見えない
「おい、我が愚弟よ」
かすかに呼ぶ声がした。
「起きていないのか?………アーカード」
どこかで声がする。
私は体を起こした。
「そちらの景色は見えんのだ。状況を教えろ」
おそらく笑っているであろう、その女の声は機嫌がよさそうだった。…いや、奴が機嫌の悪かったところを見たことがない。
「起きているとも」
手元の机に置いたままだった赤ワインに手を延ばす。
「そうだよな、もう夜だ」
ヒハハハ、と特徴のある笑い方をする女。
夢魔・サキュバリエス。
「どうしたのだサキュー。姿を現さず声だけで語りかけてくるなんて…珍しい」
「手が離せないんだ。さして幻像を出すのも面倒だ。とりあえずは国内にいる、だが声だけ送った」
昨日から姿が見えないサキュー。
おそらく観光と称して人間観察にでも出かけているのだろう。物好きめ。
「で…?手が離せないくらい多忙な我が愚兄は一体なんの用だ」
からかい気味に言ったが、奴はまったく気にしていないようだ。
「どうやら地下に閉じこもっているようだな」
サキューは言う。
「ああ、」
「外に出る気はないかね?我が愚弟」
「要領を得んな。何がしたい」
途端に、景色が暗闇に変わった。憎たらしい夢魔が、私を悪夢へと誘ったのだろう。
私は、すぐに声を張り上げて奴を呼んだ。
「サキュー!」
「…ヒ、ハハハ。そんなに焦らずとも悪いようにはしない」
サキューは笑いながら背後に立っていた。
「可愛い我が愚弟よ、それ程までに我が輩の見せる悪夢は怖いかね?」
「からかうために引き寄せたか」
「怒るなよ」
私は酷く腹が立った。
おそらく悪夢の中にいるからだろう。
奴の悪夢にいると、忘れ去ったはずの人間の感情と云うものが蘇る。
確かな確証は無いが、そんな気がしてならないのだ。
「怒ってはいない。腹が減ったのだ」
私は嘘をついた。
悪夢をなぎ払う。
するとサキューの姿は蜃気楼となり、元の私の地下室へと戻った。
私は椅子から立ち上がっていた。
しばらく黙って、下を向いていた。
待ってはいるが、サキューからの声は途絶えたままだ。
「………何だと云うのだ…」
私は小さく舌打ちをして、地下室の壁をすり抜けた。
サキューの意識を追い、ロンドンの夜を駆ける。
だんだん近づいたと思えば、そこにはビック・ベン……ロンドンの時計台があった。
「おお、やはり来たか」
サキューは呑気に笑った。
「あんな終わり方だと気になって仕方がないだろう。一体なんの用だったんだ」
まぁこっちに来い…と、サキューは私を誘った。
「腹が減っているのだろう?」
口から出任せに云ったのだが。
私は少し笑って、サキューの体を引き寄せた。
華奢な体が、私の赤いコートに包まれた。
サキューの神父服が、なんだか私を拒絶している。そう思ったので、奴から神父服を落とした。
「あぁ、汚れる」
ろくに手入れていない時計台の頂上。
埃にまみれてしまえばいいさ、そんなものは。
私は、サキューの首に歯を立てる。
静かに彼女が喘いだ。
「ところで我が愚弟よ」
小さな声。
「我が輩が貴様を呼んだ理由を教えてやろう」
耳元で妖艶に囁かれる。
私は、二つの傷痕を舐めてから顔を上げた。
白い顔の、向こうには
真っ白な月が、私を見下ろしていた。
嘲笑うかのように。
月は、私を罵っている。
ああ、綺麗な光を放つ月よ。
だが私にとってお前は
厭な存在でしかない
「月が綺麗だったからな。教えてやろうと思ったのだよ」
女は微笑んだ。
「そう思わないか?」
「見えない」
「見えない、と?」
私は、サキューごとその場に跪いた。サキューは私の顔を触る。
「ああ、見えない。月など」
見えやしない
悪魔でさえも
月に魅力される
それなのに私は、
私は
「月など見たくない。…………サキュー、これは」
お前の見せる悪夢なのか。
孤独な伯爵
「そうか、見えないか」
サキューは、聖母のように微笑んでアーカードの髪を撫でた。
.
← →