どき、どき、どき。心臓の内側から体中を響かせる大きなノック音は、美琴にこれで死んでしまうのではないかという勘違いを起こさせた。緊張しているわけではない。いや確かに息苦しくなるくらい緊張しているのだが、この高鳴りはそんな生易しい理由ではない。ペンを握る右手には気持ち悪いくらいべっとりと汗がはりついていた。美琴は一度小さく息を吐いて、ノートや教科書が並べられた机に落としていた視線を正面にずらすと、一点の濁りも見えない白が視覚を虜にした。

「……なんで寝てるのよ、こいつ」

そう、寝た。美琴専用ゲコ太クッションを無残にも枕にして、堅いフローリングの上でぐっすり。すぅすぅと聞こえる寝息や白い瞼で閉ざされた鋭い赤は、元からの綺麗な顔を全面に押し出しているうえに、年齢より幼いと錯覚まで起こさせる。こいつの本名はまじで百合子ちゃんなんじゃねぇの?と突っ込みを入れたくなるくらい、可愛い。

「……まぁ、今更必死こいて勉強する必要なんかないけどさ」

毎日の予習復習を欠かさずやっている美琴がテスト週間になったからと言って、焦って勉強をするなんてことは必要ない。結果も成績として残している。そんな優等生の美琴がこうやって勉強しているのは、少年と一緒にいたいがためだけなのに、肝心の本人は全く気づかずに無防備に寝顔まで晒している。信用されているのは美琴も嬉しい。だけどそれはやっぱり違う。何て我が儘な女なんだと蔑まれても仕方ないくらい、この煩悩だらけの頭には信頼だけじゃまだまだ物足りない。
美琴は机の上に、ペンを転がした。そして膝をついたまま四つん這いの格好で、寝ている一方通行の横に向かう。床が軋まないようにゆっくりと膝と手を動かし、息を潜める。そのせいか、たどり着くだけでも僅かな時間を要した。しかし、一方通行は美琴がすぐ近くに移動したことも関わらず一向に起きる気配を見せない。それをいいことに美琴はまじまじと顔をみつめる。変な話ではあるがキメの細かい白い肌や、長く綺麗な睫毛は美琴の中の嫉妬心をひどく揺さぶった。

(女の私より綺麗とか、なんなのよこいつ!)

どうせ一方通行は全く意識しないでこの肌質や髪質を保っているのだろう。ますますムカつく、とむっと唇をへの字にして、人差し指でそっと頬をつっつく。

(……あ、なにこいつ、意外と…ほっぺた柔らかい)

ぷにぷにぷに。まるで中毒患者になったかのように、人差し指は滑らか頬から離れない。それでも一方通行の眠りは深いせいか、瞼が開かれることはなかった。

(これなら……起きないわよね、うん、起きない起きない)

美琴はそっと人差し指を頬から離し、今度は顔をそっと近づける。ほっぺたなら大丈夫と自身に言い聞かせながら、ゆっくり、ゆっくり、美琴は唇を少しだけ突き出し、白い頬に押し当てた。むにゅりとした柔らかな弾力が唇いっぱいに広がり、美琴はふわふわとした幸福感に頬を緩ませた。

「…だいすき」

箪笥の中にしまっていたはずの想いがぽろりと唇を滑った。美琴は頬を真っ赤にしながらも、すき、すき、好き、と感情をいっぱいに詰めた単語を歌うように吐き出す。ブレーキはもう利かない。

「すき…っ!」

そのとき、ぱちり、と白い瞼が開き赤い目と交差した。数秒間の沈黙が流れる。美琴はその赤が一体何なのか脳内で処理できずにいたが、一方通行が「…なにやってンだ」と沈黙を切ってくれたのをきっかけに、はっと我に返った。額から冷や汗が流れる。全てを見透かすような赤は揺れない。美琴はさっと身体ごと一方通行から遠ざけようとするが、意外に力強い細い手がぎゅっと美琴の手首をつかみ、身動きがとれなくなった。美琴の体温が人間とは思えないくらいに上昇していく。

「うわ、うわわわわああっ!ちょ、いやぁああっ!!」
「おいおい、なンだよその逃げ腰はよォ?」
「もう、か、帰っていいわよ!外真っ暗よ!」
「嫌だ」
「ななな」
「まァこっから先は勝手にいろいろとやらかしてくれた美琴ちゃンへのおしおきタイムってなァ」

サディスティック、ドS、最低!罵詈雑言が美琴の唇からひとしきり叫ばれたあと、一方通行はニヤニヤ厭らしく微笑みながらぐいっと顔を寄せた。


アイラブユーそれに相対するラブユートゥー


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