いかにも貧弱そうな身体は風になった。まるで神様が彼をそうさせているかのように、細い足は力強く硬骨な地面を蹴る。誰も止められない。騒がしかった歓声もピタリと止み、時間が止まったかのような感覚が全体を包む。静寂。――後にこれは異常だと言われた。確かにそうなのかもしれない。普通なら、応援と野次が混ざり合った大音声がフィールドを巡りあう。決勝戦ともなると、更に観客は倍増し、やがて熱気は抑えられなくなる。だけど。聞こえるのは、軽快な足音。視界に入るのは、白い豹。ひゅと喉が鳴る。いつの間にか右手は拳が握られ、汗ばむ。先程まで暑いとダラけていた男はもうどこを探してもいなかった。暑さなど感じられなかった。太陽の日差しも、日焼けもどうでもよかった。まるで無の世界。彼だけが切り取られた真新しいノートの世界。終わりの白線を、力一杯に踏みつけ、ふわりと風にのるように身体が浮いた。その瞬間、揺れた。観客も、その心も、同じ場所を目指す者も、そして自分も。時間は再び動いた。世界が景色を取り戻し、いつもの光景へと早変わりする。変わらなかったのは、自分。

(すげぇ……っ)

彼が作り出した風に煽られるよう、少年は決意する。『走る』――いつか彼と同じ場所で。

「その動機も決意も立派にゃー。お前は根性も気合いもそれなりにあるから期待はしてるんだぜぃ。ただなぁ、あいつと同じ場所には立てないにゃーん。理由はとーっても簡単。なぜならお前は、長距離選手がぴったりだからだ」

おふざけが混じった絶望的な解答が返ってきたのはあの日から一年たった頃だ。
彼を追いかけ、ストーカー紛いみたいなことまでして調査した結果、この高校に入学した。彼が入部した陸上部に自身も入り、走り初めて早3ヶ月。夏がやってきたころだった。

「何となく分かってましたよ…はは…」
「短距離はどうしても遺伝ってものが必要になっちまうんだぜぃ。まあカミやんは体力あるんだから、悲観することはないにゃ」

目標を失うということはそれ程辛いことだったのか。改めて上条当麻は、実感する。きっと甘かったのだ。高校から始めたくせに彼と同じになろうなんて、神様に喧嘩を売ったのかもしれない。だからって、せめてスタートラインには立たせてほしかった。どうにもならないことを考えながら、上条はぼぅと空を見上げた。はは、空青いなぁ、なんて呟くと土御門は苦笑しながら、そうだなと返事をした。


「あんたって短距離希望じゃなかったっけ」
「完全なる長距離型なんでせう上条さんは」
「まぁ本人がそう言うなら良いけどさ」

マネージャーの御坂美琴は、ペラペラと資料をめくる。恐らくそれは、今まで計ってきたタイムでも記載されているのだろう。

「どうしてあんた今まで短距離やろうとしてたのよ?完璧に長距離の方がいいじゃない」
「…それさっきも土御門に言われた」
「え?あ、いや。陸上ってどうしてもそうなのよ!でも…あはは、本当あんたら正反対のくせに似てるわね」

太陽のような笑顔が上条に向けられる。御坂美琴は、顔立ちも整っていて、この高校でもアイドルのような人気だ。そんな彼女が自分に対して笑顔を見せてくれると、年上好みを謳う上条さんでもときめきキュンキュン。それにしても自分のような不幸なやつがまだいるのか、そう御坂美琴に問えば、御坂は楽しそうに違うと否定した。

「うちのエース様よ」
「エースって…うぇええ!?」

変な声が出てしまった。仕方ない。だって、陸上を始めたきっかけを作った憧れと似ていると言われたのだ。嬉しいとか、そんなものじゃ計り知れない高揚感が胸を振動させる。

「まぁね、正反対だけど。あいつねー、典型的すぎる短距離野郎なのよ」
「は?」
「体力がないのよ!1q走らせたらもうグダングダン!あの真っ白な顔が真っ青になって…っ。ぷぷ、あー面白い!」
「そうだったんですか…」
「私あいつと腐れ縁なんだけど、あいつ駅伝とかやりたくて陸上始めたんだけど全くダメダメ!体力ないくせに陸上やるとか…ふふ」

少女は何かを思い出したのか、笑いを堪えられなくなり腹を抱え、大きな瞳にうっすらと笑い涙を浮かばせた。確かに体力がないのは陸上選手として致命的だ。いくら彼が短距離選手だとしても体力は必要だ。思い返してみると、彼のあの体型で体力も瞬発力もあるといわれたら、あまりにも周りが不憫すぎる。長距離を走っているところも見たことない。秋にある男子10qのマラソン大会はどうするのか。色々と考えることはあるが、『天は二物を与えず』初めて信じた瞬間だった。

「それでね、」

まだ愉快な話が続くのかと思わず少女の弾む声に耳を傾けた。その時。

「美琴ちゃァァァァァァァァァン??」

絶叫とともに白く細い指が、少女の柔らかい頬をむぎゅっと押さえつけた。

「ちょ、」
「なァに人様の黒歴史暴露してンだゴルァっ!なァンだァ、その小さいお口にぶち込まれたいのかァ!?あァ!?」

(だめだろ、その下ネタ)

話題の彼、一方通行がやってきた。


続く