夢魔と逢い引き


その女はいつも私をそうやって誘う。

「何を畏れるか伯爵?貴方にはもう、畏れるものなどないはずだがね」



女は満面の笑みで云った。馬鹿にしたような態度だった。
女の白い肌に、透明な液体が輝いている。
水の粒が、女の体を濡らしていた。

「怖いかね?伯爵」

次は、私を出迎えるかのように両手を広げてみせた。
口角を上げて“伯爵”と呼ぶ。
「その名で呼ぶなと云った筈だ」
私は話を逸らす。
しかしそれは、女の言葉を肯定してしまう行為である。
だから女は、酷く楽しそうに笑った。

「ヒハハハ!…それは失敬イタシマシタ。では何と呼べばいい?」

「お前が付けた名で呼べばいい。そのために付けられた名だ」
私は、無意識のうちに拳を握り締めていた。
何時間も、この場に立っている。

古城の、今にも崩壊しかねない門の下で、私はずっと立ち往生していた。



吸血鬼にとって、流水は凶器である。
日の光は克服した私でも、流水はまだ駄目だった。

先日、無理やり、水溜りの中に足を突っ込まれて(勿論この女にだ)、危うく溺れるところだった。
それを見て、女は私に流水と克服しようと提案したのだ。
「日の光を克服したときは、己の意思でやったではないか。ここでその名を呼んでしまえば、ただ我輩が貴様を使役しただけとなる…意味がなかろうに」

女はやれやれと肩をすくめた。
その動作で、髪から水が滴る。
私は、それを見るだけで厭になった。

女の体の表面を、流水が犯している。
そんなイメージが、強く私を支配していた。


ざあざあと、空が喚く。


私は空を見上げた。

灰色、白に近い水の粒。
一斉に降り注ぎ、終わりが計らえない。

「日光の時は、仕方なくだった」

私は、弱音のような台詞を吐いた。
正直言って、精神は今にも引き裂かれそうなのだ。

濡れていないとは云え、湿気で私の衣は水を含み始めている。

いっそ脱いでしまおうと、タイに手を掛けたが止めた。
無防備な体が、少しでも濡れるかと思うと、ぞっとする。

「仕方なく?…まあそうか。急に日光の下に貴様の棺桶を放り出したのだからな」
女は肩を震わせて笑っている。その時のことを思い出しているのだろう。
「そして私を無理やり起こした」
「寝ぼけていたから、最初は平気な顔で立ち上がったじゃないか」




日の下に立ったその刹那、私は銀の刃に貫かれた。
刺すような痛みに対する不安と、目の前にこの女が居る安心が、交互に激しく競り合い

私は安心へと駆けたのだった。

日の光の下で、貪るように女を吸血した。
欲求に従うしかない。他のことを感じてしまえば、私はきっと終わりなのだ。
そんな感覚に陥り、満たされたと思った時には、銀の刃だった日光は“暖かさ”へと変わっていた。


「食欲…否、性欲か。結局貴様は化物になっても、男の性を忘れられぬのだな」

女は“やれやれ”と腕組みをした。

「…そこで好きなだけ嘲笑っていろ。この憎たらしい雨が止んだら、憎たらしいお前を切り裂いてやる」
私は女を睨んだ。
まったくもって、強がりでしかない。

「ほオ、それは楽しみだ。…しかし断る。止んだのならば、川で水泳でも始めるさ。運の良いことに、すぐ近くに川が流れている」
ニタリ、と笑った。この女はどこまでも考えている。
「一度体験してみよ伯爵。痛みを知らずして育つ赤子はおらぬ」

私を赤子と云うのだろうか。

私はもう一度、空を見上げる。
早く止んでしまえと呟き、ふとした好奇心から、手を差し出してしまった。

途端に、銀の矢が私の掌を貫く。
そんなものは妄想だ。しかし痛みはまさにそれである。

「くッ……」

私は思わず声を上げた。
女の方を見る。
女は、酷く妖艶に笑っていた。
私へと近づく。
数メートルの距離があったのが、もっと手を伸ばせば届く範囲になった。

「痛いか伯爵」

痛みはある。細い矢で突き抜かれる痛みが。
だが、しばらくするとその痛みは、私の手を岩のように硬くしていった。

私は己の手を見つめる。

何が起きているのか。
「吸血鬼は流水に触れると動けなくなるらしい。参ったな伯爵」
女は呑気に笑っていた。
いい加減腹が立って、私が濡れて固まってしまった手を、女の方に伸ばした。
しかし私の動きは鈍く、女は速かった。
すっと、一歩分の距離をおかれてしまう。
そしてたちまち、雨は私の腕を濡らした。

「ヒハハ、右腕の自由は奪われたな」

女は、私の気も知らず楽しそうに笑っている。



「血が、」

飲みたい。そう思った。
「そうだろうな。もう六時間もこうしている…腹もすくだろうよ」

「こっちに来い」

私は女を睨んだ。
右腕は、差し出されたままである。

「貴様が来い。さすれば与えてやる」



(悪魔め)

私は心の中で呟く。
実際、目の前の女は悪魔の笑みを湛えている。
私は、一歩を踏み出した。

全身が、雨に晒されている。

その姿は、まるで襲われる前の少女のように無力で、私には耐え難い屈辱だった。

目しか、動かせなくなる。
今の私は無力だ。たちまちに殺されてしまうだろう。

「怖いかアーカード」

女は詰問した。

こういう時だけ、私を支配しようとする。

「答えたまえ、我が愚弟」

「怖い」

私は素直に答えるしかない。
口を動かすのがやっとだった。

「そうか怖いかアーカード」

女はクスクスと笑った。本当に憎たらしい女だ。
もう私の口は動かない。
ただ、口内で舌は乾き、歯ががちがちと震えている。頬は動かないから、なんとも不思議な感覚である。

「ほら、早くこっちへおいでよ」

おいでよ、と云われても。
体が動かないのだから無理な注文だ。

「アーカード」

しかし名前を呼ばれれば、従うを得ない。
私は、めきめきと軋む体を、一歩一歩進めていた。
しかし、女もそれと同じく、一歩一歩と離れていく。

「おお、流石は“真祖”だな。ほらみろ、大丈夫だったろうに」

そう云うが、ちっとも平気ではない。
私は歯を食いしばった。
ぎりぎりと、嫌な音が脳内で響く。

血が欲しい。

血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。




この女が欲しい。

私は女の体を、隅から隅まで視た。
もう何度も何度も、幾度も抱いたその身体。
すでに己の物とも云えるぐらいに解っている。

しかし、女の姿は今にも消えてしまいそうで


私はいつも不安になってしまう。
安心するためには、女の実体を、この手で触らねばならぬ。


「サキュバリエス」


私は堪らず女の名を呼んだ。
女は少し驚いたような表情を見せる。
「こっちへ来い。離れるな」

私は云った。
すると女は、とても楽しそうに笑う。腹が立つが、そんなことはもうどうでもいい。

「こっちへ来い、サキュー」

「フフフ」

女は含み笑いをこぼした。
こちらへゆっくりと近づいてくる。

「どうした我が愚弟?何故呼んだ」

手が届く範囲に女が居る。

「逢引きだ」

私は低く呟いて、女を押し倒した。
短い草が、グシャッと音を立てる。
女が声を上げて笑う。

「ヒハハハハ!随分と野蛮な逢引きだな、アーカード」


私は女の口を己の口で塞ぐ。

しばらく乱暴に舌を絡めあって、離れた。
「…お前の逢引きの方が性質が悪い」

私は自由に動けるようになった体で、女の肌を撫でた。
やはり女は、笑っている。

「でも流水を克服できたじゃないか」
「それでも、嫌いなものは嫌いだ。もう、こういうことはしないからな」

私は云いながら、女の首を舐めた。
女は、くすぐったそうに体を震わす。
「それは残念だ。次は銀に挑戦するつもりだったのに」

女は笑った。
私は女の首筋に歯を立てる。


憎き流水が、女の血を洗い流していく。
私は、どれひとつ逃がさないよう必死になって女の血を吸った。







「結局アレか。貴様はヤりたいから雨の中に突き進んだのか」
「いいや、血が吸いたかったからだ」
「……せめて性欲に負けてくれよな。我輩は食糧以下か」



End


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