九尾狐の行方
「暑いなぁ。最近見ないと思っていたら…こんな暑い日にわざわざ尋ねてくるのだもんな、君は元気だね」
その人はそう云うけれど、アタシは大分涼しいと思った。
いつも日陰になっているこの縁側は、まるで冬のように寒くも感じられる。それなのにいつも“暑い暑い”と呻いている。
「全然暑くないじゃないですか」
「暑いよ。まるで砂漠だ、乾燥しきっているね」
その人はエジプトにも行った事が無いくせに、そのようなことをぬけぬけと云う。
「砂漠なんて行った事があるんですか?」
「何を云うんだいセンちゃん。私は陸軍で中々の地位を持っていてね、任務でいろんな外国に行くことなんて…」
「はいはい、そうでしたね」
確かにそれは本当のことらしい。
「適当だなあ。この前話した傷のこととか覚えてないんだろう」
「なんでしたっけ?背中の切傷は勲章?」
アタシは、その人のそばに座る。
「違う違う、それは人体実験のときの傷。勲章は右足の付け根さ。ほれ、ここ、危うくちょん切られるとこだったんだぜ」
人体実験なんて嘘だろうけど、傷は本当にある。
たまに痒がっていて、アタシはいつも孫の手役をするのだ。
その人は、汗で少し濡れた前髪を触る。いつも顔の右半身は前髪で覆われている。そこにも傷があるらしい。
「暑いのなら切ってしまえば良いのに」
「右足をかい?」
「違いますよもう!前髪です前髪」
その人は、くつくつと笑った。
「だめだめ。この隠された右目は全てをも見透かす…千里眼なのだよ。だから隠しとくの」
…なんとも子供のような嘘だろうか。
その人は、誇らしげに着物の襟を正した。
「それでセンちゃん。私のところに仕事の用じゃなくて逢引でもないんなら、何の用だい?」
逢引なんてするもんか。
アタシは苦笑する。
「菊さん、土御門の会ってご存知ですか?」
やっと本題に入れた。
アタシは手提げに入れていた資料を取り出し、その人に渡した。
受け取ると、その人は資料に目を通し始める。
「…土御門って、安部晴明の土御門?」
興味なさげに言う。
「えっとー…アタシはよくわからないんですけど……なんですかそれ」
「土御門って言えば安部晴明の子孫が土御門家なんだよ。まあ私もそらでぺらぺらと説明出来る程知らないけど。それよかセンちゃん、君は晴明神社の巫女だよ?これくらい知ってないと」
「菊さんこそ!神主でしょうに!…で、この土御門の会。資料にもあるとおりの所謂、宗教団体なんです。信者の悩みを解消する宗教団体で。意外にも信者が沢山いるそうですよ」
ふぅん、とその人は云った。
「アタシの友達がそこの信者で…」
「へえ。何か心の支えが無いと辛いような出来事でもあったのかい。それとも代々この会に入会する家系?」
その人は、興味を持ったようで少し笑いながら言った。
「勧誘されて、興味本位に入会したそうです」
「へ、へー…好奇心旺盛なお友達だねえ。ひとつのものを信じ通せるって凄いことだよな、尊敬するよ」
「そういう菊さんですけど、あなた安倍晴明神社の神主なんですから。ちゃんと安倍晴明を信仰して下さいッ」
「信仰と職務は違うさね。ま、それで友達は騙されちゃったの?」
アタシは思わず息が詰まった。急に話を変えるもんだから。
「と、友達…美紀は信者になって」
「うん聞いた」
「死んだんです」
「………うん?」
だから
「死んだんです」
「…死んだって何だいセンちゃん」
その人の深刻な表情は、初めて見た。
目じりのキッと上がった狐目のその人は、そういう表情をすると怖い顔になった。
「もっとちゃんと話してご覧。それだけじゃわからないだろう?」
けれどその人の声は優しくて、そっと肩に手を置いてくれた。
少しだけ上気していた感情が治まった気がする。
「土御門の会の信者、その友達が亡くなった?」
違う。アタシは只、首を振った。
「美紀は恋人と別れたばかりだったんです、それでその時の軽い気持ちで―本当に信仰心とかは無くて、からかってやろうってつもりで入会したんですって。あとから、聞いた話なんですけど…」
「肝の据わったお嬢さんだ。それで?」
「アタシたちが想像している宗教団体とは違うらしいんです。別に美紀の悩み事――恋人に振られて悲しいから気持ちを明るくしたいっていう悩み―も、当てられたわけじゃなくて…相談するだけなんです」
土御門の会は、入会費も何も、お金は取らなかった。
「相談したら、助言か何かくれるの?」
信者が土御門の会、会長(詳しいことは解らないけど偉い人)に悩みを打ち明けて…打ち明けるだけなのだ。
「これで悩んでます、ああそうですか…で終わりなのか。何かまじないを掛けたり儀式をしたりしないんだね。会長さんに悩みを打ち明けて、お仕舞い?」
悩みを打ち明けた後、会長は必ずこう云う。
「あなたの悩みは良く分かりました。しかし私にはその悩みを解消させてやることは出来ませぬ。だから…待つのです。私たちと共に」
待つのだ。
「…何を?」
その人は眉をひそめた。
「あ、安倍晴明の生まれ変わりを」
言いながら、おかしなことだと思った。
馬鹿にされるかもしれない。
だって晴明神社の神主にそんなことを話すなんて、からかっているとしか思われないだろう。
しかしその人は、真剣な表情で続けた。
「待つ、だけなのか。それでセンちゃん、何故美紀さんは亡くなったのかな。土御門の会と美紀さんの接点は分かったけど…」
「美紀は、自宅のアパートで倒れているのを発見されたんです」
「ははァ、もしかして三ヶ月くらい前の殺人事件かい?独身女性の死体が発見されたってやつ」
その人は、隻眼でアタシを見据えた。きろり、と視界に光が走ったような感覚に陥る。アタシは恐る恐る頷いた。
まさか知っていたとは思いもしなかった。
「犯人は未だに分かってないらしいね。新聞やテレビでも言わないし…まさか君の友人だったとはね。しかし何故君がこのことを探っている?そりゃあ美紀さんは友人かもしれないけど、我々一般人が手出しできるレヴェルじゃないぞ」
「アタシも、刑事さんに“必ず犯人は逮捕します、待っていてください”と云われて待つ気で居たんです。だってアタシが出来ることって何も無い。犯人の手がかりも知らないし……知らないなら、動きませんでした」
そう、それを
知らないままだったなら。
アタシはずっと日常を生き続けたのだと思う。
「アタシ、美紀が書いていた日記で知っちゃったんです。美紀と…その土御門の会の会長が関係を持っていたことを。日記というか備忘録みたいな手帳で、そこに会長の名前と時間…多分待ち合わせの時間なんですけど―そういうことがいくつか書き込まれていて」
その人の隻眼は、アタシを捕らえている。
「警察には」
「云いました、けど」
「変化は無いのか。…君がしばらくお休みを取っていたのは、色々あったからなんだね」
アタシは頷く。
「警察は勿論、会長を取調べしたんでしょう…けど犯人逮捕にはならなかったんです。アタシも間違いだったのかもしれないと思い始めました。でも、最近アタシの周りでおかしなことが起きて…」
アタシがそこまで云うと、その人は目を見開いた。
「…聞く限り完全に黒じゃないか。センちゃんの身も狙われてるという解釈でいいのかい?」
「狙われているというか、つけられてる気がするんです。警察の人にも言ったんですが…相手にしてくれなくて」
「しばらくここで過ごしなさいね。部屋なんて腐るほどあるんだから、君ひとり暮らそうが何をしようが構わない。全く―それはいけないな…」
「ありがとうございます菊さん。それで、美紀のことと土御門の会のこと…」
貴方なら。
どうにかしてくれるはず。
「うん、わかった。センちゃんの身の安全は勿論、その土御門の会…私がどうにか探ってみよう」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、こういうことに関して丁度いい知り合いが居るんだ。任せてくれ」
貴方は、アタシを助けてくれる。
アタシはたまらない安心を感じた。
けれど、どこか引っかかっていた。何故アタシは、
この人に言えばどうにかしてくれる、と
思っていたのだろう。
…
「あぁ暑い暑い、去年より暑いんじゃないか?」
熊谷さんは、ぱたぱたと手で自分を扇いだ。
「まだ夏は始まったばかりですよ」
僕はえへら、と笑った。
「へらへらしてんじゃなくてさフジ君。なにか情報は無いのかね、情報は」
「さっきのお話でしょう?三ヶ月前の事件ですよねぇ?詳しいことは知りませんって。僕只の交番のお巡りさんなんですから」
「警察は警察だろうに。だから情報をくれよ」
熊谷さんは情報をくれの一点張りだ。
「情報といいましてもね。やはり熊谷さんがおっしゃったとおりですよ。それは歴とした殺人事件で、犯人はその会長さんですね。きっと」
「被害者は撲殺されている。凶器は鉄の棒のようなもので、未だ発見されておらず」
「知ってるじゃないですか」
ふん、と熊谷さんは鼻で笑った。
「色んな雑誌に書いてあったさ。根も葉もない噂もね」
「それだけ知ってればいいじゃないですか?」
「…あのねフジ君、私がここまで情報を手に入れておいて君を頼るのは、何故だか解かっているかい?」
「さあ?」
僕は正直に答えた。
「あぁもう!そんなんだから君は彼女が出来ないんだぞ」
「それは今関係ないじゃないいですかぁ」
僕が情け無い声を出すと、熊谷さんは少しだけ不機嫌な顔になった。
「私が知っていることだけじゃあ何も出来ないからだよ。それで警察の君に頼ってるんじゃないか」
そうは云うが、なんだか頼られている気は全然しない。
僕は、はあと頷いた。
「なんかこう、民間には流れてない情報とかさぁ…知らないのかなフジ君は」
残念だが知らない。
「ったく、またもや出掛け損だよ」
熊谷さんはそう言って、僕の出した麦茶を手に取った。
氷の解けきった味の薄い麦茶を、文句も言わずに飲み下す。
僕がこの人と出会ったのは、数年前である。
とある民事事件で手助けしてもらったのが、きっかけだ。それからというもの、熊谷さんとはすっかり仲良くなった。
「そうですねぇ、珍しいですよね。熊谷さんが外出されて僕のところまで来るだなんて」
この人は、なかなか自分の領内―領内というのは、あの神社のことだ―から出ない。
「だから話したろ?センちゃんが困ってるから、助けてあげるんだよ」
「…またそれも珍しいんですよねぇ。熊谷さんが他人のために動くだなんて。何か企んでいるんですか?」
人聞きが悪いなフジ君。熊谷さんは苦笑いをする。
「只、厭なんだよ。友人が困ってるのを見るのが」
「…似合いませんよ熊谷さん」
僕は笑う。失敬な、と熊谷さんは少しだけ怒ったような顔をした。
「僕が困ってるときは助けてくれなかったじゃないですか」
「君、一度も困ったような顔しなかったじゃないか。へらへら、へらへらしてさ」
これは元からなのだ。治すことは出来ない。
「あぁもう。厭だな、人が死ぬというのは」
熊谷さんは、眉をしかめた。
「随分滅入ってますね、熊谷さん」
「滅入ってるも何もね。人はそりゃあ毎日数え切れないほど死んでいるさ。感情的にはなれないな。だが、その中に自分と繋がりのある人が居たらどうだろう。あまつさえ、その人が他人に殺されたとならば…どうにかしてあげなきゃ―そう、思うだろう?私だけかな」
そう云って熊谷さんは、手団扇を仰いだ。
どうなんだろう。
確かに熊谷さんの言うとおり、毎日たくさんの人間が死んでいる。
でも僕たちは悲しくない。それは関係がないからだ。
逆に関係のある人が死んでしまったら、悲しむだろう。
そういうことなのだろうか。
僕は、センちゃんー須和田センーのことを知っている。
でもその友人は知らない。
熊谷さんだってそうだ。でもこの人は、何かしなければと思ったのだ。
特殊なのは、僕か。熊谷さんか。
「暑いなぁ…暑すぎる」
飲み干してしまったコップを僕につきつける熊谷さん。僕はそれにおかわりの麦茶を注ぐ。
「熊谷さん、今日はそんなに暑くないですってば」
「馬鹿云えフジ君、私の体温はね。人より高いんだ。冬はいいけど夏が」
嫌なんだよ、と結んだ。
「馬鹿はひどいなぁ」
「うぅん、君とは話が進まないッ」
熊谷さんは、短髪を掻きむしった。
「刑事に知り合いはいないのかね、お友達は」
居ませんよ、と答える。
「それなら熊谷さんの方がいそうですけどねぇ。たしか熊谷さんのご実家は、榎木津財閥と関わりがあるんでしょう?」
熊谷さんは、榎木津財閥までとは云わないが、有名な企業の跡取りだったような気がする。よくは知らないが。
「知り合いじゃないよ。ただ熊谷の企業を動かして貰ってるだけ。権利は私だが、実際譲ったも同然だ」
熊谷さんは、へらへらと笑った。
「私なんかが独りでやっていけるものじゃないから。榎木津さんとこに任せてるんだよ」
僕もえへら、と笑う。
「神主の方が向いてますよ、熊谷さんは」
どういう意味だい、と熊谷さんは笑った。
「…そうですよ熊谷さん、榎木津さんに頼めばいいじゃないですか!」
僕はひらめいた。この案にはかなり自信がある。
「有名な探偵でしょ、榎木津グループの御子息さんは」
「…知ってるよそれくらい。厭なんだよ…その有名な探偵さんの居るところは神田だぞ?ここ何処よ、京都よ?」
熊谷さんは両手を広げ、アメリカ人のようなリアクションをした。
「あと榎木津さんとこの御子息の次男―探偵さんとはあんまり仲良くない」
肩をすくめて、何か苦い思い出を振り返るような素振りを見せた。
一体何があったのだろう。
「でもやっぱり探偵ですよ、ここは。謎解きたいんでしょ?」
僕が云うと、熊谷さんはだらしなく口を半開きにした。
「謎解きねえ…あいつがそんなことをする様には見えんが。まあいい、フジ君、地図帳を寄越したまえ」
「はッ?地図帳ですか、何故?」
あぁもう君とは話が進まないなぁ!と、熊谷さんは嘆いた。
申し訳ない気持ちで一杯になる。これで相手の望んでいることややりたいことが、前もってわかるのならどんなに僕は良い人間なんだろう。
「神田まで行くから!地図見して!」
…
「いやあ暑いですな!」
いきなりだ。
その人はいきなりやって来てそう云った。扉をするすると開けて、すいっと事務所に現れて。
‘暑い’が最初の一言だった。
益田は思わずぽかんとしてしまった。
飲もうと思っていた湯呑みが、口の手前で止まっている。
「遠いなぁ神田。頻繁に来るはめになることだけは避けたい…」
急な客人は、ぶつくさと呟く。
「お、お暑いですねぇ。今日は」
益田は、とりあえず言った。なんとなくの場つなぎである。
「そうなんですよ。暑くて暑くて、死にそうだまったく」
「あ、あぁこちらにどうぞ」
益田は慌てて客人を案内した。すると客人は不思議な物を見るような目で見た。
「…ん?あなたは…寅吉さんではないですよね?」
「は、はぁ…」
違う。
「寅吉さんとは、和寅さんのことですかね?」
「和寅?あれ?…和寅さんだったかなぁ」
依頼人…なのだろうか。
「えっと、まずあなたのお名前を…」
「あ、はいえっと。熊谷菊弘といいまして。今日は礼二郎に用が…」
「れいじろう?」
益田は反復した。
すると、奥でなにやら家事をしていた和寅が「おやぁ!!菊さんじゃないですか!」と、目を丸くして出で来るもんだから益田も驚いた。
「ゆ、有名な人なんですか」
「益田君きみねえ、この人は」
「わ、私は只の神主で!今日は旧知の仲の礼次郎に頼みごとを、と!」
何かを隠そうとしている。
客人は大きな声で和寅の台詞を遮った。
「それにしても吃驚した。寅吉さんじゃない方がいらっしゃるもんだから」
お客さんかと思ったよ、と客人は結んだ。客だと思ってのあの第一声か。
「ああ、こっちは最近新しく事務所に入った助手ですよ。元刑事の益田君です」
「どうも初めまして、下僕二号です」
益田は軽口を叩く。
「おやぁ、寅吉さんは一号ですか」
客人もそれに乗った。冗談の通じる人間なのだろう。
しかし奇妙だった。
…職業が神主。だからこの和服なのだろうか。深緑の着物を着流している。細いが、確りとした体。髪は短髪で、前髪は右目を覆っていた。戦時中、負傷したか何かだろうか。顔は美青年の方だ。隻眼の、神主。
なんだか似ている人種を思い出した。
「まあお座り下さい、依頼でしょう?」
和寅がソファーに座らせる。益田は、和寅の隣に陣取った。
「依頼と言いますかね。知人から頼まれ事がありまして、それについて情報を頂ければと…。流石に人から頼まれたものを丸投げするわけにはいかず」
客人―熊谷が云う頼まれ事とは、三ヶ月前に起きた殺人事件のことだった。
「探偵みたいなことしてらっしゃるんですねぇ」
益田は、間抜けな顔をした。
「いえいえ、今回初めてこんなことになりましてね。実は、被害者の友人がウチの雇い巫女でして。それでまあ色々と面倒なことに巻き込まれてねえ。どうにかしてやらないといかんでしょう?」
「情報とは、どういった?」
「事件のことはいいんです。犯人や凶器に関することはとりあえず置いておきましょう。…お二方、土御門の会ってご存知ですか?」
「土御門ぉ?」
「宗教団体らしくて、私もよく知らないんですが。なかなか信者も居て、有名らしいんですけど」
「…聞いたことあります?和寅さん」
「今はうさんくさい宗教団体なんかは沢山ありますからな。…その宗教団体がなにか関係でも?」
「信者が次々と犠牲になるとか?」
益田は適当に云う。
「いや、そういうことは一切。殺された女性がそこに入っていたというだけでして…。まあ、安易な考えですけどそこを叩くのが一番適しているというか」
「…ねえ菊さん、お尋ねしますけど。ウチの先生には何故ご用が?」
和寅が、突然話を変えた。
すると何故か熊谷が厭そうな顔をした。
「なんです和寅さん、そりゃあの人は探偵ですから。用があってあたりまえでしょう」
「違うんだよ益田君、この人はねぇ先生のことが大嫌いなんだ。昔から菊さんは先生のこと避けてて、ねぇ?」
和寅は少しだけ笑いながら熊谷を見る。
「……避けてるつもりはありませんよ?そう見えていました?」
熊谷はそ知らぬ顔で、云った。
「それに先生が捜査をろくにしないこともし知ってる。ね、そうなんでしょう菊さん」
「勿論。武蔵野連続バラバラ殺人事件やらその他薔薇十字探偵社の関わる事件を解決したのは、アイツじゃないことぐらい知ってます」
熊谷はとことん厭そうな顔をした。
「アイツがまんまと京都まで来てくれたら楽だと思ったんですがねえ。アイツが目撃者の記憶を見ればいい。それで解決。土ナントカの会は適当な口あわせですよ」
丁寧な口調の態度はどこかに消えたらしい。
「え…?でも熊谷さん、あのおじさんに限って…誰かの云う事を聞くのは」
益田が言い終わる前に、熊谷は言った。
「ありえないでしょうな。だからこうやって君たち…優秀なる探偵助手をですね」
「菊さん、依頼なら先生に」
「…寅吉さん、頼みますよぅ。アイツとは関りたくない」
「それはあなたの都合でしょうに。先生は今日の夕方には帰ってきますから、頑張ってください」
「鬼だな寅吉さんは!」
いいのだろうか。和寅は依頼を断ったようだ。
「あ、あのぅ熊谷さん。その土御門の会って?」
益田は気になったので尋ねた。
熊谷は、簡単に和寅に見捨てられ不機嫌な顔をしていた。
一瞬、キョトンとした顔をする。
「え?土御門の会ですか。あまり詳しいことは知らないのですがね、安部晴明の生まれ変わりを崇める会みたいなものらしいですよ」
「胡散臭いっすねえ」
「ねぇ?…でもその胡散臭い安部晴明の生まれ変わりは居ないんです。探している最中なんです」
「探して?」
なんでも熊谷の話に寄れば、それは変わった会らしい。
信者を集める。悩みを聞く。そして…
「‘では晴明様に頼りましょう。さあ一刻も早く晴明様の生まれ変わりを探さなければ’と?」
「えぇ、信者と会員は血眼になって晴明の生まれ変わりを探しているんです。信者はほったかし。ですが金をぶん取るような真似はしていないようですから、害は無いのですがねえ」
熊谷はくつくつと笑った。
「…晴明って、確か中禅寺さんとこの神社それじゃなかったかなあ」
「神社のそれ?」
「あぁ、あのですね。僕らの知り合いに中野で古本屋をやってる人がいまして。その人も晴明を祀った神社の神主でしたよ。ねぇ和寅さん」
益田は言った。
「…もしや中禅寺とは、京極堂の中禅寺秋彦さんでしょうか」
熊谷は聞き返した。
「そうですよ。…熊谷さんご存知で?」
「知ってるというか…ウチも一応晴明を祀った神社ですから、京都の」
「そうなんですか?へえ、世間は狭いっすねえ」
「そうだ菊さん!」
和寅がいきなり大声を出した。
「な、なんです寅吉さん」
「あなたとりあえずその土御門の会についてお調べになるのでしょう?だったら丁度良い方がいらっしゃる。こちらから電話してお頼みしてみますよ」
「どこへ?」
「神主さんですよ、古本屋のね」
「…まさか中禅寺さんですか!?」
熊谷は榎木津の名前を出した時の倍の、厭そうな顔をした。
…
暑い。
私は汗っかきの方なので、今日みたいに暑いとすぐにシャツが濡れてしまう。厭になる。不快感だけが私を支配していた。
「ところで君は何をしに来たんだい」
目の前に対峙している男が、いかにも不機嫌そうな声でそう尋ねた。
ここへ訪れてから数十分―否、正確な時間はわからない―経っている。やっと主は私に興味を示してくれたのだ。いや、この男が私に興味をしめすはずが無いか。
「何か用が無いと来ちゃだめなのか」
「君がここへ来るときは、何かお荷物を抱えてくるだろうに。どうせその荷物を僕に丸投げする気なら、さっさと話せよ」
「お荷物って…そんなんじゃあないよ」
本当に、特に用は無いのだ。
「あのなあ関口君。なんだか気味が悪いぞ。用も無いのにそこで黙ってられちゃ」
私は何も言い返せず、うぅとかあぁとか言った。
「何かあるならはっきり言いたまえ」
「用と云うか、そ、相談なんだが」
「ほら見ろ。矢張り僕に用があるじゃないか」
‘何故君はそうすぐに本題に入らないのかね’
―京極堂は、出がらしの茶を啜った。
いつも、この男は不機嫌そうな顔をしている。まるで世界が滅んでしまったかのような、そんな仏頂面だ。だがしかし、今日は幾分と機嫌が良いようだった。ほんの少しの違いではあるが。
「何だ、今日は忙しかったかい」
「ふん、僕はいつでも忙しいよ。読みたい本が沢山あるんだからね。それとこれから客が来る」
「客?え、それじゃあ…」
「あぁ、君は居ても構わないよ。別に大事なお客様と云うわけでも無いからね。それに、いつか君にも紹介しておこうと思っていた人だ」
少しだけ酷い言われ方をした。私は空気と同じらしい。それに、これから来客すると云う人にも失礼な言い方だ。もてなす気が感じられない。
京極堂の昔馴染みでもくるのだろうか。
「僕の知らない人で、君の知り合いとなれば…本屋関係かい」
「うむ…どう説明すればいいだろうか。まあ、同業者と考えてくれればいい」
「だから、本屋なのかい」
「違うよ。神主の方さ」
「神主に知り合いが居たのか、君は」
居なさそうでもないが。
私には神主同士の友人と云う関係がなかなか理解し難かった。どういった経緯で知り合うのだろうとか、何か神主同士の集まりでも開かれたりするのかとか、余計な事を考えてしまった。
京極堂は、静かに本を読んでいる。
「何処の神主だい?」
「京都だよ。京都の晴明神社の神主だ」
「き、京都から」
「そうだ、わざわざ京都からいらっしゃる」
‘だからね関口君’
京極堂は、不機嫌そうに言った。
「君の相談事とやらを、早く話したらどうだ。その人の後じゃあ、遅くなるぞ」
それでも構いはしなかったが。
話すことにした。
「君は、土御門の会って知ってるかい」
「…鳥口君からの仕事か?」
京極堂は、片眉を吊り上げた。
「う、うんまぁね。その宗教団体について書くんだ」
「仕事を選びたまえよ。それで、土御門の会が?」
「いや、何ってわけじゃあないんだ。鳥口君の方で、少し気になったからと云うか、目に止まったと云うか…。ほ、ほら。今そう云う宗教団体が多いじゃないか。それで、その土御門の会のことを書くことになって」
「土御門の会、と云うのだから晴明が関係するのか。それとも晴明を信仰するのか」
「そ、それが。なんだかおかしいんだよ。君の云うとおり安部晴明を信仰する団体なんだけど。…おかしくて」
「何が」
「…う、生まれ変わりを探してるんだ」
「晴明のか?」
京極堂は、吊り上げた眉を、もっとしかめた。
「そう。信者を集めているんだが、信仰する御神体?が、まだ居ないんだよ」
「そんなので信者が集まるのか」
「た、たしか拠点は京都で、結構多かったよ。鳥口君が調べてたけど」
「安部晴明の生まれ変わりねえ」
「…目的が、掴めないだろ?だ、だから僕が頼まれて」
「頼むって云ってもだよ関口君。君は何を書くつもりだったんだね」
「だ、だから土御門の会のことだよ」
「土御門の会のことの、何を書けばいいのかわからないのだろうに」
「わからなくて、どうしようもないから君に相談しに来たんだ」
私が云うと、京極堂はあきれた顔でため息をついた。
「僕に言えば、なんとかなると思って仕事を受けないでほしいね」
私は、それを言われると何も返せない。
ああ、どうしようか。
ちりん、と風鈴がなった。
「こんにちは〜。居ますか〜?」
急に私は我に帰った。どうやらぼうっとしていたらしい。京極堂を見ると、読んでいた本が違うものになっていた。そんなに時間が経ったのだろうか。この男はものすごく本を読むのが早いので、それは当てにならないが。
「京極堂、お客さんだよ」
「わかってるさ、勝手に入ってくるだろ」
そこまで、旧知なのか?
なんだか可哀相な扱いをうけてるのだな、と思った。…私も似たようなものか。
「ちょっと、中禅寺さん?居ないんですか!?」
客は、少し声を張り上げた。
「きょ、京極堂」
「…ッたく。おい!居るから入ってきたまえ」
京極堂は、よく通る声で云った。
「なんだ、千鶴子さんはいないのか」
たと、たと、たと。
足音だろうか。
「ということは貴方の煎れたお茶を飲むことになるんですかね。それはなんとも希少なものだ」
笑っている。
私はその神主を見た。
右目を覆い隠した前髪。髪が短かった、京極堂の妹が丁度これくらい…否、それよりも少し短いか。
緑に近い灰色の着物。手土産や荷物など何も持っていない。なんとも、ぶらり寄りましたと云った格好だった。へらっと笑う、美青年。
「おや、もしや関口先生ですか?」
にたり、と笑いかけられた。…何故私を……。
「変に人をからかうのは止めろ菊弘君。特にこいつは、そう云うものに弱い」
京極堂が、いつもの調子で云った。
「それは申し訳ない。貴方がいつまでも紹介して下さらないのでね」
「今からするところだよ。関口君、こちら京都の晴明神社の神主」
「熊谷菊弘です、初めまして関口先生」
熊谷は京極堂の言葉を奪った。京極堂がぎろりと熊谷を一瞥する。
「あ、あぁ…関口です」
「よく存じておりますよ、読んでますもん」
熊谷が、ペラペラと話し出す。いつの間にか、座っている。
「あぁ私ね、カストリ雑誌とかも読むんです。だから関口先生は文壇じゃなくても、そういう所で」
「おい君。君ね、いきなり失礼だぞ。すまないな関口君、こいつはそういうひねくれ者でね」
「御冗談を」
熊谷は、笑っている。白く、きめ細かな肌。長い睫。見とれる程の美形だった。
しかし気になるところがあった。
…その、右目は何故隠している?
「武蔵野バラバラ殺人事件とかも存じてますよ。礼二郎の記事のオマケに書いてありましたからねぇ関口先生のことは」
「れ、礼二郎って榎さんのことですか?」
「あー、私はですね。榎木津財閥と関係がありまして。ヤツとは腐れ縁。事件のことだって知っていますとも」
「菊弘君、それで君の用件は何だい」
京極堂は、急に切り出した。は、として熊谷は口火を切った。
「中禅寺さん、中禅寺さんはお聞きになりました?」
「何が」
「土御門の会」
土御門の会だって?
「く、熊谷さんそれってもしや」
「菊弘で良いですよ。あら、関口先生はご存知でしたか。そんなに有名なのかね、土御門の会」
「…関口君はその土御門の会について記事を書きたいんだそうだよ」
京極堂は茶を啜った。
「ははァこれはこれは。もしや土御門の会の信者が殺されたことをお書きになられるので?」
「こ、殺された!?」
「私はその事件の関係で、ここへ来る羽目になりました。違いましたか?」
熊谷は、目を細めた。微笑んだのか?
「菊弘君、まず君の話を聞こうか」
熊谷は、今までのいきさつを話した。
「…その、センさんのご友人が信者なのだね。そしてセンさんはご友人と土御門の会の会長との関係性を知ってしまった」
「つっても事件は三ヶ月前の話。警察は行動しなくなりました。土御門の会が大きな権力を裏に持っているのなら尚更動かないででしょう。実際彼女−センも被害をこうむっています」
「その、センさんは…ぶ、無事で」
「大丈夫ですよ、既にウチの神社で保護していますから」
熊谷が諭すように云う。
「だから土御門の会のことを調べてたんです。私は」
「三ヶ月前に起きた、殺人事件…」
私はぽつりと呟いた。
「確かな事は全くわからなくて。散々新聞や雑誌に書かれた情報以外で、私が手に入れた情報と云えば、土御門の会の目的ぐらいで…」
熊谷が、顎を触った。
「安倍晴明の生まれ変わりを…探している」
「そうです」
私は、ほうと溜息をついた。
私がやろうとしていたことが、同時に他人もやろうとしている。
おかしなことだ、と。思った。
たと、たとたとたと。
…足音か?
私は、熊谷の方を見た。熊谷は私と目が合って、小首を傾げた。
たとたとたとたと、たと。
足音の方を見ると、柘榴が
「う、うわああッ」
柘榴―京極堂が飼っている猫だ―が座敷に入ってきた。そして、熊谷が悲鳴を上げて京極堂の方に飛び退いた。
「菊弘君、邪魔だ」
「ち、ちゅうぜ、中禅寺さん!ね、猫が居るのなら、居ると」
教えて下さいよ!と情けない声で云った。
柘榴は、そんなもの関係ないと云った風体で、机の下にさっさと丸くなった。熊谷は後ろの本棚に背中をくっつけて座っている。余程嫌いらしい。
「菊弘さんは、猫がお嫌いなので?」
「き、嫌いと云うか厭なんですよ。なんかこう…ぬるんとしていませんか?…ぅおおッこっち見た!」
「ぬるんと…しているというのは」
よく理解できないが、ここまで猫を怖がる人間は初めて見たので、思わずふっと笑ってしまった。
可愛らしいものだ。
「なんだか、意外ですねぇ」
私は笑いかけてみた。おそらく顔の筋肉が痙攣しただけなのだが。
すると京極堂が、一層不機嫌そうな顔をした。
「関口君、そろそろ脳に虫でも湧いたかね?こいつのことを若者で初々しい気持ちで眺めているだろう。それなら即刻止めるべきだね」
「そ、そんなことは」
「熊谷菊弘は僕らと同い年だよ」
「……は?」
「おや、関口先生ったら私を若者だと?」
「確か、同い年だよな菊弘君」
「多分そうでしょうねぇ」
若すぎる。
私や京極堂だって、年はそこそこいっていて、顔に皺とかそう云う…
「それと他にも色々あるぜ」
ぐるぐると考える私を余所に、京極堂は意地悪そうに笑った。
「ちょっと、あんまりがっかりさせるようなこと言わないで下さいよ。若いと思われるのはいいことなんですし」
熊谷は、照れ笑いをする。私はその笑顔がよく見えない。頭の奥がぼーっとしてきて熱を持つ。
まだ、青年のようなあどげなさ。榎さんには無い、美しさがあるのだ。
歳を取らない、のか。
でも人形のような、止まってしまった美しさではなく。
常に変化し続ける生き物特有の、まやかしの美しさ。
この人は…。いやまさか。
私は、昔絵巻で見たとある妖怪を思い出していた。
美しい女に化ける妖怪を。
…ん?女?
そこで、電話が鳴った。
「おや、何だろうか」
京極堂は、すっと立ち上がった。
私は、熊谷と二人残される。
「関口先生」
熊谷は、元の定位置に居た。私は驚いて体を硬直させた。
奇麗な顔だ。
「そんなに驚かなくて良いですよ。なんだか誤解させてしまってすみませんねえ。私は中禅寺さんと同世代…つまりあなたとも同世代ですよ。…よく若く見られるんです」
熊谷は笑う。
「それと、存じませんか?滅びた資本家、熊谷家を」
熊谷家。
確か、戦中滅んだ財閥だった。私でさえも聞いたことがある…
「え…えぇ!?熊谷って、熊谷ってあの熊谷家ですか!」
「そうですその熊谷家です。私そこの跡取りということになってましてね。でも神主ですから、資本と土地と全てを榎木津グループに投げましたよ、言い方は悪いですけどね」
「だから榎さんとお友達…」
「まあ、友達と云いますか、ねぇ。本当に腐れ縁で」
熊谷は、前髪を揺らして笑った。よく、笑う人だと思った。
「菊弘君、君に電話だ」
京極堂が、相変わらずの仏頂面で現れた。
「電話?」
「安和君からだ。急ぎの用らしい」
「やすかず?……ああ、はいはい」
熊谷は最初きょとんとしていたが、名前の主を思い出したらしくすぐに電話の元へ去って行った。
「…京極堂、彼は」
「言い忘れていたが関口君、奴は」
「なんだって、土御門が?」
熊谷が大きな声を出した。
「ちょ、待って寅吉さん。とりあえずその巫女…センには御婆さんの所に居ておけと伝えてください。それとフジ君を呼んで、あぁ巡査です巡査。近くの交番に居ますから。言えばわかります。大人しく何もしないで、と。こちらからまた連絡を入れます。とりあえず、待てと伝えて下さい」
低い声だ。
「どうした菊弘君」
京極堂が、本を閉じる。
「中善寺さん、土御門の会がウチの神社に押しかけてきたそうです」
電話を終えてきた熊谷が、小走りで座敷に戻ってきた。
笑顔がひきつっている。
「そ、そんな。何故」
私は落ち着かなくなって腰を浮かせた。
「どうやら晴明の生まれ変わりが、見つかったようですよ」
熊谷は懐から扇子を取り出し、仰いだ。
「菊弘さん、ま、真逆と思いますけど」
私は、はっきりと何かを思い出した。
安部晴明の母親は、確か
「ええ関口先生、お察しの通り。私が安部晴明の生まれ変わりだそうですよ」
熊谷は長く溜息をついてから、からからと笑った。
未完
その後のネタバレ
予定としてはこのまま中禅寺と関口、そして不本意にも榎木津を連れて京都へ戻る菊弘。
作戦は、敵の本意通り菊弘が安部の生まれ変わり、子孫であることを認めそのまま神社で『神おろしの儀式』を始める。信者と会長を騙し、神を榎木津におろしたと言う菊弘。
それを関口視点で描くことによって菊弘の魅力や魔力、人を騙す事の出来る雰囲気を描くつもりだった。
神のおりた榎木津には人間の記憶が見えるので、会長のたくらみが露呈してしまう。
しかし企みという企みは無く、ただ彼は何らかの影響を受けてふと閃き、土御門の会を立ち上げたのだった。
榎木津の能力のおかげで巫女センの友人の殺人事件は、会長である恋人の独自の犯行であることが判明し無事事件は解決。
しかし関口は不思議でたまらない。何故こんな茶番が?
しかしその疑問には中禅寺は答えてくれなかった。菊弘も「まあこんなこともありますよ」と誤魔化すだけであった。
真相としては、菊弘を表舞台に無理矢理引っ張り出すために堂島が暗示を掛けまくっていただけである。菊弘に相談を持ちかけた巫女センも知らずに堂島に暗示を掛けられている。
最後に、堂島と菊弘が再会するシーンで物語りは終わる。
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