あの頃の無邪気だった自分は一体何者だったのか。美琴は血のような赤い双眸に写る自身を見つめながら頭を巡らせる。
曲がったことが嫌いで、ただ一人の少年を心から愛していた美琴が、こうして違う男性と肌を重ね合わすようになったのはほんの三年前のことだ。
世界を救ったヒーローは突然学園都市から姿を消した。美琴は彼を必死になって探し、ようやく見つけ出した彼の友人と名乗る男からは、あいつは死んだ、とだけ無情に伝えられた。だが美琴は彼がいなくなってしまった本当の理由が一体何なのか、とっくのとうに気づいていた。単純な話だ。彼はあの少女を選んだのだ。あの子の隣で、あの子を守っていくと決意したのだろう。馬鹿みたいに真面目な彼はきっとそうする。美琴は彼のそういうところを好きになったのだから。
だがそれは同時に、美琴の幼い真っ直ぐだった心に大きな空洞を残してしまった。美琴は時間がある限り、部屋に引きこもり、どうして自分ではなかったのか、何度も後悔して、涙を枯渇させた。自己嫌悪を繰り返し、果てには命すら絶とうとまで考えた。そんな傷だらけの美琴を励まし、不器用な言葉で背中を押してくれたのが、不思議なことに一生かかっても分かち合えないと思っていた一方通行だった。一方通行は、妹達の件で美琴に多少なりとも罪悪感を感じていて、その償いとして側にいてくれたのかもしれない。だが傷心の美琴にとって一方通行の優しさはひどく居心地の良いものだった。一方通行の優しさに甘え続け、こうして曖昧で愚かな関係を続けるようになった。
それからあっという間に数年がたち、ようやく美琴は彼への想いにピリオドを打った。肩まで伸びていた茶色の髪と一緒に、春風にのせて世界のどこかに置いてきた。そしてどん底から救ってくれた一方通行に何としてでも恩返しをしようと決意した。

それなのに、どうして今更あの少年を思い出しているのだろう。

「美琴?」
「え、あ、何?」
「いや、ぼォっとしてたから」
「あ、ううん、何でもないわ」
「…」

一方通行の硬い手のひらが、美琴の頬を滑り、茶色の髪の毛を優しく梳く。その心地の良さに美琴はまぶたを閉じて、口元をふわりと緩めた。指の先からそっと伝わるこの温かさが永遠に続けばいい。胸の内側からこみ上げてくる幸福感に美琴は酔っていると、ふと何かが頭の中をよぎり、目をぱっと開けた。
大きい右手が、彼と重なる。胸を締め付けるような優しさが、名前を呼ぶ声が、彼の眩しい笑顔を彷彿させられる。
美琴は急に目頭が熱くなった。そのまま視界をぐるりとぼやけさせると、一方通行の赤い瞳が大きく丸みを帯び、ダメだと頭の中に存在する冷静な自身が命令する。しかし、瞳の海はあっさりと溢れかえり、輪郭が溶けそうなくらい熱い涙が美琴の頬を伝い、シーツの上にぼろぼろと零れた。
彼が大好きだった。本当に愛していた。
一方通行は、ぐじゃぐじゃになってしまった美琴の頬や目尻を手のひらでそっと拭う。

「…泣き虫は治らねェンだな」
「…っ、ちょっと…色々と思い出しちゃって…」
「アイツのことか…?」

一方通行の低い声に、美琴は首を縦に振った。

「あはは、バカよね、私ってば、本当にバカ。…終わったと思うと、なんか急にあの頃の自分が抱えてたものが押し寄せてくるっていうか…」
「構わねェよ」

くつくつと一方通行の肩が小さく揺れる。美琴は鼻をすすり、いまだに自身を子供扱いをする一方通行をきっと睥睨した。

「笑わないでよ、もうっ」
「慣れてっからなァ、泣き虫美琴ちゃンには。泣けるうちに泣いとけ」
「…ねえ、アンタなんでそんなに優しいのよ」
「あァ?」
「私は、こんなにウジウジしてて、それにその、こ、こんな関係にまでなっちゃって…。アンタはどうしてそこまでしてくれるのかなって。まだ妹達のことが気になってるの?」

一方通行は美琴の言葉に、眉を潜めた。

「オマエ、それ本気で言ってンのか?」
「な、何よ」
「…はァ、オマエは本物の馬鹿女だな。いいか、一度しか言わねェぞ」
「うん」
「……オマエが好きだからに決まってンだろ、くそったれ」
「え!?」
「…」
「…」
「帰る」
「ちょっ、一方通行!待って!」

一方通行は美琴の呼びかけに答えず、普段から青白い肌を耳まで真っ赤に染めたまま、首もとの黒いチョッカーを弄り、凄まじいスピードで部屋から出て行った。
美琴は激しく高鳴る胸を押さえながら、静寂が広がる部屋に残る、一方通行との温もりの形跡を見つめた。海に行った写真、プリクラ、貝殻、カエルのぬいぐるみ、二人分の色違いのマグカップ。数え切れないくらいの優しさと温もりが、美琴の心臓を柔らかく包み込む。好きだ、と自身に向けた一方通行の想いが頭の中で何度も何度もこだまする。

「あ、」

気づくにはあまりにも遅かった。一方通行が美琴の側にいたのは、憐れみでも同情でもなかった。ましてや償いでもない。一方通行は、不器用に美琴を愛してくれていた。誰よりも苦悩して、罪との狭間でもがきながら、あんなにも愛してくれていた。

「…アイツも、バカなんだから」

美琴はさっと立ち上がり、能力を使って全力で逃亡してるであろう一方通行を追いかけるため駆け出した。


/始まった心音