垣根は自転車のペダルに足をかけた。ひとこぎして、「落ちるんじゃねぇぞ」と後ろにいる百合子に注意を促す。が、百合子は垣根の体に腕を絡めることもせず、相変わらず何もない場所だ、と流れる田園の景色を赤い目にうつしていく。踏み切りに差し掛かったところで、警報機がどぎつく明滅した。この田舎に唯一通るたった二両編成の電車がガタンゴトンとけたたましい音を鳴り響かせ、垣根たちの前を簡単に通り過ぎた。疲れたサラリーマンや帰路につく同級生がぎっしりと詰まっていた。垣根はそれを一瞥して、ギュッとハンドルを強く握った。

「おい、背中掴まれ!」前から突然ふってきた命令形に百合子はぐいっと眉間に力をこめて、嘆息を零した。

「命令してンじゃねェぞ」
「いいから!」
「……チッ」

百合子は舌打ちを落とし、垣根の大きな背中に体を密着させた。強引な物言いに降参したわけではない。ただ、垣根帝督は少し頑固なところがある。自分が正しいと思ったらそれを貫き通し、絶対的な自身があるから曲げない、そんな少し面倒な性格をしている。意固地になって断り続けてもいいが、それでも垣根はしつこく叫び続けるので、百合子は全てを諦めたのだ。垣根は背中から伝わる柔らかめな感触を合図として、垣根は走るスピードをぐんっと増した。瞬間、ようやく垣根が掴まれと命令した理由を理解して、百合子は怒号を飛ばした。

「おィ、早ェぞ!」
「追い越す!」
「あァ?」
「今からこの電車追い越す!!」

この猛スピードで走る電車を追い抜く、と。百合子は唖然として、咄嗟に返す言葉が見つからず、表情に苦笑をはりつけた。

「……いや、無理だろ」
「心配するな!」

垣根は深く息を吸い込み、どこかの熱血ヒーローのように腹の底から叫ぶ。

「俺に常識は通用しねぇ!!」

その意味不明なかけ声とともに、スピードは更に増していく。シャツははためき、半袖の袖口から冷たい風がねじ込まれた。一瞬でも気を抜くと振り落とされてしまいそうな速さに、百合子はギュッと垣根の体に強くしがみついた。

「なぁ、百合子!」
「な、ンだよっ」
「はは、もしかして怖い?」
「馬鹿言ってンじゃねェ!」
「ごめん、ごめん。あのさ、追い越せたら、ひとつだけ望み聞いてくれないか?」
「……勝手にしていいから、早く終わらせろ」

ぐったりとした声色の返答に垣根は少しだけ笑った。受け入れてもらえてほっとしているかのような笑みだった。

「待ってろよ、くっそやろう!!」

垣根は一定の長さで引かれたアスファルトの真ん中を走る。明るい箱に詰まれた人たちは、こちらを馬鹿にしてるように見ていた。それでも垣根はペダルをこいだ。こいで、こいで、制服のYシャツに汗がにじみ、踏み出す。どうしてここまで頑張っているのか、百合子は大きな背中を見つめながら思考する。その答え出るのは、垣根が隣で走る電車を追い越し、自転車ごと倒れるまであと三十秒とちょっと。
風は音もなく二人の間をすり抜けていく。ほんの少しだけ生暖かい。夏が夜にまで忍び寄っていた。


/エンドスプリングララバイ