初恋という感覚を美琴は手に取るように覚えている。ひどく純粋で暖かな、それでいて不安定なものだった。言葉では一つにできない想いが胸から満開の桜ようにぶわっと咲いて、そして散って、年月を重ねれば重ねるほど呆気なく色褪せていった。全てを省みずに走り抜けてきた日々はまるでキラキラに光る宝石そのものだった。そんなもう二度とは戻れないネバーランドを美琴は感慨深く思い出しながら、遠くから顔を出し始めた朝日を見つめる。薄らと明るさを取り戻し、時を正確に刻み始めた街は、昔のまま。美琴は、少し長くなった髪を耳にかけ、空から隣へと視線をずらす。そこには、見上げなければ顔を確認できない高さにまで成長した少年、否、男性が同じように学園都市を懐かしげに見つめていた。

「で、イギリスは楽しかったですか?上条さん」

上条さん、と呼ばれたツンツン頭の男は美琴の言葉に少し驚き、瞼をぱたぱた開閉させた。

「なんか、お前の敬語ってムズムズするな」
「何よ、散々先輩を敬えって言ってたくせに」
「なんつーか御坂らしくないってゆうか、今なら分かるんだよなあ。つまりだな、御坂は御坂のままが一番ってことだ」
「ふふ、それって褒め言葉なわけ?」
「…そうゆうことですね」
「ありがと」

これまた上条は驚いた。あの御坂美琴が、出会い頭にとんでもない出力の電撃を容赦なく攻撃してきた女の子が『ありがとう』と少しの戸惑いを見せずに感謝を述べたのだ。いつの間にか大人になってしまったのか、と上条は十年後も変わらない街並みと、隣で目を細めながら朝焼けを眺める美琴を見比べてふぅと小さな息を吐いた。

「この街は変わらないな」
「まあ、所々変わったわよ、例えば、あのボロ自販機はなくなっちゃった」

美琴は少し寂しげに俯いた。

「ああ、あれか。御坂がすっげえ蹴りをかましてた自販機」
「うー、恥ずかしい。あれは黒歴史よ黒歴史!」
「いや、カッコ良かったぜ。中学生とは思えない強烈で痺れる蹴り。まさか超能力者があんな古典的な方法でジュースをゲットするなんて、流石の上条さんもびっくりしましたよ」
「もういいわよ…やめてちょうだい」

美琴は眉を潜め、頬をほんのりピンクに染める。今思えばなんて軽率だったのか、と後悔するような記憶ばかりが蘇り、美琴を羞恥一色に染めていく。

「でも、あれが御坂なんだよ。可愛くて、凛々しくて、ちょっと乱暴で、正義感が強くて。今もあんまり変わってない。うん、御坂は最高の女だ!」
「…あんたも変わらないわね、この女たらし」
「いやいや、何を言ってるんでせうか御坂さん。上条さんは女たらしになれるほどモテませんってば」
「うわあ、ほんと変わってない。あの子が可哀想になってくるわ。あんたイギリスで女の人に追いかけ回されてるでしょ」
「御坂、まさかお前、千里眼まで極めたのか。すげえよ御坂…!」
「はあ、あんたは馬鹿のままね」

美琴はクエスチョンマークを浮かべる上条の顔からボロボロなスニーカーの足先までを見つめる。身長は伸びて、体格もあの頃とはまるで違う。それでも何もかもが変わったわけではない事実に、美琴はふわりと微笑みながら、

「私さ、今なら言えることがあるの」
「なんだ?」
「そろそろピリオドをうたなきゃダメみたい。私とこれからのために」

美琴は体重をかけていた銀色の柵からそっと離れ、上条の方向に真っ正面に立ち、すぅと深呼吸をする。不意に、膝がふるりと震えた自分にもう大丈夫、と何度も言い聞かせながら、

「好きでした、ずっと、貴方が」
「…、え」
「分かってる。言わなくていい」
上条は申し訳なさそうに頭を掻き、小さくごめんと呟いた。美琴はその言葉にふっと小さな微笑みを零した。美琴が十年前のままなら、泣き喚いていたかもしれない。あの頃の自身は思い出せば思い出すほど、笑い飛ばしたくなるくらいに酷く幼かった。だからこそ、大人になった今、彼に投げかけたかった質問を美琴は紡いでいく。

「あんたは今、幸せ?」

それは上条にとってはかなり究極の質問だ。こうして大人になっても厄介な右腕は、昔のまま変わらずに下らない不幸ばかりを運んでくる。時にはあまりの情けなさに塞ぎ込むときだってあった。しかし、心が折れそうになったとき、上条の隣でいつも笑ってくれる少女がいた。いつからか愛しいと守りたいとそう想えた少女は、いつだって不幸な右腕を掴んでくれる。何度だって、小さな身体いっぱいに抱きしめてくれた。

「相変わらず転ぶし、携帯は壊すし、蹴られるし、魔術は怖いし、噛みつかれるしで不幸三昧ですよ、でも」
「でも?」
「今の上条さんは世界一幸せな野郎ですよ」

その笑顔に、偽りはない。子供のように無邪気な笑顔を美琴は確認すると、もう一度朝焼けへと視線をずらす。

「あんたの負けね」
「え」

まるでタイミングを見計らってたかのように、携帯からピリリと電子音が鳴る。美琴はポケットから取り出して携帯のディスプレイを見るなり、ぶっ、と息を吹き出した。よっぽど面白い内容だったのか、小動物のように肩がぷるぷる震えた。美琴は笑い涙を指で拭い、乱れた息を整え、もう一度慈しむように携帯に写る素っ気ない文章を見つめる。
美琴は上条がイギリスへと行った日に、恋なんてしないと決意した。夢だけ追いかけるために高校大学と勉学に打ち込み、大人になれば、いつしか初恋を忘れられると信じていた。そんな虚無感に包まれる中で、美琴の人生に一つのイレギュラーが存在し始めた。それはとんでもない馬鹿だった。馬鹿で阿呆で、悪口を幾ら並べても足りない、そんな不器用な男だった。だけど彼はいつだって隣で、崩れてしまいそうな美琴を支えてくれた。時には喧嘩して、暴れて、大泣きして十年もの時間を費やして、ようやく美琴はどうしようもない馬鹿を愛してるのだと、気づいたのだ。
だから、美琴には世界一などそんな生っちょろい範囲に興味などなかった。この気持ちを例えるならばそう、もっと果てしなく無限大に広がる幻想。

「私は、宇宙一幸せ」

美琴は呟いたあと、上条にくるりと背中を向けた。

「どうやらあいつご立腹のようだから帰るわね」
「また会えるか、ビリビリ」
「今度はお酒でも飲みましょう。あいつも喜ぶわよ」
「あいつとお酒か。…そりゃ、楽しみだなあ」
「あと、」
「ん?」
「ビリビリって呼ぶんじゃないわよ、ばあーか」

小悪魔のような悪戯な笑みを浮かべ、携帯を耳に押し当てた。そのとき、上条は細い薬指で光り輝く小さな愛の形を決して見逃さなかった。


/mad happy that is bad