ドレミの歌



徹夜明けの仕事から帰ると、我が家のドアは半壊していた。
蝶番でやっと止まったというような。
早く泥棒に入ってくださいと言わんばかりの開け放ちよう、に家の主は肩を落とした。

「…グレル?ただいまー」

室内履きに履き替えて、部屋の様子を見る。
空き巣にやられたわけじゃない。
ただ、奥の一室に向かう廊下には何かでひっかいたような、そんな傷跡がたくさんついていた。

何があったのだろう?

いや…何をしたのだろう、という考えの方が正しい。

ラクスは寝ぼけていた頭にスイッチを入れて、奥の部屋を目指した。











「あなたの演奏は、全然楽しそうに見えないわね」


ピアノの先生は、そう言った。
そのときの先生の顔がとても悲しそうで、俺はすごく不安になったのを覚えている。

なぜ、先生はとても悲しそうな顔をしたのだろう。

「今日の演奏はとてもよかったわね。ひとつも間違わずに弾けたわね」

お母様はこんなに褒めてくださるのに。
先生はいつも、俺の演奏を聞くと悲しそうな顔をした。
あなたは、楽しくないのねって。


先生、


楽しいってなんですか?




「グレル、せめて服を着てから弾いたらどうだ?」

「んあ?」


グレルはがばりと顔を上げた。

じゃんじゃららーん、とでたらめな音が鳴る。
鍵盤を下敷きにしていた。

「……それで、お前はこれを一人で担いで持って帰ってきたのかい」

ラクスは呆れながらもグレルにシャツを渡した。
寝ぼけ眼を擦りながら、そのシャツを受け取り袖を通す。

「………ええ、酔っ払ってたのねえ…担いで持って帰って来ちゃったワ」


グレルは、ピアノに突っ伏して眠っていたのだった。

「こんな大きなもの…よく、担げたね」

「そうねえ、我ながらびっくりしてるところヨ」

と、言いつつも呑気に欠伸をする。
グレルは頭をがりがりと掻き毟り、時計を見た。そして驚愕する。

「ヤダ!アタシ今日は朝からウィルに呼び出されてんのヨ!」

「ちょ、グレル!なっ何を」

グレルはラクスからスーツを引き剥がす。

「貸しなさい!もう自分の服を出してくる暇は無いのヨ!」

「え、だからって!私の着ていたものを…うわっ、だ、だめ」

「ダメじゃない!変わんないワよ喪服なんだから!」

グレルは暴れて抵抗するラクスを壁に押さえつけて、ベルトを外した。

「し、下も!?」

「下も!ほら暴れない!早く脱いで!」


グレルは軽々とラクスの服を脱がしていく。
ラクスは涙目になりながら抵抗を試みるが、叶わなかった。

「じゃあ、行ってくるワね!」

「い、行ってらっしゃーい……」

ネクタイだけ自分の物を探し当て、グレルはばたばたと階段を下りていった。

シャツ一枚だけになったラクスは、とりあえず涙を拭いて自分の私服に着替えに別室へと消えた。






「おはようございます、グレル・サトクリフ」

「おはようウィリアム」

グレルは髪を整えて慌しく立ち上がった。メイクもばっちり化粧室で済ませている。

「…珍しいですね、貴方が飲んだ翌日に遅刻しないなんて」

「丁度シシーちゃんが帰ってきたから、大丈夫だったのヨ」

「それで、貴方はラクスさんの服を着ているのですか?」

「……なんで分かるの」

「昨夜、ラクスさんはそのスーツにメモを取った付箋紙を何枚も貼っておりましたので。まだ数枚外し忘れています」

「…あンの職業病」

グレルはウィリアムに指された腕の付箋紙を乱暴に剥がした。

「自分のを着てきなさい、ラクスさんもさぞかし困ったでしょうに」

ウィリアムは眼鏡を押し上げる。

「そんなことないワ、アタシにひん剥かれて喜んでたワよ?」



「へっきゅ、しゅ!!…ん?」

ラクスは私服に着替えながらくしゃみをした。

和服に袖を通して、帯を締める。

「はー…やはり着物は楽だ。スーツばかりだと肩がこる」

今日は久々の休日だ。のんびりと体を休ませるつもりだった。


しかし、このピアノ。どうにかしないといけない。
グレルが昨夜酔っ払って持ち帰ってきたピアノ。

それよりも先にどうにかしないといけないのはドアだ。
先ほどグレルが出勤の際に乱暴に扱ったものだから、二つついていたはずの蝶番はひとつになっている。
こんなこともあろうかと、蝶番を余分に買っておいてよかったと思う。
心底思った。
とにかくラクスは住まいの修復に掛かった。

昼ごろになると大家がやって来て、愚痴を聞かされた。
昨夜はそうとう喧しかったようだ。
詫びの品だといって、ファントムハイヴのお屋敷からもらった洋菓子を渡した。

すると大家はそらもう腰を抜かすくらいに驚いて、恐縮そうにぺこぺこと頭を下げながら去って行った。

「すごいな…ファントムハイヴ社のお菓子は、やはり有名なのだな」

感心しながらラクスは作業に戻った。

大家は驚愕した。
あんな変人二人が、まさかファントムハイヴの関係者であるとは…。

ラクスはシエルに余ったからと、限定品であるお菓子の試作品を上げたのだった。


大家の愚痴を聞きながらも、ドアの修理をし終えたラクスは伸びをした。
さあ、あとは廊下の壁紙の張替えと、ピアノだ。





「先輩、なんか今日苛々してませんか」

「ん?」

グレルは死亡予定者リストの整理をしながら、顔を上げた。
呑気そうな顔した後輩、ロナルドがそこに居た。

「してないワよ、別に」

「そうッスか?さっきからずっと怖い顔してますよ」

ロナルドは上着を椅子にかけて、グレルの向かいに座った。
グレルの顔は机に並べられたファイルやバインダーの隙間から見える。

グレルもその隙間からロナルドの顔を見た。

「凛々しいの間違いデショ?ンフ」

「…いや、俺の見解は間違いないッス。何年先輩といると思ってるんスか」

「生意気ネー、アタシと何年居ようが理解できないものは理解できないワよ。気難しい乙女だから☆」

「まあ俺に被害はなさそうなんでよかったスわ」

ロナルドはグレルのウインクを軽く手で払うと、チケットを渡した。

「これ行きませんか?管理課の女の子と行くはずだったんですけど、その日その子が仕事入っちゃって」

「…え゛?もしかしてアンタと一緒に?」

「あからさまに厭そうな顔をしないでくださいよ。違いますよ!ネリテイ先輩とですよ」

「シシーちゃんがクラシックねえ」

「ネリテイ先輩、クラシック嫌いですか?」

「いいえ?そんなことは無いと思うけど…まあ考えとくワ。有難う」






グレルは二枚のチケットを指に挟んでひらひらと泳がせた。
すっかり日が暮れて、通りには人がせかせかと歩いて自分の家に帰っている。

(クラシックかあ)

嫌いではない。だが、好きでもない。
音楽自体が嫌いというわけではなかった。ただ、ピアノの演奏を見ていると苛々した。

「………あぁ、だから」

苛々してたのかもねえ。


グレルはスーツの上着を小脇に抱えて、階段を上っていった。
2階にある二人の小さな住まい。
半壊していたドアはいつの間にか完全に治っていて、グレルは口笛を吹いた。

「いいお父さんになるワ、あの子。―ただいま」


ドアを開けて玄関に入ると、思わず立ち止まってしまった。
ピアノの音が聞こえる。

何の曲だかてんで分からない。いや、曲というよりも適当に音を鳴らしているようなそんな感じだった。
室内履きに履き替えて、廊下をずんずん進んでいく。
廊下の壁紙も新しくなっていた。
だがグレルの目にはそんなもの見えちゃいない。

「ちょっと…何してんのアンタ」

「う、わああ!おかえりグレル」

ラクスは慌てて立ち上がった。
ピアノの前であわあわと慌てている。

「晩御飯は済ませたのかい?一応作ってあるけど」

「そのピアノ、捨ててこなかったの」

見たくなかった。ピアノなんて。

「捨てるも何も…もうドアも廊下も綺麗にしたんだ、担ぐのはできたけど大体これを担いで街を歩くなんて目立つし…。分解して運ぼうと思ったら、私はピアノについて何も知らないし…とりあえずは置いておこうかな、と」

「そんなの、めちゃくちゃに壊しちゃえばよかったデショ」

グレルは前髪をかき上げる。
やはり苛々した。

「それは出来ないよ、楽器は大切にしないと」

「……で、弾いてたの?それ」

「は?あ、いや…弾くも何も」

ラクスは恥ずかしそうに首の後ろを掻いた。

「ピアノはファントムハイヴのお屋敷で、伯爵殿が弾いてるのを見たくらいだよ。私は琴とか三味線とかは弾けるんだけどね。異国の楽器はさっぱりだ」

「…ふーん」

楽しそうに笑うラクス。
グレルはなんだか馬鹿らしくなった。なぜ自分はこんなにも苛々しているのだろう。

ラクスの上着をベッドに投げ捨てて、グレルはピアノの前に座った。
鍵盤の上に、指を滑らせる。

「弾けるのかい?」

「いいから、アンタも座って」

グレルは鍵盤に指を置いたまま、厳しい口調で言った。
ラクスは小首を傾げながら隣に座った。なぜグレルが怒っているのかわからない。

そりゃそうだ、グレル自身だってわかっていない。

大人二人が椅子に座ると、ひどく狭かった。
だがグレルは気にしなかった。


指がまだ、覚えているのだろう。

ふと鍵盤を叩くと、次から次へと指が勝手に動いた。








「………はい、終わり」

グレルは鍵盤から指を離した。
ものすごく久しぶりだったので、指はところどころで躓き、演奏は完璧だとは言えなかった。苛々した。

「す、」

ラクスは、そんなグレルの両肩を掴んだ。

「すごいなグレル!なんだお前!ピアノとか弾ける人だったのかい!」

両肩を掴んで揺らす。
感動しきっているらしく、ラクスはぴっかぴかの笑顔でグレルに言う。

「びっくりしたなあもう!指が、すっごい動くんだもの!どんな隠し芸だよ、すごいなあ!」

「は、はあ…そんなに?」

ラクスに上体をがくがくと揺らされながら、グレルは力なく問う。

「だらららららーって弾いちゃうんだもの、なあ…私はこんなの無理だよ。すごい、本当に。本当にすごい。すごく、いい曲だった」

「……何回か間違えたのヨ?」

「え?そんな、気がつかなかったよ」

ラクスはぽかんとする。
グレルは溜息をついて、もう一度鍵盤に指を落とした。

「この、たたたん、たららららん…ってとこがネ。本当はこうやって、こう」

「……ふんふん」

「で、こう……ネ?違うデショ。癖なのヨ、アタシ昔からここばっかり間違えて」

「うん、まあ私には分からないのだけど」

ラクスは困った顔をした。

「ドレミファソラシドぐらいわかるデショ」

グレルはふっと笑った。

「でも弾けないし、やっぱりすごいよ。私は感動した」

「そんなに?」

ラクスがあまりにも真剣に言うものだから、グレルはクスクスと笑い出した。
そしてゲラゲラと笑い出し、ラクスに抱きついた。

驚いて椅子から落ちそうになるのを踏ん張って、ラクスはグレルを抱き返す。

「な、何?急に」

「別に?ほらほら、教えてあげるから弾けるようになりましょ」


グレルはラクスの手を取って鍵盤に置いた。





ピアノの先生は悲しそうな顔をしていた。
アタシがピアノを心から楽しんで弾けないことを、悲しんでいたのだと思う。
今思えば、なんて余計なお世話なのかしらと憤慨する。
でも、逆にありがたい気持ちもあった。すこしだけ。ほんのすこしだけね。

今でもアタシはピアノは楽しくない。

でもまあ、こうやって可愛い恋人にピアノを教えてあげるってのは
楽しくないわけでもない。

「はい、ドー、レミー、ドミードーミー。そう、でレーミ、ファファミファ、ラー。そのラーは小指でするの」

「う、指が…つるっ」

「何ヨこのくらいで」




ピアノのことも何もわかっていないこのラクスと、クラシックのコンサートとはこれまた一興だ、と。
グレルは企みを膨らますのだった。


「で、これは何の曲なんだい?」

「ドレミの歌ヨ、あんたなんか童謡で十分」

「………三味線は、名人だと言われたのに…」



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