いつも通りのゆっくりとした時間が流れる日曜日の朝。百合子は突然、ギターという楽器を背負って雪道を歩いて自身の家までやってきた垣根にに、歌わせろと歌わせなきゃ此処で死んでやると軽く脅された。垣根が死にたければ勝手に死んでくれても別に構わないが、自身の家の玄関前で死なれると色々と厄介になる。余計に頭の回転が早いせいで卑怯な取引に及ぶ垣根に苛立ちながらも、面倒事が嫌いな百合子は渋々垣根を部屋に入れた。
何度も百合子の家を訪れたことのある垣根は迷いすら見せずに真っ直ぐリビングまで突き進み、高級ソファーにどさりと偉そうに座りこむやいなや、ギターをカバーから取り出した。まだ傷一つすらついてないところを見るとどうやら新品らしい。まさか垣根がそこまで音楽に興味があったことを知らなかった百合子は、垣根の一連の動作を見つめることしか出来なかった。しかし幾ら垣根が器用な人間だとしとも初心者のくせに人の家に押しかけてまで演奏するとは如何なものか。

「…金なら出さねェぞ」
「いらねえよ、そんなもん」

じゃらんじゃらん。垣根の長い指が六本に張られた弦をかき鳴らす。音楽というものにベクトルを向けたことがない百合子には、ギターもベースも似たようなものでしかなく、もしかしたらベースなのかもしれないがそれこそどうでもいい。兎にも角にも垣根の気が済めばすぐに終わる。百合子は眉をひそめながら床に座り込んだ。垣根はにいっと笑う。

「ちゃんと聞けよ」
「…もしかしなくても歌うつもりか?」
「歌う」
「いや、そこまでしなくてもいいから」

垣根の指がぴたりと止まる。誰がお前の歌なンて聞きたいンだよ。そう吐き捨てるように言えば、垣根は可愛くもないのに唇を尖らせた。

「昨日お前上条と話してだろ」
「はァ?」
「音楽について、なんか楽しそうにずっと話してたから」
「あれは別に三下が音楽番組に好きな歌手が出るって聞かされてただけなンだが…」

百合子の脳裏に浮かぶツンツン頭の少年。確かに昨日はやけに会話が盛り上がって楽しかったが一体それと垣根の何が関係あるのか。百合子が懐疑的に首を傾げたのを見た垣根は唸りながら頭をがしがしと掻いた。

「だから、お前あいつといるとすげえ楽しそうだから、お前は俺の彼女だけど本当はあいつが好きなんじゃねえかと!」
「…え」
「つまり、俺はもっとカッコ良くなってお前がどっか行っちまう前にべた惚れにさせなきゃいけねえんだ」
「…」
「あああああ、くっそ、黙るんじゃねえよ、恥ずかしいだろうが馬鹿女」
「いや、その、なンだ垣根くン。それでどうしてギターなンだよ」
「かっこいいから」
「…随分と安直だな」
「かっこいいだろ?俺イケメンだろ?」
「そォですね、垣根くンは超ウルトラスーパーイケメンでしたね」
「ぐ、…それ絶対馬鹿にしてんだろ。いいさ、せいぜい、俺の美声に火傷しないように気をつけろ」
「うわァうざいうえにきもい」

垣根は耳まで真っ赤に染めながら、じゃかじゃかギターを鳴らす。適当に作られたメロディーの上に出鱈目な英語が乗っかていく、がたがたのメロディー、外れる音、出し切れない高音。どれもこれも適当で、上手いとは言い切れない。めちゃくちゃだ。本当にこの男は音痴のくせにこんな馬鹿みたいな事で一人の女を落とせるとでも思ったのだろうか。だとしたら、何て笑える話だろうと百合子は苦笑する。自身には垣根以外など選ぶつもりはこれっぽちもないというのに。

(ほンと、馬鹿だよな)

そんな馬鹿が堪らなく愛おしいと感じてしまう自分の方が、とんでもない馬鹿なのかもしれない。百合子は歌い終えて肩を揺らす垣根に下手くそと呟き、大きな背中に手を回した。


/ハート・ハイジャックマン