拷問のスペシャリスト




助けようとは思っている。
罪も無い女だから、助けてやらなくてはと思っている。
死亡予定者ではあるが、その死因は男に首を絞められたことによる窒息死だ。
死亡する予定ではあるが、その時刻はとっくに過ぎている。

「グレル、もう気は済んだろう」

助けてやろうと思って声を出す。
しかしその声は微かな息とともに小さく闇に吸収される。
だからまったく相手には聞こえていない。

女はもう声も出ない。
猿轡をはめられている上に、痛みによるショックで失神しているのだ。
その隙にグレルは次のことに取り掛かっていた。
髪の毛を燃やしてやろうというのだろう。
血に塗れたブロンドの毛先をこよりを作る動作で細くしている。
グレルの手にはマッチ箱が握られていた。

女を殺そうとした男の懐から拝借したものだ。

私は体にきつく食い込んでいる鎖をガチャガチャと鳴らした。
大きく咳き込むだけで鎖は派手な音を立てる。
それほどまでに鎖は食い込んでいた。
鎖と一緒に巻きつけられている有刺鉄線が肌を傷つける。
うまいことに、有刺鉄線は肉を食い破らないように緩く巻きつけてあった。

拷問の才能があるな、と思った。

「うるさいワね。なぁに」

グレルはやっと私の方を見た。
「まだ気が済まないのか」
「ええ、まだ全然赦せないワ」

にっこりと聖母のように微笑む。

私は苦笑いするしかなかった。

グレルは女の髪の毛を一心不乱に解きほぐす。
手櫛でブロンドは解かれる。
それを男ならうっとりと見つめるところだが、グレルは汚物を触るかのような目で眺めている。
「きったない髪!」

グレルは手櫛をやめると、瞬時にマッチを擦り火をつけた。
ブロンドの髪にオレンジ色の灯りが宿る。
髪はじりじりと燃え上がり、異臭を放つ。
「臭いワ。ほんと臭い」

グレルはにやにやと笑った。

女はまだ気がつかない。
グレルはご機嫌にどっかりと椅子に腰掛けた。
そこには、男が座っていた。しかし男は何の反応も示さない。
つい数分前にグレルが殴り殺したのだった。

人間椅子だな、と私は呑気に考えた。
そして、助けなければと思った。

本来、死亡予定時刻をなんらかのアクシデントで過ぎてしまった人間は我々死神が直に手を下しその魂を刈らねばならない。
しかしこれは、死神によって故意に起こったものであり、その人間は一時保護される。
グレルがふとした理由で女を拉致し、女だけでは飽き足らずついでにその恋人である男も拉致し、それを止めようとした私も拘束し今に至るわけだから

私は任務を遂行しなければならないのに、グレルが暴走してしまっているのである。

とにかく、女はそういったわけで保護し然るべき処理を行った後、審判しなくてはならないのだが。

私はこの通り拘束されている。
「グレル、いくら私でもこれはどうにもできないぞ」

微かな息と共に、言葉を漏らす。
息をするたびにきつく鎖は体にくい込むのだ。骨は軋み、肉はぎりぎりと嫌な音を立てて傷がつく。

「いつもそう云ってどうにかしてるじゃない。鬼のカミサマ」

グレルは居心地が悪いと文句をつけて、椅子の上の男をずり落とした。
ごちゃん、というおかしな音がして男は落ちた。

私は言い返そうと口を開く、しかし、それより先に女が叫び声をあげた。
熱い熱いと叫んだ。

「遅いお目覚めねお嬢ちゃん!」
グレルは嬉しそうに飛び上がって、女の隣に立った。
女は首をブンブンと回して、髪の火を消そうとしていた。

胴体は荒縄で柱にぐるぐると縛り付けられていた。
腕は拘束されていない。もうだいぶ前にグレルが切り落としていた。
肩から少し腕の部分を残して、止血してあった。

女は必死に首を回して抵抗してみせる。
「あはははははあははは!虫みたい!」

女が自由に動かせるのは、首だけなのだ。
足は、拘束されていない。もうだいぶ前に、グレルが切断していた。
膝よりも上の部分で止血してある。

ほんと、拷問のスペシャリストだと思った。

きちんと止血してあるものの、少しずつ血が滴っている。

髪が燃える匂い。
血が、乾く匂い。
肉が傷つき裂け、血がじわりと浮き出る匂い。

女の体からは精気が逃げている。
死に対する絶望が溢れている。

嗚呼、まるでこれはアレのようだ。

私は息が荒くなった。
鎖がくい込み骨が軋む。

「ん゛ーーーーー!!」
猿轡の上から女が悲鳴を上げる。
「んぐっんぐっぅうううううううーーーー!」

顔に、火が移った。
「お化粧してあげたのヨ、オイルで」

グレルは、オレンジの炎に照らされながら云った。
私の方を見て、蔑むように目で笑った。

「獣のような目をしてるワね」

私は必死にもがいていた。
助けなければ、助けなければ助けなければ助けなければ助けたすたすたたた、


たすけなけ れ  ば










人食い鬼は我を失って女の肉を喰らっていた。
燃えた顔の肉を貪り、血を啜る。
女は顔の火傷のショックでまた気を失っていたのだが、もうコレで死んでいる。

羅刹天はアタシがここでじっと見ているというのに平気でがつがつと人肉を食べていた。

ぶちぶちと肉を引きちぎり、それを美味しそうに舐めたくっている。
アタシには何が美味しいのか全く理解できない。

羅刹天は、アタシがこの女を『むかつくから』と云う理由で殺したと思ってるけどそれは違う。
始めからこれが狙いで、アタシはわざとこんなことをしたのだ。

まず羅刹天を拘束する。
女の四肢を切断し、血を流れさせる。

火で炙る。

血の匂いと人が燃える匂いは、羅刹天の大好きな匂いだ。
本人は気づいていないみたいだけど。

特にイギリスでは土葬だから、日本育ちの羅刹天にはたまらなかったでしょうね。
火葬の匂いっていうのは。



グレルは椅子に腰掛け、ラクスの様子を眺めていた。
ラクスはよく食べる。
異常に気がついた死神派遣協会の者が、そろそろやってくるだろう。
その前にラクスを切り裂こうと、グレルは冷静に考えていた。
暴走した、パートナーを止めているという絵にしなければならない。

グレルはチェーンソーを構えた。
唸るエンジン音に、ラクス…羅刹天は反応する。
ゆっくりと振り返った目は、獣の目をしていた。







地下の下水から立ち上る異臭と、水の腐ったような匂いが混ざってむしろ心地良い。
そんな風に考えてしまうようになったその思考回路は、何もかもを投げ出している。

天井から伸びる鎖はその者の手錠に繋がっており、地面から伸びる鎖はその者の足に繋がっている。

磔のような姿勢で、その者は俯いていた。

「罪を認めるのですか」

声は事務的だが、わずかに憤慨がこもっている。
「あなたはその罪を認めるのですか」
「認めずして何をせよというのか」

ウィリアムはその声にびくりと体を震わせた。
低く響くその声は、英語ではなく日本語であった。
ウィリアムには日本語がわからない。
だが、その口から吐かれた言葉からは恐怖を感じた。

「…ラクスさん、私と会話をするつもりはあるのですか」

ラクスと呼ばれた者は、顔を上げた。
やつれている。
「私が禁忌を犯したのは事実でしょう。それを認めないというのは、いけない」
今度はきちんとウィリアムにもわかるように英語で話した。

「……私はその場で見ていないのではっきりとしたことは云えませんが。あなたのそれには、心神喪失が認められます」

ウィリアムは資料を捲った。
「上にもそれを報告済みです。そして許可も下りています、あなたを解放してもいいと」
「上とは、葬儀屋のことですかな」
「…………そうです」

隠す必要もない。ウィリアムは溜息をついた。この人はすべてわかっている。
「ですから、あなたがそう自ら『罰を与えてください』と申すのをやめてくだされば全て終わるのですよ」

「ダメよウィル、そんなんじゃ」

いつの間にか、ウィリアムの背後に真っ赤な髪の死神が居た。
「グレル・サトクリフ…あなたからは何も言わないのですか?」
「何か言わないといけないの?」

二人はお互いの顔も見ずに言った。
「仮にも恋人なのでしょう。何故、何も」
「あら、アンタの口から恋人なんて単語が出るなんて思ってもなかったワ」

グレルは嬉しそうな顔をして、ウィリアムと並んだ。

「いいじゃない、痛めつけて欲しいって言ってるんだから。好きにさせれば」
「あなたそれでも」
「恋人よ?だから暴走した時に必死こいたんじゃない」

グレルは眉をしかめて、横目でウィリアムを睨んだ。

ラクスは相変わらず独房で項垂れている。

グレルはそれを一瞥すると、ウィリアムに耳打ちした。
「…安心してよウィル。今夜にでもアタシが引き取るワ」







夜が来ると、遠くの方から汗と体臭の混ざった匂いがやって来る。
それはいわゆるこの処罰房の、番人たちの匂いだった。

「おい、今日も懲りずに赦しを請いてんのか?」
下品な声。嘲笑。卑らしい顔。

何度目の問いかけだろう。
初めてこの番人たちに会ったのは、もう何日前だろう。
ラクスの中で時間の感覚はなくなっていた。

夜になれば番人たちが来て、ラクスに処罰する。

「そんな可哀想な子羊ちゃんに、俺達が罰を下してやるよ」
「そうすれば神様は赦してくれるさ」

口々に勝手なことを言う。
下衆の極みとはこのことだろう。

番人たちは毎夜現われてラクスに屈辱を与えた。
屈辱だ。
だがラクスには、それを感じ取る何かが失われていた。


「なるほど?そうやって自分を穢して、悲劇のヒロインぶろうってわけだったのネ」

「誰だ!?」
番人たちは独房の前で身構える。
目の前には、暗闇に包まれたラクスしかいない。

「哀れな子羊の救世主よ」


真っ赤な死神は、満面の笑みで闇から現われた。




※※※




「何ヨつまんないワねえ。こんなんで終わりなの?全く、こんな奴ら相手によくイけたワねアンタ。ラクシャーサ」

グレルの声にラクスはびくりと体を震わせた。
項垂れたまま、グレルの顔を見ない。

グレルは手首をゴキゴキ鳴らして、軽く足踏みをした。
久々に格闘したものだから、何気なく疲れていた。
「アンタをお熱にされる奴らだから、もっと根性があってもっと非道でもっと汚いのかと思ってた」
「違う…」

ラクスは俯いてそれだけを言った。

「違う?ふぅん…アタシが言うことって間違ってる?」
かつんかつんと、派手にヒールの音を鳴らして。
真っ赤な死神はやって来た。

「違わないだろ。お前は悲劇の可哀想な女になりたいんだろ?」

真っ赤な死神は哂った。
流暢な日本語で、嘲笑った。
「なぜ!私が悲劇のヒロインなど!」
「…わめくな、らしくもない」

ラクスはぐっと喉を鳴らした。
完全に手玉に取られている。
「わ、私は帰らない…私はまだここで罰を受けなければならない!」
「根っからのマゾヒストだな。罰を受けなければならない?何故?愛しい恋人を襲ったから?」
「…!!」

ラクスは目を見開いた。
今でもありありと網膜に蘇る。
己の『暴走』を食い止めようとする彼が、己の爪に切り裂かれるシーン。

「そう…私は貴方を襲った……私は鬼だから」
「ほら!嗚呼!嗚呼可哀想な私!可哀想な呪われた鬼!」

真っ赤な死神はくるくると舞い始める。

「我が身は朽ちてなお、鬼と成りて蘇り全てを破壊せん…ラクス・ネリテイ。鬼、鬼の神様。鬼神…羅刹天?ふ…ふふふ、ふは。ふははははは!」
「何がおかしい!!」
「おかしいさ。滑稽滑稽。お前は愚かで汚らわしい。自ら甘んじて罰を受け穢れることで、俺に赦しを請いている」

ラクスは、後ずさった。
両手両脚は、天井と地面の鎖に括りつけられている。
精一杯、逃げれるところまで退がった。

怖い。

「俺に赦して欲しくて、糞のような男に抱かれているのだろう?馬鹿な女だ。そうやって自分を傷つけることによって正当化されるとでも思っているのか」
「ち、ちがう」
「違わないだろう?糞男共に犯されました傷つきました心身共々傷つきました見くださーい私はこんなに傷ついていますー赦してくださいーこんなに罰を受けたからもういいでしょ?助けてくれるよね?赦してくれるよねえ?…それが、今のお前だろ」

「違う!いい加減にしろグレル!」

がきんと派手な音がした。


ラクスは一瞬のうちに両手の鎖を天井から引き抜いた。両手をグレルの首にかける。派手な音がしてふたりは地面に倒れ込んだ。

「締める度胸もないだろうな。お前には」

グレルは台詞の割りに、満足そうに言った。
「ほら見ろよ、抜け出せるんだ。お前はお馬鹿な小鳥ちゃん。賢い賢い小鳥ちゃん、自ら痛めつけられようと、わかりきった檻に飛び込む」
「黙れ!黙ってくれグレル!!」

ラクスは怯えながら叫ぶ。
それは、脅迫でもなんでもなかった。
懇願、だった。

「ハァハ!ハハハハハ!ばかだなあラクス。ラクスはばかだなあ…怯えることはないのに」
グレルはにっこりと笑う。
首に手をかけられようが何のこともない。
ゆっくりと起き上がって、ゆっくりとその手を掴んだ。

ラクスはすっかり怯えて、その仕草さえも恐怖する。
「何故怯えるのだろう?俺にはわからないなあ、これは恋人にする愛撫なのに」
グレルは楽しそうに顔を歪めて、ラクスの体をそのまま抱え上げた。
「い、いや!おろしてっ」

まるで生娘のようにか細い声を上げるその様を、グレルは嘲笑った。
「そんなにお望みなら、くれてやろう」



そんなに罰を受けたいのなら

与えてやろう。








着ていたぼろきれのようなシャツとズボンは、千切るように脱がせた。
両手をベッドの上に縛り付ける。ついでに手首をがりがりと噛んだ。
女は、それに対して喘いだ。喘いだような悲鳴を上げて、抵抗した。
噛んだ手首からはぷつりと血が出てくる。
それを丁寧に舐め取れば、その行為さえにも怯えて泣き出す。

大粒の涙を流して、恐怖する。

「いつもそれくらい素直なら楽なのにね」


グレルは見下すように笑った。
晒された二の腕に歯形をつける。筋肉が硬直していて、特殊な感触がした。
音を立てて肌を吸い上げると、何かを連想させるのか女は酷くいやいやをした。

「安心しなさい、食べやしないから」
「ひ、あああああああ」

食べるという単語を出すと、女は喚いた。
暴れるその体に馬乗りになって自由を奪う。

「誰が食べるかっての、アハ!」
グレルは女の首を掴んだ。

「んっぐう…う」

「だらしなく泣き喚くのもダメ。叫ぶのもダメ。アンタがしていいのは喘ぐこととすすり泣くことだけ。わかった?」

女は酸素を取り入れようと必死で口を開ける。
涎が口の端から流れ出た。
さっと手の力を緩め、女が息を吸おうとしたところに口付けを落とす。
強引に口内を舌で犯す。

「ぐ、う!ごふっ…ふ」
「んは、」

口を離してやると、激しく咳き込み始めた。
それに向かってすぐ側の机の上にあったグラスの水を引っ掛けると、もっと咳き込み始める。

それがたまらなく面白くて。

もっと苦しめてやろうと思った。


両手首を拘束したロープが、良い具合にあまっていたのでそれを使うことにする。
ベッドの桟にロープを通して、それを女の首に巻いた。
輪っかを作り余裕を持たせる。
輪っかの先はグレルが持つ。

馬乗りになったグレルがそれを引くと、女の首の輪が引かれて首を絞めるのだ。

「なんだっけ?てこの原理?アタシって頭いい」
ためしに引いてみる。

「っぐえ!!」

グレルの思惑通りの反応。
緩めてやると、苦しそうに呻いた。その首にはしっかりとロープの跡がついている。

にんまりと笑みをたたえながら、グレルは女のズボンと下着を剥いだ。

「んんん……グレ、ル」

「何を今更?こうなることはわかってたでしょ」

「いったい、何を…ぐぅ!!」

グレルは女の足を開きながらロープを引いた。
女の首はごえ、という音がなる。

「股、開きなさいよ」

女は言われるがままに、そろそろと股を開いた。
グレルはじれったくなり、無理矢理膝を持ち上げる。
そして秘部に、舌を這わせた。

「ふっ…んん」
器用に舌を這わせ、女の敏感なところを刺激する。
「い、いや」
「何がイヤですって?アンタここ好きでしょうが」

否定の言葉を吐けば素早く捲くし立てられる。
閉じようとする足を力強くこじ開ける。
足の付け根に噛み付いてやれば背中を反らした。

快楽ではなく、恐怖を感じて。
そのまま舌で弄んでいれば、ひきつっていた息遣いも荒いものに変わりだす。
開いた足はだらしなく力を抜いて、されるがままである。

「ほらね、全然嫌がってない」
言いながらそこに指を入れる。ゆるゆると侵入してくるものに、女は声を上げた。
何度か出し入れを繰り返して、指を二本に増やしてやると快楽の声は高くなった。

「好きねえ」

そのまま敏感なところを舌で弄べば、無意識のうちに腰を揺らす。
二本の指で中を掻き出すようにひっかく。

「ひぃ、あ…!あっ、あっ、うぅう」
もどかしい感覚に耐え切れずに、女は体をよじる。
その光景がグレルにはなんとも滑稽だった。
だから思ったままの言葉を口にする。

「やっぱりアンタって悲劇のヒロインぶった淫乱アバズレね。自分が今どんな顔してるか知ってる?自分が今どんな顔してるか知ってる?」

「ち、ちがっ…いや、ちがうっんん!」

生理的なものか、それとも本当に悲しんでいるのか。
女は涙を流しながら声を上げる。

「何が違うのかしら。アンタはこうやってアタシを求めていたくせに」

力任せにロープを引く。げええ、という声と共に女の首がくの字に曲がった。
ロープを離せばそのまま力なく女の頭は倒れ込んだ。
クッション性を失った枕に、その頭が落ちる。
首で支える力は無くなったようだ。

グレルは女の胸を掴んだ。爪が食い込むくらいに力を込めると、静かにうめく声が聞こえた。
死んでいないのを確認して、グレルは女の、最愛の恋人の中に己の雄を挿れた。
女は快楽も痛みも同等になってしまっているらしい。
かすかな声を出して息をしている。

それにもかまわず強く突き続けると、やがて女は嘔吐した。
血に混じった吐瀉物を、顔の横で垂れ流しながら女は確かにこう言った。


「私に、赦しを」


グレルはすぐ側の机の上に準備してあったナイフを、ラクスの心臓に突き立てた。




女が息をしなくなってしばらく経ってから、グレルは女の中に白濁を吐き出した。










果てた後、暫く何も考えたくなくなった。

自分が今しがたした行為のことなど、毛頭振り返る気にもならなかった。
行為の相手は目の前で絶命しているが、対して気にもならなかった。
ゆっくりとした動作で女の手首のロープを解いた。
ベッドの桟に括り付けられていた両手は重力に従ってだらりと落ちた。死体の上に。
死体は目を見開いていた。どこを見るわけでもなく。
吐瀉物と眼球の粘膜はこびりついていた。

そんなに時間が経ったのか。
グレルは溜息をつきながら死体の顔を殴った。
「早く起きなさいよ」
ごち。がき、ぼくっ。
慣れた手つきで死体の顔を殴る。

「さあ早く起きて、アタシ待たされるの嫌いなの。知ってるでしょ?」

四発目を繰り出そうと拳を振り上げる。

しかしそれが、死体の顔を殴ることは無かった。
死体はぎりぎりのところでその拳を止めた。


「おはよう」
「…………お、ゲホッ!ゴホ」


死体は言葉を発しようとして咳き込んだ。


「フフ、大丈夫?どうしたの?」
グレルは笑いながら、苦しそうに咳き込むラクスの顔を覗きこんだ。
ラクスはしばらく苦しそうに咳き込みながら、”大丈夫だ”というジェスチャーをした。
それでも咳は止まらず、咳をしながらラクスは上半身だけを起こした。

グレルと近くで向かい合う。

咳をして喉の調子を整えながら、胸のナイフを引き抜く。
血は出ていなかった。かわりに刺し傷からは黒いもやもやとした影が、少しだけ流れ出た。

「いつも思う。これ、綺麗」

グレルは咳で激しく上下する胸をさすってやりながら言った。
ラクスはまだ喉に違和感があるのか、咳払いを続けている。

「ねえ。アンタ知ってる?アンタって心臓を壊せば元に戻るのヨ」

「そ、れは…ぐ、ゲホッゲホッ……知らなかった」

ラクスは痰を吐くように、何かを床に吐き出した。
白くて軽いものだった。かつん、と音がした。

「……喉の骨が砕けた」
「あら、ごめんなさい」
グレルは笑う。
「あと顎も、ヒビが入った」
「いいじゃない、治るでしょ?」

ラクスは疲れきった顔で溜息をついた。

「で、どうなの。赦されたの?」
グレルはクスクスと笑いながら尋ねた。
「アタシは赦してくれたの?」
「…………さあ、」


もう わからないよ


ラクスは疲れきった顔で言った。
心臓を壊されて蘇生するとき、今までの全ての記憶が舞い戻る。
走馬灯劇場の早送りのようなもので、頭の中に全ての記憶がフラッシュバックする。
人間の時から、先刻の行為まで。
全てが一瞬のうちに再生される。

その中で、一番恐怖しなくてはいけないのは
目の前の男がこうやって自分を犯し、殺す記憶。
この男に出会うまでは、人間の時に陵辱された記憶が己の中の最大のトラウマだった。

この、真っ赤な死神に出会ってからというものの

ラクシャーサの恐怖する記憶はそれになった。


グレルはラクスに口付けを落として、ベッドに押し倒した。
体が自然と怯える。
だが、グレルはひどく優しい口付けを与えてくれた。
髪を撫でる手も、何もかも全てが優しかった。

この男の恐ろしいところはこれだ。
ラクシャーサはその優しさに抱かれながら、とてつもない恐怖を記憶に刻むのだった。






拷問のスペシャリストは、全ての恐怖を司るのだった。


「ねえ。好きよラクシャーサ」



そして拷問はここで終わる。






―――――






さて、拷問はここから始まる。



一日目。
ラクス・ネリテイは全身拘束衣で監獄へ連れてこられた。薄汚れた白い拘束衣。猿轡、目隠しのための黒い布切れ。
寝台のようなものに寝かせられ、ラクス・ネリテイは拘束衣の上からも頑丈なベルトで縛られる。頭部の方には、点滴台が設置されていて水袋がぶら下がっていた。
点滴の要領で、水袋から少しずつ水が垂れてくる。

それを、ラクス・ネリテイの顔に垂らす。延々と。

始めの一滴にラクス・ネリテイは反応した。
丁度額のど真ん中に落ちたその雫は、重力に負けて右の方へと流れ落ちる。流れ落ちてラクス・ネリテイの右のこめかみの髪の中に消えていった。
次の一滴にラクス・ネリテイは反応しなかった。
今度は左頬に落ちた雫。白い肌を静かに這って落ちた。次は鼻の穴のすぐ側に落ちた。しかしラクス・ネリテイは反応しなかった。次は口。猿轡にきつく縛られている唇に落ちる。だがやはりラクス・ネリテイは反応しない。
何時間、それを繰り返してもラクス・ネリテイは何のリアクションもしない。
看守がまさかと思って声を掛けた。怒声だった。

ラクス・ネリテイは猿轡された口でしっかりと返答した。

めきめきと顎が軋んで、ラクス・ネリテイの唇が少し裂ける音がした。口を大きく開いて見せれば、その口からは不気味な牙が覗いた。長くて肉厚な舌は、天に向かって伸びた。少しだけ口が大きくなったのは、ラクス・ネリテイは気にしていないようだった。血も出ていなかった。

「ああ、口が塞がれているのはとても辛いな。コミュニケーションの取り様がない」

看守は動きを止めた。息も止めた。
看守が生きていた中で、今まで猿轡を半分解いて言葉を紡いだ者は居なかったからだ。

「生きていますからご安心を」

ラクス・ネリテイは笑っていた。



なお、この処置は派遣管理委員長コンラッド・ラドクリフの監視の下、行った。
ラクス・ネリテイ及びラクス・ネリテイ管理下の派遣委員の規定違反に対する処罰であることは、管理委員会の議会で決定したことであり、変更は無い。
処罰の目的はラクス・ネリテイの改心更正である。
しかし今回の処罰行為に対し、ラクス・ネリテイは改心の余地を見せないため、再び派遣管理委員会委員長コンラッド・ラドクリフと、副委員長ラッセル・ウェイクリング、議長グローリア・ホルバインの判断により、処罰方法の変更を行った。

処罰続行時間、約57時間34分。
体力を持続させるための点滴による栄養補給の処置を除いた時間である。


ラクス・ネリテイを診断した医師のコメントは以下の通りである。

「心拍脈拍至って普通、健康体である。精神的苦痛を受け続けていたにも関わらず脳波に乱れはなく、会話した時の状態も至って通常通りと言った風であった。今まで拷問を受けていた人間なのだろうかと戦慄した。“君は今までどんな気持ちだった?”とふざけ半分で尋ねるとラクス・ネリテイは笑いながら“少しずつ髪が濡れるものだから、風邪を引いてしまうのが心配だった”と答えた。私はこのような者を見たことがない。脳の一部に欠陥があるのではないかと疑う」





四日目。
ラクス・ネリテイの拘束衣は脱がされていた。だがその両手首を両足首には枷がはめてあった。両手首はそれ以上動かないように、ボルトでぎちぎちに固めてあった。両足首の間の鎖の長さはわずか五センチメートルにも及ばない。二人の看守に両脇を抱えられて連れてこられた。その部屋には太い一本の鎖がぶら下がっており、その先端にはフックがついていた。鎖の下に広い踏み台が設置されて、看守が二人がかりでラクス・ネリテイの身体を抱え上げた。意外に軽々と持ち上がった身体は逆さまにされ、足枷はそのフックに引っ掛けられた。フックに引っ掛かった足枷は急に上昇した。

鎖はきりきりと音を立てて天井に近づいていく。
逆さまに吊られたラクス・ネリテイは暫く宙をぶらぶらと揺られていた。

その様子を看守達は笑った。

看守達は逆さまになって吊られたラクス・ネリテイの身体を、押したり蹴ったりして動かした。ラクス・ネリテイは何も云わなかった。
看守が二人で一緒にラクス・ネリテイの身体を力強く押して天井にその身体を当てようと試みた。しかしそのようなことは出来るわけもなく、ラクス・ネリテイの身体は振り子のように弄ばされるだけである。

大きくラクス・ネリテイが揺れたとき、ふっとその動きが停止した。
宙ぶらりんの体勢から、ラクス・ネリテイが上体を起こして丁度くの字になるような体型になったのだ。
看守達が慌てて怒声を飛ばして、ラクス・ネリテイに元の体勢に戻るように云う。

その時ラクス・ネリテイは溜息をついて、何か異国の言葉を発した。
何と言っているのかは聞き取れなかったがニュアンスから呆れたようなものだったと思う。

元の体勢に戻ったラクス・ネリテイの身体を蹴ろうとした看守達だったが、ラクス・ネリテイの反撃により首に軽傷を負った。
その後鞭打ちなどの刑を受ける。


なお、この処置は派遣管理委員会副委員長のラッセル・ウェイクリングの監視の下、行った。
ラクス・ネリテイ及びラクス・ネリテイ管理下の派遣委員の規定違反に対する処罰であることは、管理委員会の議会で決定したことであり、変更は無いことは前回と同様である。
処罰の目的はラクス・ネリテイの改心更正である。
しかし今回の処罰行為に対し、ラクス・ネリテイは改心の余地を見せないため、再び派遣管理委員会委員長コンラッド・ラドクリフと、副委員長ラッセル・ウェイクリング、議長グローリア・ホルバインの判断により、処罰方法の変更を行った。

処刑続行時間、約2時間17分。
ラクス・ネリテイの抵抗及び暴行行為により中止。

ラクス・ネリテイを診断した医師のコメントは以下の通りである。

「逆さづりにさせられたことによって心拍脈拍の乱れはあったものの、本人は至って冷静で落ち着いていた。頭部に血がまわったことでしばらく顔が浮腫む、目の充血、頭痛などの症状が出ていたが数分で解消した。ラクス・ネリテイは少し悪びれたように“首を噛み千切ったのは悪かったですね”と話している。反抗的な態度を取った理由は、“気分が悪くなったからだ”と答えていた」




五日目。
火あぶりの処罰を行う。
水責めの処罰を行う。






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記録はここで終わっている

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「委員長、だから火あぶりや水責めの身体的苦痛を与えるものは避けた方が良いと言ったのですよ」

派遣管理委員会の副委員長であるラッセルは、神経質そうに眼鏡のフレームを叩いた。

「それについては私も同意見ですわね。おかげで耐性のついていない看守達は脱走も同然に辞めていったではありませんか」

「議長も副委員長も、そうやって他人に押し付けるのは止めてくれないか?我々が言い争っている場合ではないと思うが」

委員長、コンラッドは苛々と親指の爪を噛む。焦っているのは一目瞭然である。

「しかし、そうせよと最終的に命令を下したのは委員長ですわ」

「議長。それは責任転換というものだ。判断したのは、三人だ」

議長、グローリアはノンフレームの眼鏡を外し、几帳面にレンズの汚れをふき取った。
しばらく沈黙が支配する。

「……しかし、参りましたわね。これ程までにラクス・ネリテイが厄介だとは」

「火あぶりは見ましたか?グローリア議長。鉄の棺の中に入れて下から炙ってやったというのにラクス・ネリテイは鎮火後、平気な顔で棺の蓋を開けて出てきたんですから」

「正確には平気な顔ではありませんでしたよ、ラッセル副委員長。酷く焦っていたわ。“あまり見られない方がよろしいかと”ですって、焼けてでろでろになった顔で。一体何のジョークかしら」


何時間炙っていたのだろう。
正式な記録は残っていない。その日(処罰六日目)の記録は、記録者がいい加減なメモ書きしか残していないのだ。
鉄の棺からは絶えず灰色の煙が漏れていた。肉の焼ける匂い。異臭。

看守達は、死体を片付けようと




「コンラッド委員長は見なくてよかったですわね。しばらく私たちはステーキを召し上がりたくありません」

「…処罰という名目で始末しなければならないのに、あれではどうしようもない」

コンラッドは頭を抱えた。
彼は水責めの時も立ち会った。

一定の間隔でまわる水車は、一度罪人を水につけたらしばらくは上がってこない。

びしょ濡れになって張り付いたシャツから透ける白い肌。
コンラッドはそれを近くで見ていた。
蝋人形のように赤みを失ったラクス・ネリテイを見ていた。

「死なないという、噂は本当だったらしい…」


その肌に触れようとしたとき、既に死んでいるはずのラクス・ネリテイはその銀の瞳を見開いて呟いた。

「私の体に触って、何になります?」



コンラッドは背中に冷や汗をかいている。

「とにかく、身体的苦痛ではなく精神的苦痛を与え続けるようにしましょう。それでだめなら、廃人となった処理をして派遣執行官の階位を奪い取ればいいのですわ」

「グローリア議長の意見はもちろんだ。だが君のやり方はいつも荒い。それでは他の者に気づかれてしまうだろう」

ラッセル副委員長はラクス・ネリテイに関する資料を読みながら言う。

「ラクス・ネリテイはあの葬儀屋の紹介で英国支部に派遣されてきたのですから、油断は禁物です」

「葬儀屋、ね…」


三人はそれぞれの思案を巡らせた。
しかし三人の脳裏には、ラクス・ネリテイの姿は離れなかった。

ラクス・ネリテイを失脚させるだけの話なのだ。それだけなのに事はうまく進まない。
拷問は効かない。
これまでのトラブルも、全て難なく解決してしまう。
完璧な人材だった。だからこそ邪魔だった。

「我々の聖域をこれ以上犯されては、ならない」


コンラッドは、震える拳を握り締めた。











「元気かい?羅刹天」

「…テイカー。これが元気そうに見えるか?」

たくさんのベルトで拘束され身体の自由を奪われたラクスは、牢の小さな寝台に横になっていた。髪は既にぺったりとしたストレートヘアに戻っている。

「あーあ、綺麗な髪の毛も洗ってないからごわごわしているよ」

「お、そこのこめかみのところ…そうそうソコ、あぁ気持ちい」

葬儀屋は横たわっているラクスの頭を掻いてやる。ラクスはうっとりと笑顔を湛たたえた。

「いいのかい羅刹天」

「何がだ」

葬儀屋はラクスを抱き起こして問いかけた。

「このまま君は不当な処罰を受け続けることになるよ。小生の予想ではあれだねえ…鏡のやつ」

「ああ、あれか。なるほど」

「……いや、君ねえ」

葬儀屋は帽子を取った。
「いくら君でも、耐え切れないだろう。今からでも間に合うんだ、小生が上に云えば君の処罰は取り消される」

「テイカー。お前は何故私が進んで処罰を受けていると思っているんだい?」

「小生の、二の舞にはさせたくないんだよ。羅刹天」

四肢の自由を奪われ、己に抱き支えられないと座ることさえも出来ない女の姿は、何よりも無力に見えた。
しかし女は、何か強靭な力を隠しているように微笑んでいた。

「君の企みは分かってるさ。だから、小生は君を英国に連れてきたんだ。分かってる、分かってるよ。だけど」

葬儀屋は女を抱きしめていた。

「だけど、君がこんな風になるのはもう―」

無力なのは自分だった。


「いいんだよテイカー、こうなるのを望んでいる者がいるんだし。私はそれに応えるまでだ」

ラクスは笑いながら云う。

「……君の恋人は、酷くサディストなんだねえ」

葬儀屋も、ラクスの肩を支えて自分の体から離して笑った。

「健気で可愛らしいだろ」

「まったく、君は優しすぎるから嫌いだよ小生は」

ラクスを壁にもたれかけさせて、葬儀屋はその隣に座った。
二人は並んで話す。

「私だって、前髪で顔を隠して本心を晒さないお前が嫌いさ」

「そうか。それはよかった」


地下の牢獄は、水分を多く含んでいて息がしづらかった。
胸が苦しい。
でもきっと、それは酸素が薄いからとか空気が汚れているからとかじゃない。

葬儀屋は、自嘲する。

「君が拘束されていて本当に良かったよ」

「何が?……!」





「…歯も磨いていないのに、よく出来たな」

しばらくの沈黙の後、ラクスは感心したような口ぶりで言った。
思わず肩をすくめる葬儀屋。

「君は、ほんとに…もう」

「それよりいいのかテイカー、無理を云ってここに来ているのだろう。そろそろ退かねば後で面倒だぞ」

ラクスに云われて、それもそうだと思う。
門番と看守を半ば脅してここまで来たようなものだった。

「じゃあ小生はそろそろ行くよ。ああ、黒い死神君が君のことをすごく気にかけてるから何かあったら彼に言ってよ。小生も何とかする……って言っても、要らぬお世話だよねえ羅刹天」

帽子を被りなおして、葬儀屋は笑いかけた。


「わかってるじゃないか、テイカー」


鬼は、禍々しく笑った。







三面鏡の前に立たされた。
両手首を後ろで縛られ、吊られている。
二本の足で立たされてはいるものの、吊られているのは明らかだった。
踏ん張らないようにつま先しか床には触れていない。

ぐいと、髪の毛を掴まれて顔を上げられれば、そこには己が映っている。
自分から見て左には横から見た己が。真ん中には正面の己が。右には横から見た己が。
なんだか眠そうな顔をしていた。そういえば数時間前に睡眠薬を飲まされたのだった。意識がはっきりとしない。

「・・・・・・・・?」


“お前は、誰だ”?

と聞かれたのだろうか。鏡の私は怪訝そうな顔をした。

「私はラクス・ネリテイ」

鏡の私はそう答えた。ひどく機嫌が悪そうな顔をしている。何が気にくわないのだろうか。私は至って普通の心情であるというのに。

私に話しかけた者の顔を見ようと、私は声の方を見た。
喪服を着ていた。男だった。
顔は、隠されていた。
男は私を殴った。

“私を見るな”と云うようなことを言ったようだ。

殴った突如、男はその拳を庇った。呻いている。
ああ、思わず私がその拳をかわしてしまったらしい。牙に当たり、拳はぱっくり裂けていた。

「お前は、誰だ」


誰の声だろう。




鏡の私は、小首を傾げた。






三面鏡の前に立たされた。
両手首を後ろで縛られ、吊られている。
二本の足で立たされてはいるものの、吊られているのは明らかだった。
踏ん張らないようにつま先しか床には触れていない。

ぐいと、髪の毛を掴まれて顔を上げられれば、そこには己が映っている。
自分から見て左には横から見た己が。真ん中には正面の己が。右には横から見た己が。
なんだか眠そうな顔をしていた。そういえば数時間前に睡眠薬を飲まされたのだった。意識がはっきりとしない。


「おまえはだれだ?」

「私はラクス・ネリテイ」

「お前は誰だ?」

「私はラクス・ネリテイ」

私はラクス・ネリテイ

私はラクス・ネリテイ。私はラクス・ネリテイ。ラクス。ネリテイ。ラクス・ネ



鏡の私は、口から血を滴らせていた。
よく見てみると目元も腫上がっている。口の中は血の味がした。腹が減った。

鏡の中の私は、心底厭そうな顔をしていた。


「お前は誰だ」

「私は、」







誰だ?


三面鏡の前に立たされた。
両手首を後ろで縛られ、吊られている。
二本の足で立たされてはいるものの、吊られているのは明らかだった。
踏ん張らないようにつま先しか床には触れていない。

ぐいと、髪の毛を掴まれて顔を上げられれば、そこには己が映っている。
自分から見て左には横から見た己が。真ん中には正面の己が。右には横から見た己が。
なんだか眠そうな顔をしていた。そういえば数時間前に睡眠薬を飲まされたのだった。意識がはっきりとしない。

「お前は」

「私はラクス・ネリテイだ」

いいや、違う。

鏡の私は、笑っている。
こいつはラクス・ネリテイではない。

鏡を見たくなくなった。
ふと、隣に居た喪服の者を見上げた。

「…!私を、見るな!!化物が!!」

怒声と鞭のしなる音。



やはり鏡を見るはめになった。

鏡の私は、やはり薄ら笑いを浮かべていた。

こいつは私ではないようだ。





「君は、誰だい?ラクス・ネリテイ」




私は鏡に向かって問うた。

しかし、鏡の私は笑っているだけで何も応えてくれなかった。








三面鏡の前に立たされた。
両手首を後ろで縛られ、吊られている。
二本の足で立たされてはいるものの、吊られているのは明らかだった。
踏ん張らないようにつま先しか床には触れていない。

ふと前を見上げると、そこには己が映っている。
自分から見て左には横から見た己が。真ん中には正面の己が。右には横から見た己が。
なんだか眠そうな顔をしていた。そういえば数時間前に睡眠薬を飲まされたのだった。意識がはっきりとしない。目を伏せて、下に視線を移した。

爪が伸びてしまっている。
私は、はっとして鏡を見た。

「………」

よかった。鏡の中の私はひどく焦っていた。
一瞬鬼に戻っているのものだと思っていたので、焦ったのだ。あの姿を喪服の者に見せてはならない。今は安堵の表情を浮かべている。

がちゃり、という微かな音が聞こえた。
喪服の者がやって来たのだ。

「私はラクス・ネリテイですよ」

伸びきってしまった爪を気にしながら私は言う。

「…あなた、面白いのね。まだ訊いてはいませんよ」

私は鏡を見た。

喪服を着た女が私の隣に立っていた。
ノンフレームの眼鏡をはめた女が、冷たい表情で私を見ていた。

「今日で三日目だけど、まだまだ平気みたいですね。ラクス・ネリテイさん」

微笑む。
しかしその微笑は明らかにひきつっていた。

「もう三日経ちましたか?では…一日目は委員長、二日目は副委員長だったのですね。そして三日目は貴女ですか、議長」

「そう、ですわね。あなた、二人の顔を見なかったのですか?」

「どうでしょう?見た気はしますがよく覚えておりません」

私はラクス・ネリテイですので。

そう言うと、女はひきつった微笑を止めて無表情に戻った。

「…それは、どういう……」

「どうもこうも、私はラクス・ネリテイですのでねえ」

もはや自分が気狂いなのか常人なのかも判断できなかった。
鏡の私は、困ったように笑っている。ああ、やはりお前もラクス・ネリテイだ。

女は、急に険しい表情になった。
「あなたは、誰です」

「私はラクス・ネリテイ」

「違いますラクスさん…!これは違います」

「違うとは一体?」

「あなた…やはりおかしくなってるわね」

女は私の髪を掴んだ。
私の顔は、女と向き合わされる。

「あなたは、ラクス・ネリテイでは無いわ…!」

「…それは違います。私はラクス・ネリテイですよ議長」

笑いかけてやる。
嗚呼可哀想に、この女は酷く怯えている。

「ッお前は!誰だ!!」

女は泣きそうな表情をした。
「貴女には無理だ、議長。帰ったほうがいい」









柄にも無いことをしたと思った。

私は今、牢獄で一人鏡を見ている。
無表情。
しかしこの顔は、他人に見せるために用意した私の顔に過ぎないのだ。
きっとこれを無表情と、彼は云わない。

澄まし顔とでも云うのだろう。

遠くに居る看守が、カリカリと書き物をした。微かな音。ペン先の動く音。
書き記したのはおそらく現在の時刻。
トントン、と書いている途中に二つ。これは“:”(コロン)を書いた音だ。
その音を聞いたのは丁度一時間前。そして十三回目。
つまり。今の時刻は日付が変わって、一時間経った一時である。


息を吸った。
血の匂いがした。それは恐らく私が垂らしたものである。
口の中を下でまさぐってみれば、数箇所切れていた。
長くて邪魔な前髪を、息を吐いてどかす。
ふわり、と舞って顔面が鏡に映った。

ひどい顔だった。

殴られてあざはできているし、唇も切れたり腫れていたりする。

彼が見たら、笑うだろうか。


「柄でもないな、一体どういった心境の変化だ?」

鏡の私は、呆れたように言った。

「…何故だろうね」

私は答える。

「本性を晒すのと一緒だ。あの行為は無意味だった、あのまま大人しくしておればよかったものを」

「ああ、でも可哀想でね。…名前だ、議長の名前がホラ、議長の名前はグローリアだろう?」

私は笑う。

「彼と、名前が似ていたから」

「……馬鹿だ、貴様は」

鏡の私は軽蔑の眼差しで私を見ていた。

「馬鹿はどっちだい、のこのこと姿を現して。私に勝てるとでも思っているのかな」

「何十年、何百年、何千年と貴様と一緒に居るのだぞ。勝つ負けるの問題ではない。貴様なぞ、すでに分裂しているじゃないか。その体の主導権は、未だ決まってなどいない」

「私がいつ分裂したというんだい?君が勝手に離れていっただけじゃないか。付いていけなくて」

鏡の中の私は、悔しそうに牙をむく。

「私を置いて、行ったのは貴様だ」

「馬鹿を言うなよ君。君は誰だ?」

私は鏡に向かって哂いかける。

「私は羅刹天だ」

「それはおかしい。私が羅刹天だ」




失せろ鏡の悪魔め









三面鏡の前に立たされている。
両手首を後ろで縛られ、吊られていた。
二本の足で立たされてはいるものの、吊られているのは明らかだった。
踏ん張らないようにされた床には、爪の伸びたつま先が石畳に触れて音を立てる。

もう見なくても判る。
自分から見て左には横から見た己が。
真ん中には正面の己が。
右には横から見た己が。
なんだか眠そうな顔をして映っているのだ。


少し上体を揺らしてみれば、両手首の荒縄が軋んで締め付けた。
熱い。痛みがはっきりとしている。
まだ、大丈夫だ。


揺れる右房の赤髪を見る。
そういえば最近、あの眩しい赤を見ていない。

己から出る血の色は闇に騙されて黒く光るだけだ。
石の灰色。鏡の銀色。私の灰色と肌色。そして喪服の黒。

あの眩しい赤は、元気にしているだろうか。

ふと、左の視界に赤が映えた。

「……!」
おかしい。私の左に赤髪など


「ハロー、ダーリン」

「………ハロー。ハニー」


上体を起こす。
つま先立ちだというのに、顔を上げなければ視線が噛み合わない。
眩しい赤はにたにたと笑っていた。

「三面鏡だなんて素敵ネ。最強ネ、酷いワね」

グレルは私の顔のあざを強く押した。
私が痛みに顔をしかめると嬉しそうに目を細める。
血を己の袖口で拭う。乱暴にするものだから傷口が開いて新しい血が出る。

「…お前の方が、ひどいよ」

「アラ、そうなの?生温い奴らばっかりネ」

その血を指で取る。
自分の口元に持っていって、唇に塗った。そして舐める。

「甘くない、糖分不足よ」

「そりゃそうだ、絶食中なんだ」

私は笑う。
グレルは喉の奥で笑っていた。

「ハァイ、御機嫌よう鏡の悪魔さん」

鏡に向かって挨拶をする。
しかし鏡に居るのは、私と、グレルだけである。

「……なんだ、もうどっかやっちゃったの?」

溜息をつく。
グレルの理解力にはいつも感心させられる。
何故こうも彼は、私のことをわかっているのだろう。

薔薇の香りが鼻腔を刺激する。
今すぐにでも彼に抱きついて、彼の香りを嗅ぎたかった。
けどそれは、赦されることではない。

「キスしてあげようかラクシャーサ」

グレルは私の髪をすきながら言う。

「…遠慮しておくよ。それよりもどうやって来たんだい?看守は?」

「本当は欲しいくせに〜、本当はして欲しいくせにー」

グレルは小声で歌い出す。
るんるんとスキップしながら私の周りを回り始めた。

「ラクシャーサはキスして欲しい〜、大好きなアタシにーキッスして欲しい〜」

「からかうなよグレル」

私は肩をすくめた。
余裕が戻ってきた。どんなに酷い拷問を受けようが、彼がこうして存在しているのなら何でもいい。たとえこれが幻想でも、私の中に彼が必ず居るということなのだから。

そしてこれは幻想ではない。

「アタシが来てくれて、嬉しい?」

グレルは両手を私の肩に置いて、私と向き合った。
両手は、だんだんと上に上っていき私の顔に添えられる。
冷たい手だった。いつもの冷たい手だった。安心した。

「…嬉しいよ」

「そう?それはよかった。じゃあアタシの目を見て?」

グレルは零れんばかりの笑顔で言った。



黄色の瞳に、緑の怪しげな光を放つその双眼。

私が映るその双眼。

「さあ、ラクシャーサ」



お前は誰だ




その瞳に映った私は、阿呆みたいにぽかんとしていた。

「お前は、誰だ」






私は


「……さようなら、ラクス・ネリテイ」




誰だ?







※※※



グレル・サトクリフはかつかつとヒールを鳴らして女の元へ帰ってきた。

「上々、完全に崩壊したワよ」

グレルはけらけらと笑いながら云う。

「ご苦労様です…グレル・サトクリフ」

「約束のお金、早く寄越しなさいヨ」

グレルは女の目の前の椅子に腰掛けて、足を組んだ。
女…グローリアはわかりやすく顔をしかめた。

「……これです」

グローリアは封筒を渡した。
グレルはそれを受け取るやいなやすぐさま中身を確認する。
入っていた金を数えながら話す。

「それとアタシとラクスに関わらないっていう条件は飲むのカシラ?議長」

「そのような条件は、我々にとって膨大な影響を及ぼしかねません。私だけの権限では何も言えませんので」

「あらそう。まあいいワ。多分そうしなくとも関わりたくなくなるワよ」

グレルは封筒に金を入れなおしながら立ち上がった。

「ッ貴方は…恋人、仮にも恋人でしょう!?ラクス・ネリテイがどうなっても」

「このお金でラクスに新しいスーツを買ってあげるのヨ」

グレルは、赤いコートを翻した。
グローリアは唇を噛む。

「貴方って人は…!」

「…グローリア議長、あんたこの仕事向いてないわネ」





地下の牢獄には、赤い死神のヒールの音だけが響いた。














※※※
以下蛇足。

グレルがラクスをいじめたかった前提で見ると分かりやすいですね。
これオチはグレルがラクスを嵌めたかっただけですからね、なんてこった。
時系列がバラバラなのできちんと解説させてもらうと…

1 グレルがカップルをいたぶる(違反行為)
2 ラクスが鬼化して暴走、グレルが必死に止めるという絵柄を作る
3 グレルの違反行為もそうだがラクスの仲間に対する暴挙が大いに咎められ拷問処罰
  ※派遣協会は常にラクスを失脚させたいので処罰が重い
4 拷問1日目〜5日目はラクス全然平気
5 葬儀屋が来てくれる
6 鏡の拷問、グレルが止めを刺す
7 精神もろくなったラクスは好き勝手嬲られる
8 ウィルが接触するがラクスは既に堕ちているので助けを拒否
9 落ちぶれたラクスを見てグレルが英雄的に助け出す
10 けどお家に連れて帰って乱暴セックス&死姦
11 1回死んだのでラクスの精神面が復活、めでたしめでたし

ね?グレルがラクスをいじめただけだったでしょ?




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