小説 | ナノ


▼ 30

僕、トム・リドルの人生は彼女のためにあると言っても過言ではなかった。
そう言うと、きっとこの部屋で一緒に薬の調合をしている黒髪黒目で端正な顔立ちの女性……星灯香先生には気持ち悪いものを見る目をされるに違いない。天才で特別な彼女の目に僕が映る時間が増えるなら、それはそれでいいのだが。

――ゴリゴリ、ガサリ。

薬となる薬草を磨り潰す音、新たな材料の袋を開ける音。それが響いている間、僕らはお互い集中していて、会話らしい会話は殆どない。けれど、僕は彼女について気になることがあった。

「(何故、陰で暗躍したり医者の真似事をしているんだろう。かつての彼女はどちらかと言えば常に脚光を浴びているような人だったのに)」

今でも目を閉じれば昨日の事のようだ。
星先生と僕が過ごしたあの夏休み、一緒に食べた食事、新聞記者が自宅に押し掛けた時驚き笑ってインタビューに答えていた……――何なら発表したての研究内容を相手の記者が理解できるまで丁寧に説明していて半ば授業のようになっていた……――事とか、それから。










「今日は皆に知らせがある」

カンカン、と当時の校長……ディペットが自らのグラスをスプーンで鳴らして夕食前の挨拶を始めた。目の前のスリザリンの同級生がこっそりチキンウィングに手を出しているのを優等生っぽく苦笑しながら咎めて、僕たちは壇上で咳払いをする校長を見た。
彼は僕が尊敬してやまない若き天才……星灯香を隣へ招く。彼女が席を立って髭を蓄えた老人の元へと向かうその時、隣に座っていた男の教員が彼女の背中に鋭い視線を向けていることに、きっと僕だけが気が付いていた。今思えばその男を、僕はずっと観察しておけばよかったのだ。

「ここにいる我らが才女、高等魔法薬学を設立したホグワーツの誇り……Ms.星が発表した最新の研究“空気中の菌を殺すアロマ式魔法薬”が、なんと感染病のリスクを50パーセント下げるという効果を立証した」

多くの生徒がざわざわと喋りだし、“すごい、次々功績を残して……やっぱり天才なんだな”“選択科目が人気過ぎて取れないのよね、仕方ないから普通の魔法薬学受けるしかないんだけど”“来年こそ科目選択の抽選当たればいいな”と口々に言う。
あの男……当時の魔法薬学教諭があの才女に嫉妬する理由はそこにあった。



「その功績と社会的貢献を讃え……――」



今でも思い出せる。その後のあの男の狂気の目。


「魔法大臣賞を受賞することが決まった!」


忌まわしい夜。


――おめでとう!星先生万歳!
――おめでとう!おめでとう!
――魔法薬学の革命家!
――授業の枠を増やしてください!


引きつるように笑って拍手を送っていたあの男に、細心の注意を払うべきだったのに。





パーティーと化した夕食会の後、僕は取り巻きを振り切って廊下を急いでいた。先生に僕からもおめでとうと伝えるつもりで、先生の研究室へと続く階段の近くに辿り着く。辿り着いて、僕は言葉を無くした。

「……せん、せい」

そこに横たわっていたのは、紛れもなく今夜の主役だった彼女。
身体を染めるようなその血の量と、駆け寄り触れたその生暖かさに、生まれて初めて涙が込み上げた。僕は何度も何度も、他の教師を呼ぶのも忘れて蘇生呪文を掛けた。それなのに血が止まらず、何の反応もない。こんな時に涙が視界を遮って煩わしい。視界を悪くしている場合じゃないのに。
僕が泣きながら蘇生を試みているそこを走って横切った男がいたのを、数秒して気が付きそちらを振り返る。

――……あいつだ。

本能がそう言った。あいつが先生を殺したんだ。今日の先生は祝杯と言って酒を勧められていたし、不慮の事故で動く階段から転落したと言えばそこまでと踏んで、突き落としたんだ。そうに違いない。
僕は男を壁に追い詰めて、最初から殺すつもりでいたのか尋ねる。
男は狼狽え泣きながら言った。

「違う……殺そうなんて思ってなかった」
「じゃあ何で先生は死んだ!」
「は、弾みだったんだ。デートに誘って断られたから、軽く肩を押して」
「……デート?ハッ、どうせもう自分の力量じゃ彼女に追いつけないと踏んで、それならいっそ彼女を弄び地位を利用しようとしたんだろう。……お前の欲しいものは彼女に与えられた羨望と名誉、それだけだ!」
「違う!そんなんじゃ……」

ああ、汚らわしい。
僕に縋るな、触るな。お前なんか人間とすら認識できない。教諭だったなんて、とんだ人選ミスだ。

「続きはアズカバンで話せ」
「ヒッ……い、嫌だ!あそこは、あそこだけは!」

更に僕へしがみつくその手を、切り落としてやりたい気持だった。
しかし僕は先生と約束していることがある。




――先生は、僕に何か期待することはありますか?
――何?いきなり。
――最近、周りの教師や学友が僕の進路について何かと煩くて。
――ああ……君、優秀だものね。それで、周りはなんて?
――魔法省で官僚になれとか、もっと非現実的なのだと大臣になれとか。
――ハハッ。君が大臣や官僚に?それは見てみたいかもね。
――先生は……先生は僕にどうなってほしいですか?

そんな他愛もない会話の中、先生はあの時珍しく真剣に唸ってから、笑って応えた。

――私は、君が人を殺したり過ちを犯さなければそれ以上は何も望まない。それが何より君のためだからね。

――だから約束してよ。誰も手に掛けたりせず、復讐にも囚われないって。



その言葉がなければ、僕は目の前で惨めに這いつくばるこのどうしようもない男を殺して学校も辞めたかも知れなかった。
騒ぎを聞きつけた校長やダンブルドアが男を取り押さえて、先生の名を呼び泣き続ける僕を教師陣が職員室へと連れて行き、僕の証言と現場の状況、男に真実薬で自白させたことが裏付けとなって、奴には思いのほか重い刑が下った。
魔法薬学の先駆者……ひいては魔法大臣賞を受賞することが決定していた彼女を殺害したことが、魔法界に与えた影響と損害は著しかった。
一番問題だったのは、高等魔法薬学という教科自体、卒業生や専門教諭を輩出することが出来ずに無くなってしまい、誰も今後教えることのない幻の教科になってしまったことだった。それを嘆いた魔法薬学会の役員を生贄に、僕はあの邪気のない女性を生き返らせると、その後誓うこととなったのだ。





「先生」
「うん?」

目の前で大鍋を掻き交ぜる彼女は、間違いなく生きている。
それが心から嬉しい。

「先生が鬼殺隊で前線に立たずに隠をしていたのは、やはり人前に立ち続けることへのトラウマですか」
「……」

暫く、彼女は答えなかった。
聞いてはいけないことだったかもしれないけれど、僕はどうしても確かめなくてはと思ったのだ。もし先生が目立つことになるその時は、僕が影武者にでもなって今度こそ彼女を守ると決めている。じっと、答えを待った。
すると徐に星先生は振り向く。彼女は約束を交わしたあの時と同じ笑みを浮かべていた。

「私は、自分の個性が認められるこの組織で、失いたくない大切なものを守れたらそれでいいんだ……。だから、裏方くらいがちょうどいい」

そう言う先生は、自分で両肩を抱くように擦ってまた僕に背を向けた。
微かに震えるその後ろ姿に僕は何かしてあげたくて、カランと道具をテーブルに手放した。

「嫌なことを思い出させてしまいましたね」
「何を……」
「ねえ先生、僕は貴女の為なら代わりに死ねますし、呪われろと言われれば呪われます。薬の実験も、どこまでもお供します」
「死ぬだなんてまだそんな馬鹿な」
「だからもう……僕の前からいなくならないと、約束してください」

後ろから縋るようにその華奢な体を抱きしめた。
どうかもう、いなくならないでほしい。
先生は僕の腕にそっと手を載せて、とん、とん、と一定のリズムで叩いた。
まるで子供をあやす母親のような行動だったが、それでも先生からの触れ合いは貴重だった。

「ごめんね。こんな物騒な世の中だから、約束はできない。現にあのお寺で鬼に襲われかけた時、私はもう一度君に死体を晒すんだと覚悟したこともあったし、これからもそういう事はあるだろうね」
「……こんな時くらい、約束するふりをしてくれてもいいじゃないですか」
「出来ない約束はしないよ。君に対して不誠実でしょう。……それに安心してよ、もう簡単には死なないから」
「……」
「あ、その顔……さては疑ってるね?」
「……」
「さっき、言ったでしょう?私は失いたくない大切なものを守るために此処にいる。そこにはリドルも含まれているの……。君が生きている限りは、私も生を全うできるように頑張るから」

それを約束という事に出来ないかな。
と困ったように笑った彼女は、完成間近の魔法薬を大鍋からろ紙へと流し瓶に移し替えているところだった。余分なものを取り除いて流れるそれを、僕は自分の心と重ねる。完全ではないが、先生は僕の気持ちに渦巻いていた余計なものを、こうして取り除いてくれた気がした。




――……あの時は、心からそう思えたんだ。

prev / next

[ back to top ]