どこかへと羽ばたくカラスたちの鳴き声だけが響く、昼間の騒然さが消えた薄暗い廊下。放課後の学校はまるで異世界のようだと青髪ピアスは階段をゆっくりと上りながら不思議な切なさに浸る。普段のこの時間なら友達とゲームセンターに行くか、下宿先でゴロゴロしているのだが、今日は担任に出された課題を机の中に置き去りにしてしまったことを帰路の途中で思い出し、引き返してきた。別にそのまま忘れても良かったのだが、たまには大好きな小萌先生に良い子ですねと頭をなでなでされたい。青髪ピアスは小萌の無邪気で優しい笑顔を妄想しながら、数分かけてたどり着いた教室の扉を勢いよく開けた。
視界にうつるのは、静寂に包まれる見慣れた教室、ではなく、真ん中あたりでペンを握るセーラー服の黒髪の少女。青髪ピアスは首をひねり、目を凝らした。下校時間はすぐそこまで迫っている。こんな時間まで残っているのは、外で部活動に精を出す生真面目な生徒くらいだろう。しかし、例えそうであったとしてもこんな場所で部活動をするとは聞いたことがない。少女も扉が開いてから、一切聞こえなかった物音に疑問を抱いたのかゆっくりと青髪ピアスの方向に顔を向けた。青髪ピアスはそのおとなしそうな顔立ちにあ、と声をあげた。少女もまたとっくに鞄を掴んで帰ったはずの青髪ピアスの姿に、茶色がかった瞳をまんまるにして吃驚していたようだった。日本人形のように、白く透き通った肌に、長く艶やかな黒髪、感情の見えにくい瞳、長いスカート。この今時珍しい可憐な少女と青髪ピアスは仲が良いと言えばどこか間違ってる関係だが、無類の女好きを謳う変態がこの絶好のシチュエーションを見逃すわけがない。青髪ピアスはいつものようにニコニコ笑いながら、自席に座る姫神にゆっくりと近づいた。

「何してはるん、姫神さん」
「日誌」
「手伝おうか?」
「ううん。もう終わるから。平気」

普段あまり話したことの無い青髪ピアスに話しかけられたせいか、姫神は緊張が見え隠れする微笑を浮かべたまま、日誌にペンを走らせる。見たところほとんど埋まっているので、姫神の言葉に嘘はないのだろう。青髪ピアスは姫神の隣の席のイスをあまり音がたたないようにゆっくりと引いて腰を下ろした。姫神は帰ろうとしない青髪ピアスが何故戻ってきたのかも聞かず、ちらりと一瞥しただけで、また視線を机に戻し、必死に黒で埋めようとする。日直は姫神ひとりではないはずだ。このクラスに集まる人間は、真面目とは言い難い人間ばかりで、普通はこのような単純作業はサボる。そして小さな担任に泣かれるの繰り返しだ。基本的には吹寄という正義感の強い少女が、このクラスのやる気のなさを怒鳴り散らしてくれるのだが、姫神はいつもその強烈な影の裏にひっそりと息をしている。大人しい、悪く言ってしまえば存在感のない少女だった。
青髪はいまだに日誌に真面目に取り組む姫神の姿に自分なら適当に書くのに、と関心しながらじっと見つめえいた。その視線に姫神は不快感を覚えたのか眉を潜め、ようやく青髪に口をひらいた。

「…なにか。用?」
「ううん、姫神さんはかわええなあっておもっとっただけやで」

姫神は可愛いと言われるのに慣れていないのか、ほんのりと頬を夕焼けに似た色で染め上げ、口元をきゅっとかんだ。そんな恥ずかしいそうにする少女の姿に青髪もこちらまで恥ずかしくなり、頭を掻いた。

「あー、姫神さん、ほんまかわええわぁ…」
「…それは。嘘」
「へ?」

ありがとう、といわれると思っていたが可憐な唇から漏れたのは否定的な、しかも冷たさを含んだ声色で、姫神は真剣に青髪の瞳をじと見つめた。

「青髪くん。みんなに言う。だから。信じられない」
「…」
「私は。誠実な人が。好き」

誠実。その硬い漢字二文字でも青髪ピアスには、彼女が何を言いたいのかがはっきり分かってしまった。姫神もまた、あのツンツン頭の友人との間に何かがあったのだろう。例えば命を助けられたとか、傷だらけになっても守ってくれたとか。まるで漫画の主人公のようなことを平気でやってのけてしまう友人に、青髪ピアスは嫉妬しながらも、自身の方が断然かっこいいし優しいといった自信があった。しかも、彼には無数に女の子がいるはずだ。彼女を諦める理由はひとつもない。

「あいつだけには、負けへんわ」
「え?」
「なあ姫神さん、今日は一緒に帰ってもええ?」
「?…うん」
「やったー!姫神さんと帰れるなんて、幸せやわ!」

姫神は青髪ピアスの口を大きく開いたあどけない笑顔に、目許を柔らかく細めた。

/僕たちの融解度