手をすり合わせた。
対照的に、シエルは爪を噛む。
「…どうしてもわたくしを信用ならないと申されるのなら、二つ…わたくしは貴方にして差し上げれることが御座います」
「何だ、言ってみろ」
「一つは」

ラクスは立ち上がり、歩き出した。

呆然と立ち、そのまま固まって動いていないセバスチャンの隣に立つ。

「<悪魔>から、貴方をお守り出来ます」

シエルはハッとした。自分の、眼帯で隠れた目を触る。
「貴方がどのような経緯でこの悪魔と契約したかも存じ上げておりますので…。この<悪魔>は大変良心的ですが、いつ貴方の命を横からかっさらっていくかは分かりません。その時、契約が邪魔してわたくしは手出しが出来ませんが、そのような事態に陥らないために知恵を貸すことは出来ますゆえ」

毒の目が、セバスチャンの赤い瞳を見つめている。

「僕が、セバスチャンに…嵌められるとでも?」
「可能性はゼロではありません」
「………知恵を貸す、と言ったな?やはりお前は、悪魔について詳しいようだが」
「わたくしは<悪魔>では御座いません」
ふふふ、と口元で笑みを隠す。
「では、二つ目…」

ラクスは、シエルの元に再び膝を付く。
見上げて、静かに言った。
「わたくしめのこの体は、理由があって本来の体ではありません。これは借り物…作り物の体で御座います。ゆえに条件次第では、簡単に滅びる代物となっております」
「………条件?」
「満月の日は、わたくしの体は人間と変わらない無力なものになりはてるので御座います。心臓を、とある<もの>で突けば、文字通り滅びるので御座います。ああ、その<もの>が何かはいずれ分かるかと…。とにかくこの体は、ただの作り物、それだけは、心に留めておいていただきたく…」
「なるほど、自分の弱点を僕に教えると…」
「はい、これで少しはわたくしが貴方に必死に取り入っていることが伝わりましたでしょうか?」

惜しげもなく笑いかける。
シエルはなんだかおかしくなった。ここまでして、この得体の知れない化物は、自分に取り入ろうとしているのだ。
「…面白いな。これはお前と僕のゲームか」
「はい、そう考えていただいて構いません。わたくしは貴方を守る、貴方は守られる。わたくしが<脅威>から貴方を守りきることが出来たのならわたくしの勝ち…」
「僕がまんまとその<脅威>に殺られたら」

わたくしめの負けでございます。


まるで、ラクスは演者のように大袈裟に礼をした。
それに声を上げて笑うシエル。
「アッハッハッハッハ…!良いだろうラクス。お前のそのワケの分からないゲームに乗ってやる。それに利用価値も見い出せた…せいぜい僕に散々こき使われればいい」
「ええ!願っても無いことで御座いますれば!」

ラクスは、同じく笑った。

未完

おまけ短編
鬼来たりて

「怖や怖や、人を食らうために殺めておるのではないのかお主は」

死体の上に座り込んで、肉片のこびり付いた刀を眺めていた。
じゅわじゅわと肉を溶かし、血までも吸い込んでしまうその刀は、かつて自分の家で家宝として飾られていた高価なものだ。
それなのに、自分が持ってしまったから今や只の妖刀となってしまっている。

「ではお前らは、何のために人を殺めると云うのだ」
人食鬼は、二匹の鬼を見上げた。
山門の上で、にたにたと今しがた自分が人を殺すのを眺めていた鬼はついに声を掛けてきた。
「お主名を何という」
ばさり、と朱の獣毛をかき上げて、黒い目の鬼は問うてきた。
「名は無い、あっても名乗らぬ」
「では赤丸と呼ぼうや」
黒い鬼の隣で、銀の鬼が手を叩きながら言った。
「赤丸か、可愛い名だのう!赤丸」
「良かろう赤丸、赤丸と呼ぼう」
「呼ぼう呼ぼう」

見てくれは若いもののふに見える。だが、声は少年少女のそれだ。

刀を鞘に納め、さっと踵を返した。山を下るつもりだ。
「待て待て赤丸、話があるのだろうに」
「そうだぞ赤丸、我ら山の主に挨拶も無しに食い散らかすだけ食い散らかして去っていきおるのか」
「それにまだお主の問いに答えてやっておらんぞ、帰るな帰るな」

黒い鬼は、門を飛び降りた。死体の山の上に着地し、腕組をした。
「我らは食うために人を殺める。分かりきった事であろ」
「そうじゃそうじゃ、我ら鬼は人を食って生きる。分かりきった事であろ」
同じく銀の鬼が、隣に降り立った。
足元で肉片が飛び散り、血で着物が汚れても気にしていない。
「だが赤丸、お主違うな?お主別に食いたいがために殺めておらんだろ」
「おらんだろうな、ならば刀など使わずとも食らいついてしまえばいいのだから」

人食鬼は、ひとつまばたきをした。
毒のような銀の瞳が、夜の闇の中で光っている。

「私は何でも食う、人のみ食らうても腹が満たされんでな。それに骨が多かろ?内臓は当たり外れがあろ?故に私は好んでは食わぬ」
「酒や煙と同じかえ」
黒い鬼は、にっこりと笑ってみせる。
人食鬼はその笑顔に答えない。
「その通りだ。しからば山の主への用事とは、私はお前たちの縄張りを横取りするつもりは毛頭ないので構うなと警告に来たことである。お分かりか?了承したか?では私は去ぬる」
「待てと言うに」

黒い鬼と銀の鬼は、笑顔で人食鬼の手を取った。
血にまみれた手同士が、にちゃりと水音を立てる。
「楽しかろ?殺めるのは」
「そうじゃそうじゃ、我らと共にもっとやろうではないか」
「お主、鬼に成った人の子なのであろ?遊ぼうや、なあ」
「縄張りなど気にするな、はらからよ。我ら既にはらからぞ、なあ」
「そうじゃ赤丸、我ら既にはらから」

人食鬼は、目を細めて威嚇する。
それでも子供のようにまとわりついてくる二匹は、怯みもしない。
「我らの山の門へ進軍する人を屠ってくれたではないか、お礼をしなくてはならぬよ、なあ茨木」
「そうじゃそうじゃ、宴を開かねばなるまいよなあ酒呑」

「お前らほとほと呆れるわ。これが都の大鬼…酒呑童子と茨木童子かえ」
人食鬼は手を振り払い、さっと距離を取った。
「阿呆じゃ、ただの阿呆。気まぐれにお遊びに存在しておるだけの幽鬼じゃ。くだらぬ、くだらぬくだらぬ」

嘲笑えば、黒の鬼酒呑童子が唇をすぼめる。
「何がくだらぬか、分からん者よの。雅じゃ雅、そういう酔狂なもので生きておるのじゃ。なあ茨木」
「そうじゃそうじゃ、何も分かっとらんのう赤丸は。何も愉しんでおらんようだこれは。どうする酒呑童子、これは可愛そうだのう」

「ふん」

人食鬼はついに無視して山道を降りだした。
「なんじゃ、名乗ることがそんなに愚かか」
「良き名前であろうが、何を馬鹿にするのじゃ赤丸」
二匹はそれでも着いてくる。
人の目からしてみれば、それは恐ろしい速さで動く風だ。
「陰陽師を知らぬわけではあるまい」
「赤丸もきやつらと遊んだかえ」
あれは楽しかったのうと二匹はけらけらと笑った。
「名前はそれを縛る呪いぞ、お前らそれを知らずに今まで生きてきおったのか」
「フン、我らを名呪いで縛れる陰陽師は居らぬ」
「居らぬ居らぬ、そのような人間居らぬよ赤丸」

子供の笑い声が、木々の中をこだましている。
人食鬼は、未だ自分の人の名が晒されてしまうことが恐ろしいというのに、この鬼たちはそれを気にさえしていない。それとも、この二匹は<本物の鬼>であるから、そのように思えるのだろうか。

「なあ赤丸、守ってやろうぞ」
酒呑童子は、言う。
「そうじゃ赤丸、守ってやろ。我らで守ってやる、何も恐れるものは無いであろ」
「……恐れぬからこそ、お前らはいつか人間に痛い目にあわされるのであろうな。哀れ哀れ、愚か愚か」

人食鬼は、心の底から嘲笑った。
それに黙り込む鬼二匹。
「なんぞ怒ったかね、ならば私も殺すが良い。食らうが良い。私もお前たちを殺すさ」
その言葉に、二匹は息を呑んだ。そして悲鳴のような声を上げる。
「馬鹿な!はいからを殺すと!はぁあ赤丸、それはならぬ!してはならぬぞ!」
「そうじゃ赤丸!はいからぞ!我らはいから、遊びでおっても命の取り合いはならぬ!」
「……てんで分からぬわお前たちは。一生理解し合いうことは無かろ」

人食鬼は、ついに人里に出た。
酒呑童子と茨木童子は、そこで立ち止まる。

「都に居るのだな赤丸」
「都にしばらく居るのだよなぁ赤丸」

二匹の鬼の声が、広い都の道に響いた。
百鬼夜行の時刻だ、通りには人は居ない。

「ならばまた遊ぼうなあ赤丸」
「遊ぼうなあ、顔を見せよ赤丸、なあ」

二人の声が、どんどんと遠ざかっていく。

「我らはいつでもお主を待っておるよ、早うおいでえな赤丸」
「はいからよ、はいからよ。我らは待っておるよ」

人を気まぐれに食らうだけの化物よ。
早く鬼と成るがいい。本物の鬼に。早く我らと同じになるがいい。

人食鬼…未だ<常彦>のまま<魔>になった羅刹天は、ラクスは、自分の額から伸びる禍々しい角を触った。
ぱりぱりと角層が剥がれて、それは天に突き刺すようにまっすぐ伸びだしている。
いつからこれは、こうも素直に伸びるようになったのか。
いつから自分は、人をただ食らうだけの鬼ではなくなったのか。
鬼になればと思いなったそれは、結局鬼ではなく。ただの化物だった。
では自分はこれから何になるのか。

都のじっとりとした夏の気温に、人食鬼は汗を流した。




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